本日は、和歌山県の高野山の玄関口にある九度山についてです。
なぜこのような、一町村を?となるかもしれませんが、この九度山という場所は、とあることで有名な場所です。
それは、1600年におこった関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・真田幸村親子が流罪となった地です。
真田昌幸はこの地で生涯を閉じ、真田幸村は大坂の陣までの14年間ここで蟄居生活を送りました。
そんな九度山町。
2016年の大河ドラマ『真田丸』で脚光を集め、一気に真田パラダイスとして整備されました。
というわけで、今回のわきみちは、
真田幸村の兄、真田信之の城であった松代城の記事です。

過去の和歌山関連の記事です。



真田一族の歴史
それでは今回の記事の中で中心となってくる真田一族についてです。
主な登場人物は3名。
真田昌幸(信之・幸村の父)
真田信之(幸村の兄)
真田幸村(信繁)
です。
以下、幸村(信繁)と昌幸をピックアップして紹介します。
真田幸村(真田信繁)
『真田丸』でも主人公であった真田幸村ですが、本来は真田信繁であり、この幸村という名は後世に創作されたという話がありますが、大坂夏の陣の時に幸村に変えたといわれている話もあります。
真田昌幸の次男であるこの幸村(信繁)ですが、強豪の力によって翻弄される真田家にあって、その人生そのものも翻弄され続けます。
上杉景勝のもとへ人質として送られたり、豊臣秀吉が天下統一後は、今度は大坂の地へ人質として移されたりします。
しかし、そこで秀吉から見いだされ、重臣として重用されていくこととなります。
義を貫き、関ヶ原の戦いでは豊臣方に与します。
この真田の親子ですが、関ヶ原の戦いのときに、昌幸・幸村(信繁)は豊臣方、信之は徳川方に分かれて戦うこととなります。
昌幸と幸村(信繁)は、関ヶ原の地ではなく、拠点である上田の地で徳川秀忠軍の足止めに成功するものの、関ヶ原の戦いでは豊臣方が敗北。
その後、父・昌幸ともに九度山後に蟄居させられます。
14年間の幽閉の後、豊臣方から声がかかり、大坂の陣を戦うこととなります。
大坂冬の陣では出城『真田丸』を築き、徳川方を撃退するなど豊臣方の主力とて活躍しますが、その翌年の夏の陣にて、49歳で討ち死にを遂げます。
徳川方からも「日本一の兵(つわもの)」と称えられるほどの武将であったのです。
真田昌幸
信之・幸村(信繁)の父・真田昌幸は、武田信玄の家臣として活躍した真田幸隆の三男として誕生します。
三男として誕生した昌幸でしたが、長篠の戦いで兄を失ったため、真田家の家督を継ぐこととなり、武田に仕えた武将です。
子である真田信之・幸村(信繁)と共に、強豪ひしめく戦国の世を、知略を用いて生き抜いていきます。
武田信玄からその才能が寵愛を受けたと知られていますが、武田家が滅亡後は、強大な勢力と対峙するために、上杉氏や北条氏、豊臣氏、徳川氏。強大な力の中を、従属や対峙を巧みに使い分けていくこととなります。
そして、一戦国大名として上田城を築城し、小数の兵で徳川の大軍を破りさった第一次上田合戦などで、その名声を高めていきます。
豊臣秀吉が天下統一したのちは、上田の領主として秀吉に仕えます。
しかし、秀吉の死後、台頭してきた徳川家康と対峙し、1600年の関ヶ原の戦いでは、豊臣方である西軍に与し、徳川秀忠軍の大軍を破ります。(第二次上田合戦)。
ところが、関ヶ原の戦いでは西軍が大敗し、幸村と共に高野山の九度山に配流され、そこで65年の生涯を閉じます。
真田丸

2016年に放送されたNHK大河ドラマ『真田丸』です。
大河ドラマでは初となる真田幸村(信繁)が主人公となる物語でした。
真田幸村(信繁)というと歴史的に見れば敗軍の将です。
しかし、歴史には勝者の歴史がある一方で、もちろん苦渋をしいられてきた敗者の歴史もあります。
この真田丸は、敗軍の将から見た歴史が綴られ、大きな力に知略縦横を駆使して立ち向かっていく真田一族の生き様が描かれた大作です。
DVD/ブルーレイ化もされています。
九度山
では、真田昌幸・幸村(信繁)が幽閉された九度山の真田パラダイスをたどっていきたいと思います。
真田庵

まずは真田庵です。
ここは真田昌幸・幸村(信繁)の蟄居時代の草庵跡と言われている場所です。
現在は善名称院という寺院であり、別名で真田庵といわれています。

寺院に入ってみましょう。

真田の家紋、六文銭がありますね。
写真の左奥に、真田昌幸の墓碑があります。

真田幸村(信繁)と共に、真田大助の忌碑がありました。
真田大助というのは、幸村(信繁)の息子です。
大坂夏の陣で、豊臣秀頼と共に自害し、その生涯を閉じました。

敷地内にある真田屋敷跡です。
いろいろ張り紙をがしてあります。
エンマ様??
真田ミュージアム

大河ドラマ『真田丸』に合わせて2016年につくられたミュージアムです。
真田一族の歴史から、中心人物たちの解説。
大坂冬の陣・夏の陣の勢力図など、真田にまつわる歴史をたどることができる博物館です。
真田の抜け穴



200mほど移動したところには、真田の抜け穴伝説と言われている、跡があります。
ただしこちら、実際は古墳(真田古墳)だそうです。
以前、大阪の中心、天王寺区にある真田の抜け穴について書いた記事です。
いたるところに伝説が残っているのですね。


さあ、いかがだったでしょうか。
なお、真田にまつわる史跡は意外と日本全国にあったりします。
敗者から見た歴史を知ると、歴史も一筋縄ではないなと考えさせられてしまいます。
和歌山、高野山方面へ行くときは、ぜひこちらも訪ねてみてください。