かなり以前に紹介したことがある広島県の城、三原城。
新幹線の路線の下にあり、駅直結の城ということでかなり異色の城だったのですが、その三原城は小早川氏の居城でした。
その小早川氏が三原城にその居城を移す前に居城としていた城があったのでした。
それが新高山城と言います。
この新高山城なのですが、険しくそびえたつ山の頂にある城なのですが、実はここに城が築かれる前には、眼前を流れる沼田川(ぬたがわ)を挟んで向かいにある山の頂に元々は高山城として築かれていたのでした。
この新高山城なのですが、三原城建造時にその建築資材として石垣などは持ち去られてしまったので、現在はその後が残るのみとなっています。
しかし、急こう配の山城を登っていくと、60を超えるといわれるかつての曲輪の遺構を見ることができたり、いくつもの井戸の跡が残るなど、険しい山道を登ってきたかいがある見ごたえのある城跡となっています。
この小さな山全体を城砦化した城だったようであり、登山口から見上げるその姿は、ここを攻め落とそうという気持ちを萎えさせてしまうほどの険しい山城なのです。
実際、太平の世になればお役御免となってしまい、便利な三原城へと移っていったこともうなずけてしまいますよね。
今回はそんな広島県三原市にある山城の新高山城について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
広島にある百名城の記事です。









新高山城
新高山城は広島県三原市にある城です。
2017年には続日本百名城に選定され、これからだんだんとその名が広がっていくことが期待されている城です。
この城なのですが、小早川氏の居城として建造されたものなのですが、元々は城のすぐそばを流れる沼田川(ぬたがわ)を挟んで向かいにある高山城が小早川氏の居城でした。
しかし、毛利元就の三男であり、小早川家に養子としては言った小早川隆景によって、現在の新高山城のある場所にあったもともとは小規模だった砦を小早川氏の居城とするために拡張工事を行い、新高山城として誕生させたのでした。
その後、30年ほどしてから小早川氏の本拠地は三原城へと移されます。
その間わずかではありますが、山全体が城砦と化した強固な山城がこの場所に造られていたのでした。
現在でも、城を構成していた曲輪の跡がはっきりと確認できるようになっています。
さらに、かつては強固な石垣で囲われていたといわれているのですが、三原城に居城を移した際にその私財としてほとんどの石垣の材料は移動させてしまったようであり、現在の新高山城跡ではそういった石垣を見ることはできなくなっています。
山道の途中には、小早川氏が菩提寺として建立した匡真寺(きょうしんじ)跡があったりします。
60を超える曲輪を配して作られているこの新高山城ですが、その中でも釣井の段と呼ばれる曲輪は非常に特徴があります。
そこには、6つもの井戸が上下二層の曲輪に設置されているのです。
しかも、現在でもその井戸の姿がはっきりとわかるような形で残っているのですね。
アクセス
山陽本線の本郷駅から北西にむかって1.5kmほどの場所にあります。」
新高山城へ行ってみた
それでは新高山城へ行ってみましょう。

新高山城登城口にある駐車場です。
長期休暇だったこともあるため、守る会の人々がこの駐車場で物販販売を行ったり、城の案内をしてくれていました。
実際、登山を始める前にはここでかなりの情報を得られることができました。

そして駐車場から真上を見ると、岩肌がむき出しの部分があります。
高さ200mほどでしょうか。
「あそこまでいくんだぞ。」
・・・えええっ!!
この短距離で、これだけの傾斜を登るのか!!?
中々心が折れそうになります。

そうも言ってられないので出発です。
少し道路を歩いて右に曲がると、

民家の間に登山口への道があります。

さらに歩いていくと、いよいよ山道へ入っていきます。

早速山道ですね。
ここから過酷な道のりが待っています。

四季折々の自然の光景が楽しめる新高山城跡。
ハイキングコースにもなっているようでした。

新高山城全景図です。
東西、南北共に400m~500mの中に60以上もの曲輪を配置した、コンパクト且つ強固な山城だったようですね。
なお、道のりは本当に過酷なのでここにはステッキも用意されています。

どんどん山道を進んでいきましょう。
道は比較的整備されているので、迷うことはないとは思います。

堀切のようです。

鐘の段という曲輪があります。
本ルートではなく、さらに登らなければいけなかったので、この時はスルーさせてもらいました。

こちらは番所跡です。

本ルートである大手道を警固するための番所が設けられていた場所です。
城の東西それぞれに番所が設けられていたようです。

さらに歩いていくと、山道がなくなり、少し開けた場所に出ます。
ここは匡真寺(きょうしんじ)跡というところです。
小早川氏の菩提寺だったところであり、東西約40m、南北約70mにもなるかなり広大な寺だったようです。


跡地をよく見てみると、地面には瓦片が数多く見られます。
また、池や堀の跡などが残っていることがわかります。

それではさらに登っていきましょう。


次に現れたのが、新高山城跡のちょうど中心のあたりにある中の丸(二ノ丸)跡です。

中の丸を抜けるといよいよ本丸に到達します。



そしてこちらを登った先にあるのが本丸跡です。


本丸跡に到着しました。
新高山城で最も広い郭をもっている場所です。
かなり大きな建物を支えていた礎石が見つかっているようであり、ここには相当な規模の建物があったのではないかと推測されています。
なお、本丸の周囲には石垣が積まれていたようなのですが、それらの石垣を構成していた石材は、三原城築城の際に持っていかれてしまったようです。
そのため、現在の新高山城には、その石垣を見ることはできません。

新高山城の東端にある詰の丸に向かってみましょう。

こちらが詰の丸であり、本丸よりも高い位置にあります。
こちらには、仏像や地蔵など、一か所に数多くの石仏などが建てられています。




また、この詰の丸からの眺めが抜群によく、山陽道をはじめ周囲の様子を一望することができるようになっています。
また眼前の沼田川は、かつては瀬戸内海から船の往来があったらしく、そういった意味では新高山城は交易などの交通の便でも非常に好立地だったのでした。
なお、先ほど麓の駐車場から見上げていたのがこの詰の丸なのです。
よくここまで登ってきたなあ、となります。

眼前に沼田川の姿が一望できます。
ここからだと確かに南東から迫りくる敵の姿もすぐに確認できてしまいますね。

そして、他沼田川対岸にある小高い山の上にあるのが、かつての高山城跡なのです。

さらに本丸から北に向かって降りていくと、その先には釣井の段という曲輪があります。

この釣井の段は別名で井戸曲輪と呼ばれており、上下二層になっている曲輪に6つもの井戸の跡を見ることができます。
こちらもかつては石垣に囲われていたようですが、本丸の石垣と同じく三原城築城の際に持っていかれたようです。
ここの井戸の数々が、城主をはじめとして家臣団の生活を支えていたのですね。






釣井の段は二層になっている面白い曲輪です。

そして、沼田川を挟んで約800m先にあるかつての小早川氏の居城 高山城跡は、上の写真の山頂にあります。
いかがだったでしょうか。
続日本百名城に登録されたこともあって、地元本郷町もこの新高山城を前面に押し出していこうと大々的に取り組みを始めてきています。
山城かつ、なかなか厳しい山道の城ではあるので、それなりに登山用の装備は必要になってきますが、登り切った時に見られる景色は抜群な城でした。
以前紹介した三原城とセットで、かつての小早川氏の歴史の足跡をたどってみてください。