実は一般公開されていないココ

こちら、大阪と奈良とを結んでいた、現在は使われていない(内部で新線の一部として使われているところはある)
旧生駒トンネル
たまたま、見学できる機会があったので喜んで参加してきた。
場所はここ
ちなみにこの生駒トンネル、1964年まで使用されていたが、
車両規格の関係で使用されなくなり、現在は新生駒トンネルが近鉄によって利用されている。
往年の雰囲気をそのまま残しているスポットということで、まあまあ有名なこちら



現在は普通には入ることはできず、特別な公開時のみ見ることができる。
なお、こちらの独特の雰囲気を醸し出しているもう一つの理由が、
このトンネルの手前にあるとあるものによる。

何かわかります?

実は廃駅跡が残されている。
こちら
孔舎衛坂駅跡
といい、廃線関係が好きな人にはとても有名なスポット。
夜は怖そう・・・。
フェンスの外から一部見ることはできるが、なかなか入る機会はないので貴重なわきみちスポットだと思う。
なお、この生駒トンネル。
映画『パッチギ』で一部セリフにあったように、建設にあたって朝鮮半島からので稼ぐ労働者が関わっていた点や、
大正時代の建設時に起きた落盤事故、戦後に起きたブレーキ故障による追突事故など、歴史的に学ぶべき点も多々ある。

1120【大阪紀行】長い坂道の参道を抜けるとそこに広がる、2600年の歴史をもつといわれる『石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)』
大阪の市町村で言うと、東大阪市にある神社です。この神社を中心として、駅から続く長い参道、そしてそこに立ち並ぶ数々のお店など、この神社を中心とした町づくりが行われている場所なのです。その神社の名前を石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)といいます。

1063【大阪紀行】大阪市南部を流れる大きな川。しかし、かつての川筋は全く異なるものだった『大和川』
現在では奈良から流れてきた大和川は、東から西へ流れていき、最終的に大阪湾に流れ出ています。これが今では当たり前のようになっていますが、実はかつて大和川はこのような流れではなかったことをご存じでしょうか?実は、東から西ではなく、南から北に向けて流れていたのがかつての大和川だったのです。では、なぜ今の大和川は東から西に流れているのでしょうか?かつての大和川にいったい何があったのでしょうか?

1052【大阪紀行】地すべり被害から奇跡的に見つかったかつてのトンネル『旧大阪鉄道亀瀬隧道』
昭和7年に発生した地滑り災害によって、国鉄関西本線が所有していた亀瀬隧道(亀瀬トンネル)が巻き込まれて崩落してしまったのでした。そんな未曽有の災害によってすっかり崩壊しつくしてしまったと思われていた亀瀬隧道。しかし、それから約80年後の平成20年。亀の瀬の地すべり対策とて、排水用トンネルを建造していたさなかに、この亀瀬隧道の一部区間がほぼ無傷の状態で残っていることが発見されたのです。

1036【大阪紀行】時は江戸時代。大和川の付替えによって作られた新田、そしてその会所跡『安中新田会所跡・旧植田家住宅』
今回紹介している『安中新田会所跡・旧植田家住宅』は、大阪の新田開発にまつわる史跡なのです。新田開発されると、そこの運営を行うために人びとが集まる会所というものが要所要所に造られました。その中の人がこの安中新田会所跡であり旧植田家住宅なのです。

853【大阪紀行】かつては大阪から奈良へ抜ける主要街道だった途中の要所。今でも最恐の酷道といわれる『暗峠』
大阪ー奈良間を最短で結ぶ峠越えが存在します。その峠越えは、かつての街道として存在した峠なのですが、現在も存在し利用し続けられている峠なのです。その峠を暗峠(くらがりとうげ)といいます。この峠、知る人ぞ知るあることで有名な峠なのです。

852【大阪紀行】空海が掘り起こしたとされる伝説のある井戸。今もなお水の湧き出続ける『清浄泉』
今回紹介しているのは、大阪と奈良との間にある生駒山から湧き出る湧き水の一つである清浄泉と呼ばれる湧き水についてです。生駒山の岩盤の中を長い時間かけて湧き出てきたこの湧き水は、その歴史としては空海の時代にまでさかのぼるとされています。

832【大阪紀行】生駒山を越える峠の一つ。暗峠ほどではないが、それでも急こう配なヒルクライムの聖地『十三峠』
近畿地方の大阪と奈良の間には高い壁があるのです。それが生駒山。大阪から奈良に向かうためには、この巨大な山が立ちはだかっているのです。そんな大阪ー奈良間なのですが、いくつかのルートがあります。
その中の一つに、十三峠越えというものがあります。