1040【滋賀紀行】かつて東洋一の小学校と言われた伝統的な校舎。現在は複合施設として活用される『豊郷小学校旧校舎群』

近畿地方(Kinki)
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今回紹介している場所は、滋賀県の琵琶湖の南側にある豊郷町(とよさとちょう)
この場所にはかつて実際に利用されていた、とてつもなく伝統的な建物が存在するのです。
その建物群が建造されたのは明治初頭の頃。
元々は豊郷小学校の校舎として建てられた建物なのでした。
しかし、ただの小学校の校舎と侮ることなかれ。
その規模といい、デザインといい、ここが小学校なのか!?と思わせられるほどの素晴らしいデザインで造られている校舎群なのです。

そんなかつて豊郷小学校が使って旧校舎が、豊郷小学校旧校舎群として地域の力によって保存・活用されているのです。
そんな豊郷小学校旧校舎群が注目されたのはとあるアニメがきっかけなのでした。
『けいおん』というアニメに登場する高校の校舎がこの豊郷小学校旧校舎群と酷似しているため、けいおんのファンが聖地巡礼として訪れることになったのでした。
それと共にさらに注目を集めることになったこの旧校舎群では、街と一体になってこの後者をフルに活用し始めることになったのでした。

今回はこの今もなお明治の面影を存分に残す豊郷小学校旧校舎群について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • ここが小学校!?と思わせられるほどの贅沢な造りの豊郷小学校旧校舎群を見に行ってみよう。

滋賀県に関する記事です。

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豊郷小学校旧校舎群

豊郷小学校旧校舎群は、かつて滋賀県豊郷町にある豊郷小学校が校舎として利用していた校舎群です。
この建物は、古くは明治初頭に建てられた初代校舎(の一部が現在は現存しています。)
そして、昭和初期に建造された2代目校舎なのです。
これらの校舎群なのですが、当時の建築技術の粋を集めて造られた建造物であり、その姿からは、「白亜の殿堂」や「東洋一の小学校」と呼ばれたほどの建物なのでした。
なぜそれほど素晴らしい建造物になったのかというと、この後者が建てられた経緯によります。

豊郷小学校旧校舎群の現在のメインにそびえたつ校舎は、昭和初期に建てられた2代目校舎になります。
この後者なのですが、街が建造したものではなく、豊郷小学校出身で、商社の丸紅の専務取締役であった古川鉄治郎氏の私財によって建設されたものなのです。
その設計は、日本に数多くの西洋風建築を残したヴォーリズ率いる建築事務所と共に行われ、その当時としては非常に珍しい鉄筋コンクリート造の校舎となっています。
その時代を先取りした荘厳な姿が、人々に「白亜の殿堂」や「東洋一の小学校」と言わしめたのです。

しかし、そんな伝統的な校舎群に対して、老朽化と耐震性の脆弱さから校舎解体の計画が起こります。
そんな町議会が推し進める計画に対して、地元住民は大きく反対し、校舎の解体工事差し止めを認めさせます。
町民たちの体を張った反対運動により、校舎群は耐震補強を行ったうえで保存されることとなり、2代目校舎の裏側に建てられた3代目校舎を豊郷小学校の新校舎として利用しながら、旧校舎も保存されることとなります。
そして、旧校舎は町立の図書館が入ったり、旧校舎内部を見学することができたりと、を代表する複合施設として活用されるようになっています。

また、そんな豊郷小学校旧校舎群を一躍有名にしたのが、アニメ『けいおん』の存在でした。
このアニメの舞台である高校の校舎が、この旧校舎群と酷似しており、聖地巡礼として多くのけいおんファンがこの地を訪れることになったのでした。
そのため、あまりにも多い来訪者のために、酬徳記念館に観光案内書をもうけたり、カフェの営業を始めたりと、アニメが地域の活性化の一役を担うことになったのでした。
さらには様々なイベントが行われたり、映画撮影に使われたりと、ここでしか撮ることができない貴重な場面が重宝されるようになり、一時期は取り壊しが決まっていたのが嘘のような賑わいを見せるようにまでなっているのです。

アクセス

JR東海道本線 河瀬駅下車後、南に3kmほどのところの旧中山道沿いにあります。

豊郷小学校旧校舎群へ行ってみた

それでは、豊郷小学校旧校舎群へ行ってみましょう。

旧中山道沿いに、まるで国会議事堂化のような建物が見えてきます。
上の写真をご覧ください。
こちら小学校の校舎なのですよ。
この後者は、2代目校舎であり、昭和12年に建てられたものです。

なお、あくまで豊郷小学校の旧校舎群なのであって、豊郷小学校は現在も存続しており、この旧校舎群のすぐ後ろで運動場を挟んで新校舎が立ち並んでいます。

新校舎ができているということは、この旧校舎群は取り壊しの計画があったのです。
しかし、根強い反対意見があったことからも、耐震補強を行い、保存して残していく方向で今もこの場所に立ち続けているのです。

こちらは向かって左側にある酬徳記念館です。
なお、豊郷町のマンホールカードは、この記念館内で配布されています。

こちらですね!

それでは、かつて「白亜の殿堂」や「東洋一の小学校」ともいわれた自慢の校舎内に入ってみましょう。
廊下の雰囲気が非常に良いですねえ。

教室の中ものぞくことができます。
ちなみに、この旧校舎群は2004年というまあまあ最近まで実際に学校として使用されていました。

他の部屋にも行ってみましょう。

こちらは3階にある唱歌室なのだそうです。
そんな部屋がある校舎って、今はあるのでしょうか??

こちらは唱歌室のお隣にある会議室です。

いかがだったでしょうか。
まだまだ今回紹介した写真の場所以外にも、この後者を残していかなければというような気持になった町の人々の気持ちが、痛いほどに伝わってくる校舎でした。
本来であれば、こういった校舎群は壊されてしまうことが多いもの。
しかし、奇跡的に人々の強い思いによってこの地に残った豊郷小学校旧校舎群。
伝統的な建物をうまく活用する取り組みがもっと進められていき、これからも永くこの地にあり続けてもらいたいものですね。