1036【大阪紀行】時は江戸時代。大和川の付替えによって作られた新田、そしてその会所跡『安中新田会所跡・旧植田家住宅』

近畿地方(Kinki)
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大阪には大きな河川が2つ流れています。
一つが大阪市の北部を流れる淀川です。
琵琶湖水系である淀川は、下流域の人々の生活を支える大動脈といっても過言ではないほどの重要な河川なのです。

そしてもう一つが、大阪市の南部を流れる大和川です。
奈良県から流れ出てくる子の大和川もまた重要な河川であり、ここを大量の水が流れることによって、奈良県や大阪の水害を防いでいるのです。

この2大河川なのですが、現在流れているどちらの川も、実は人の手によって造られたものということはご存じでしょうか。
淀川は、かつて流れていた淀川と比べるとその幅が何倍にも拡張され今に至っています。
そして大和側に至っては、かつて流れていた川の形そのものが今とは全く異なるものなのでした。
現在の大和川というと東から西に向けて流れる川ですよね。
しかし、かつては、大阪を南から北に流れる川だったのです。
その時代の大和川というと、数多くの水害をもたらしたなかなかにやっかいな川だったそうです。
そこで、現在のように東から西へと流れる大和川へと付け替えられたわけですが、その際にかつて川だったところの多くは新田として開発されたのです。

今回紹介している『安中新田会所跡・旧植田家住宅』は、そんな新田にまつわる史跡なのです。
新田開発されると、そこの運営を行うために人びとが集まる会所というものが要所要所に造られました。
その中の人がこの安中新田会所跡であり旧植田家住宅なのです。
今回はこの大阪は八尾市に残る、会所跡である安中新田会所跡・旧植田家住宅について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 今ではほとんどが姿を消した新田会所。しかし、これほどの建物が今もなお残っている貴重な場所、安中新田会所跡旧植田家住宅に行ってみよう。

生駒山とその近隣に関する記事です。

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安中新田会所跡・旧植田家住宅

安中新田会所跡・旧植田家住宅とは、八尾市にある国登録有形文化財及び、指定文化財、史跡に指定されている建物です。

大阪ではかつて、南から北に向けて流れていた大和川がありました。
現在とは流れが大きく違っていた大和川なのですが、かつては奈良県から流れてきた大和川が柏原村で石川と合流し、その後久宝寺川と玉櫛川とに分かれて、最終的に淀川へと合流していました。
しかしこのかつての川筋では、古代からずっと洪水被害が多発しており、人々の悩みの種となり続けていたのでした。

そこで考え出されたのが、大和川の川筋を南北から東西に流れるようにして、洪水被害をなくしてしまおうというものでした。
多くの農民たちの直訴は江戸幕府を動かし、1704年になって大和川の付替え工事が行われることとなりました。
大和川の工法は、地面を掘ってそこに川を流すのではなく、堤防を両サイドに設けて新たな川をもうける工法で造られました。
そのためか、なんとこの時代にありながらわずか8カ月という短期間で付け替え工事は完成してしまったのでした。

新たな大和川が完成すると、かつての川筋であった場所や池などは新田として開発されていくようになります。
この際に川筋に沿って数多くの新田が作られるようになり、その中の一つに今回紹介している安中新田もありました。

安中新田の支配人となったのが、植田家でした。
そして、現在の安中新田会所跡が会所として使われるようになり、その後支配人となった植田家の住宅としても使われるようになったようです。

安中新田会所跡・旧植田家住宅の建物は、主屋、表門、土蔵、控舎などによって構成されています。
この中でも主屋と土蔵は江戸時代後期の物であり、会所として利用されていた当時の姿楚そのまま残している可能性があると考えられています。
表門と控舎は明治中頃の物であり、もう一つある土蔵は大正期の物と考えられています。

アクセス

JR八尾駅から東に徒歩ですぐの場所にあります。

安中新田会所跡・旧植田家住宅に行ってみた

それでは、安中新田会所跡・旧植田家住宅に行ってみましょう。

こちらが安中新田会所跡・旧植田家住宅です。
町中の一角に突然歴史ある建物が姿を現します。

入ってすぐ右側には土蔵があります。(※上の写真は土蔵側から撮ったものです。)
土蔵では企画展が行われているようで、訪問したときには昔の道具展が行われていました。
土蔵の中は2階にも上がれたりするので、なかなか貴重なものを見ることができますよ。

それでは住宅の方を見ていきましょう。
早速見えているのは土間ですね。
昔の家屋らしいつくりです。

大和川の付替え事業についての案内図です。
川の跡にどれだけ新田が造られたのかが一目でわかります。

こちらは玄関になるようで、江戸期にはなかったものです。
明治になってから設けられ、明治後期になるとこの右側には土蔵に向かうための廊下も設けられました。

玄関を上がったところクチノマと呼ばれており、住宅の模型が置かれています。
では、住宅の内部も見ていきましょう。

こちらは乱箱(みだればこ)と呼ばれる箱です。
畳んだ衣服類などを一時的に入れておくための浅い箱です。

こちらはナカノマと呼ばれる部屋です。

こちらは一家の主の部屋を再現しています。

糸紬の道具です。
大阪市南部からこの地域にかけては綿花栽培が盛んなところです。
糸紬も盛んに行われていたことでしょう。

こちらは座敷です。
屋敷内には2つの座敷と書かれた部屋があります。

洗面所ですね。
年季の入った設備です。
庭を眺めながらの明るい洗面所にいると毎朝気分良くなりそうですね。

裏庭の様子です。
なお、ここに見学者用の駐輪場も設けられています。

廊下です。

裏庭に出るためのところですが、ここは面白い造りをしているなと感じました。

茶室です。
茶室入り口はにじり口と言われており、このように小さなものとなっています。

表から見たにじり口です。
なぜこんな小さな出入り口になっているのかというと、武士が刀を差したまま入ることができないようにこのような大きさになっているのだそうです。
刀を預けて中に入ることで、茶室の中ではだれもが平等であるという茶の湯の精神を表しているのだそうです。

奥が茶室、そして手前がその準備をする部屋である水屋です。

こちらは仏間ですね。

仏間の手前の部屋には、神棚もありました。

そろばんやはかり、様々な道具が置かれています。

こちらが土間になります。
奥には台所があり、かまどなどもあります。

名産である綿花がつまれていますね。

七輪などの道具です。

柱の上には太鼓が。
何かの合図に使われていたのでしょうか。

カマヤと書かれています。
三連式の大きなかまどが設けられていました。

再び外に出てきました。
敷地内には展示室になっている建物もあります。
こちらは撮影はできないようになっていました。

入り口のすぐ横には神社もあったりします。
住宅内にこれだけの設備があるというのは、いかに地元で大きな力をもっていたのかがよくわかりますね。

いかがだったでしょうか。
大和川の付替えというのは、大阪の歴史の中でも相当に大きな事業でした。
そしてそのあとできた数々の新田は、多くの人々の生活を潤していったのです。
そんな歴史の証人的な施設というのは、現在ではなかなか見かけることができなくなってきています。
そんなな中で、ここまで保存状態よく建物が残されているというのは、相当に貴重な場所なのではないかと思います。
歴史ある街並み散歩として、訪れてみてはいかがでしょうか。