大阪市の天王寺区真田山。
ここはその名前からもわかるように、真田幸村にゆかりのある場所です。
真田幸村が、大坂冬の陣の際に設けた出城である真田丸。
この真田丸があったのが、現在の真田山のあたりだったといわれています。
さらに具体的にどこにその場所があったのかというのは長らくははっきりしないままだったのだそうですが、だんだんと研究も進んできて、おそらく現在の明星学園の敷地、および心眼寺のあたりに真田丸があったであろうということが分かってきています。
そのため、明星学園の場所には真田丸に関する碑と説明があります。
そして心眼寺は、そもそも真田幸村とその息子の真田大助の菩提を弔うという目的で再建されたこともあるので、近年真田幸村の墓も設けられることになりました。
このように、かつて大阪に存在した豊臣秀吉の大坂。
その時代の片鱗を見ることができる史跡がこの場所には集まっているのです。
今回はこの真田丸があったとされる明星学園及び心眼寺について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
真田幸村に関する記事です。



心眼寺と明星学園
かつて、徳川家康がその地勢をゆるぎないものにするために大坂で繰り広げられた大坂冬の陣、そして大坂夏の陣。
この戦いの結果、豊臣家一族は滅亡し、ここに徳川の治世が完成したのでした。
この大坂冬の陣の際、大坂城は鉄壁の守りをもつ城ということで、徳川とえども攻め落とすことは難しい城でした。
しかし、そんな鉄壁の大坂城ではあったものの、北と東西は堀に加えて川や海といった自然の要害によって攻め入ることは難しい城でしたが、城の南側だけはそういった自然条件がなく、唯一守りが手薄になる可能性がある場所でした。
そんな大阪城の南側に造られた出城が真田幸村が造った真田丸なのです。
これ以前の真田幸村は、1600年の関ヶ原の戦いによって失脚していました。
真田幸村がついた西軍はこの合戦で大敗し、敗軍の将となった真田幸村とその父親である昌幸は、現在の和歌山県高野山、その後九度山に流されて、そこから14年もの間歴史の表舞台からは消えてしまいます。
その期間に父親であった昌幸は死去。
先々の行く末も見えない状態のままの生活を過ごしていた真田幸村のもとにチャンスが訪れます。
大坂冬の陣が勃発し、豊臣秀頼から声がかかって大坂城へと入ることとなります。
すぐに豊臣方の中心的なポジションになった真田幸村は、大坂城の南側が手薄になることをすぐに見抜き、この場所に出城を築くことになります。
これがかの有名な真田丸なのです。
大坂冬の陣ではこの真田丸によって、南側から攻め入ってくる徳川方の武将をことごとくなぎ倒し、大坂城を守ります。
しかし、豊臣側は徳川からの和議を受け入れ冬の陣は終わります。
ところが、和議の条件として大阪城の堀の大半は埋められてしまいます。
そして、真田丸もその際に破却されてしまいます。
これによって裸の城になってしまった大坂城は、その後徳川方による言いがかりによって勃発した大坂夏の陣で滅亡にまで追いやられてしまうことになるのです。
そんな真田丸の場所ですが、数々の文献などによると、現在大阪市天王寺区にある明星学園のグラウンドになっている場所に真田丸があったとされています。
そして、学園の南側の道路がかつての堀だった場所であり、ここで戦いが繰り広げられ、堀には徳川方の無数の遺体で埋め尽くされていたと考えられます。
そしてもうひとつ、真田丸の跡と考えられているのが、明星学園のすぐ東側にある心眼寺です。
実際この心眼寺は、元々は関ヶ原の戦い以前に創建された寺でした。
しかし、真田幸村が大坂冬の陣の際にこの付近一帯を真田丸として整備する際に寺の敷地がそこに取り込まれてしまいます。
そして、真田丸が破却される際に真田丸ともども壊されてしまいました。
真田丸がその後再建されることはもちろんのことながらありませんでしたが、心眼寺は大坂冬の陣から8年後に再建されます。
そして、再建された心眼寺では、真田幸村とその息子の真田大助の菩提を弔うことになったのです。
長らく真田幸村の墓がこの心眼寺にあったわけではありませんでしたが、2014年に真田幸村400回忌に合わせて心眼寺の敷地内に真田幸村の墓が作られることになりました。
このように、この明星学園、そしてその対面にある心眼寺は真田幸村にゆかりのある場所として、今もなお歴史好きな人々が多く訪れる場所になっているのです。
アクセス
JR環状線玉造駅から南西に600mほどの場所にあります。
心眼寺と明星学園へ行ってみた
それでは、心眼寺と明星学園に行ってみましょう。

玉造駅から歩いていって、小高い坂を上っていくと、明星学園の校舎が見えてきます。

まずやってきたのが明星学園。
中高併設しているこの私立学校の敷地内で、現在はグラウンドになっているところがかつての真田丸の位置だとされています。
そのグラウンドの横に、真田丸顕彰碑が建てられています。

大河ドラマで『真田丸』が放送された際にこの辺りの真田幸村関係の史跡は、案内が立てられたり、整備されたりするなどして非常に見やすくなりました。
この顕彰碑もそのころに建てられたのか、比較的新しくなっています。

こちら大坂冬の陣の配置図ですね。

顕彰碑の下には、真田家の家紋である六文銭がありました。

こちらは豊臣家の家紋ですね。

そして、この顕彰碑の対面に心眼寺があります。
早朝に訪問したため、中に入ることはできませんでした。

真田幸村の出丸(出城)跡という碑があります。

真田丸についての解説です。
どのあたりの位置に真田丸があったのかの地図情報も描かれていました。

こちらの心眼寺には、真田幸村・大助親子関係の史跡だけではなく、坂本龍馬を暗殺したとされる京都見廻組の桂早之介及び渡辺吉太郎の墓もあります。

なお、こちらは明星学園の西側の道路なのですが、明星学園のグラウンドの下に石垣が残っている様子を見ることができます。

またこちらは、明星学園の南側の道路です。
現在は道路となっていますが、かつてここには堀があり、真田丸に攻め入って破れた徳川方の無数の兵士の遺体がこの堀には山積みになっていたと考えられます。
いかがだったでしょうか。
現在はかつての面影すら見れなくなったこれらの場所。
しかし、かつてここで激しい戦いがあったことを想像しながら、どこにどのような建造物が造られていたのかをイメージしながら散策してみると、非常に興味深い場所なのだなあというのがよくわかるかと思います。
駅からも近く、アクセス抜群の真田丸関連の史跡をぶらり見に行ってみませんか。