106【愛媛紀行】坊ちゃん列車 道後温泉 え~っとあと、百名城??『湯築城』

百名城/続・百名城(Castle)
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今回は愛媛県にある日本百名城『湯築城』についてです。

愛媛というと、まずは松山城が出てくるとは思うのですが、この湯築城はそれよりも古い時代からこの地に存在してた城です。

しかし、実はお恥ずかしながら、自分がこの地へ行った時、ここが百名城だと意識していなかったのです。

別件があり愛媛県道後温泉エリアを訪れ、たまたまこの湯築城の近くにホテルを取っていました。
仕事が終わり、ホテルに戻るときにふと目に入った、広い広場。
しかし、よく調べると『日本百名城』!!?
このときはびっくりしましたし、きちんと下調べしていなかったことがうかつでした。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 突然現れる百名城。やはり下調べをしていくことは大切ですね。

愛媛県の記事です。

1119【愛媛紀行】三方を山に、海はリアス式海岸。日本でも有数の良港が広がる『宇和島の町』
前回大洲市については紹介しましたので、今回はもう一つの城下町である宇和島市についてです。さて、宇和"島"市なのですが、なるほどー島なのかー・・・。と思ってしまうかもしれませんが、宇和島市は"島"ではないのですよね。さて、ではなぜ宇和島市は”島”なのでしょうか。そういった謎もありながら、様々な名所や名産などもある宇和島について今回は紹介していきたいと思います。
1107【愛媛紀行】伊予の小京都として名高い。一人でも家族でも楽しめる『大洲の町』
愛媛県の城を巡るとなると、これら以外の町も名前が挙がってきます。それが、宇和島と今回紹介する大洲ではないでしょうか。これらの町は日本百名城にも選定されている城をもつ町であり、城めぐりをするのであれば必ずと言っていいほど訪れることになる町なのです。
1106【愛媛紀行】瀬戸内海を縦横無尽に支配した海賊、村上水軍の城『能島城』
今回紹介している愛媛県にある能島城は、200ある城の中でも非常に特徴ある城なのです。なにせこの能島城、能島という小島1つが丸々と能島城となっているのです。城の分類としては水軍城と呼ばれます。ここでいう水軍というのは、かつて瀬戸内海を牛耳っていた村上水軍(村上海賊)の一派である能島水軍が設けた水軍城だったのです。
1098【愛媛紀行】藤堂高虎の名城の一つ。現存中に天守の一つである『宇和島城』
宇和島城は愛媛県宇和島市にあります。この城は、築城の名手としても有名いな藤堂高虎氏の手によるもの。四国西南地域の中心であった宇和島に設けられたこの城は、宇和島湾のリアス式海岸地帯に面して作られ、三大海城とも呼ばれるようにその堀に海水が引かれたりする特徴をもつ城です。
1096【愛媛紀行】藤堂高虎によって築かれた愛媛の名城である『今治城』
日本に存在した海賊とは、海で生き、その地域の海上の交易や秩序を保証し、安全に活動するために依頼してきた客を警固したりといった活動が主でした。その村上海賊が活躍したのが、愛媛県の北の瀬戸内海。尾道と今治をつなぐ芸予諸島と呼ばれる地域です。そして、この地域を愛媛側から望む場所にあるのが今回紹介している今治城です。
1093【愛媛紀行】谷の地形を利用し、馬蹄形に曲輪が設けられていた特徴的な城『河後森(かごもり)城』
場所は愛媛県の北宇和郡。その城の名前は河後森(かごもり)城といいます。この城は、鎌倉時代に築城されたという山城。その後、江戸時代の一国一城令まで機能し続け、廃城となった城でした。その規模としては、愛媛県に残る中世の山城の中では最大のもの。まるで馬の蹄鉄のようなU字型をした山と谷の地形を巧みに用いて造られた河後森城は、自然の要害を最大限に活かした鉄壁の山城なのでした。
1085【愛媛紀行】道後温泉のすぐ近く。様々な人々が集まり、夜更けまで賑わうゲストハウス『ふじや』
道後温泉は楽しみたいけど、宿泊は安く抑えたい。ぜひともそんなお宿を探してみたいですよね。ありました。それも道後温泉の超近く。そのお宿を『ふじや』といいます。愛媛だけど”ふじ”?まあそんなことはどうでもいいですが、このゲストハウスのふじやですが、一般家屋を一軒まるまるゲストハウスにした建物です。
1084【愛媛紀行】主に、今治市の慢性的な水不足を補うために多目的ダム『玉川ダム』
前回愛媛県のダムということで石手川ダムというところを紹介しました。石手川ダムは、松山市の中心部に近いダムということで、慢性的に水不足になりがちな松山市に対して安定した水資源の供給を目的として造られたダムだということは紹介しました。今回はその石手川ダムから北東に行ったところにある玉川ダムというダムです。
1083【愛媛紀行】明治維新でそのほとんどが破却されたものの、豊富な資料を音に天守が正確に復元された『大洲城』
今回紹介している大洲城は愛媛県大洲市にある城です。実はこの城の天守は明治に各地で廃城が行われた際には生き残ることができていたのです。しかし、残念なことに、明治の中期に建物の老朽化が原因で解体されるに至ってしまったのです。
1075【愛媛紀行】大三島の農業用水や生活用水すべてを支える『台(うてな)ダム』
台ダムがあるのは、愛媛県今治市。この市に属していますが、瀬戸内海に浮かぶ島、大三島にあるダムなのです。島にダムがあるというのもなかなか珍しいのかなあと思いますが、実際このダムが設けられている台本川なのですが、それほど長い川ではありません。全長3.7kmほどしかなく、はたしてここにダムが必要なのか?とも思われるのですが、全長が長い川というものはえてして危ない川になってしまうことがあるのです。
1073【愛媛紀行】全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社。瀬戸内海の大三島にある『大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)』
今回は、とある神社について紹介していきたいと思います。この神社なのですが、それがある場所は何と離島なのです。まあ、今は橋で結ばれているのですが、古くこの神社が創建されたころにはそのような橋はなかったわけで。その神社の名前を大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)と言います。
1072【愛媛紀行】道の駅に水族館!?河後森城跡ついでにふらっと立ち寄れる『道の駅 虹の森公園まつの』
魅力たっぷりの道の駅なのですが、今回紹介している道の駅は、『道の駅 虹の森公園まつの』という、愛媛県にある道の駅です。さて、この道の駅もなかなか他にはない特徴をもっている道の駅なのですが・・・!?今回はこの『道の駅 虹の森公園まつの』について紹介していきたいと思います。
1059【愛媛紀行】実は愛媛県松山市で最も高い建造物『石手川(いしてがわ)ダム』
松山市というと人口50万人以上を抱え、これは香川県の高松市よりお10万人ほど多い人口となっています。そのような雨が少ないという条件と、人口が多いという理由から、夏になるとよく水不足に見舞われていました。そこでそういった課題を解決するために考えられることといえば、ダムの建造ですよね。この松山市の上水道確保として建造されたのが同じく松山市にある石手川(いしてがわ)ダムなのです。
1057【愛媛紀行】司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の世界を存分に味わえる博物館『坂の上の雲ミュージアム』
坂の上の雲の世界をより多くの人に体験してもらいたい。そんな地元の思いから生まれたのが、2007年にオープンした『坂の上の雲ミュージアム』なのです。愛媛県松山市の中核施設として重要視されるこの坂の上の雲ミュージアムについて今回は紹介していきたいと思います。
463【愛媛紀行】万葉集にも見られる、古代から知られた伝統ある温泉『道後温泉』
今回紹介している道後温泉は、日本に数ある温泉地の中でも明治・大正の雰囲気を今もなお残し続ける、稀有な温泉地ではないでしょうか。その中でも道後温泉の中心にある道後温泉本館は、その建物が重要文化財でありながら、今もなお公衆浴場としての役割を果たしている建物なのです。
239【愛媛紀行】平山城だけどキツイ登りをロープウェイ・リフトで楽々アクセス!現存天守『伊予松山城』
今回は現存天守の一つ、愛媛県の伊予松山城について紹介していきます。伊予松山城は現存する天守だけではなく、本丸と二之丸をつなぐ登り石垣、東と北の山麓に配置された郭など、堅牢な城構が良好に残されている城跡なのです。

道後温泉

湯築城は、愛媛県の有名な温泉地、道後温泉にある城跡です。
町中にあり、平山城の一つです。

道後温泉は、四国・愛媛県松山市にある、日本三古湯(道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県))の一つであり、3000年もの歴史を持つといわれている温泉です。

道後温泉駅は、伊予鉄道城南線の終点駅です。
軌道路線(路面電車)になっているため、ゆっくりと揺られながら、道後温泉駅を目ざします。

道後温泉駅前には、坊っちゃん列車、坊っちゃんからくり時計などがあり、夏目漱石の小説『坊っちゃん』にも描かれている舞台として有名な観光地です。

道後温泉は、道後温泉本館を中心として、駅前から道後温泉商店街があり、いつも賑わっています。

道後温泉といえばこの道後温泉本館が有名な建物です。
戦前に建築され、国の重要文化財野も登録されている建築物です。

この道後温泉本館の特徴としては、入浴だけではなく、浴衣や茶菓のサービス、館内の見学などがあるというところです。
(値段によって異なります。一番安い410円では入浴のみです。)

なお、『坊っちゃん』の町として有名ですが、夏目漱石もこの町で暮らし、頻繁にこちらに通ったのだそうです。
後の小説『坊っちゃん』の中で語られているということからもそれがわかりますね。

道後温泉には道後温泉本館を含め、3つの共同湯があり、どの浴場にも有料で入ることができます。

湯築城

湯築城の築城は、建武2年(1335年)前後と言われています。
当時の伊予国の守護 河野氏によって、南北朝期から戦国期の約250年間居城とされていました。
天文4年(1535年)頃には外堀が造られました。
天正13年(1585年)には、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に湯築城を明け渡すことになりましたが、天正15年(1587年)その時の城主福島正紀が居城を移したことに伴って廃城となっています。

営業時間

湯築城跡自体は道後公園として整備されていますので、いつでも入ることはできます。

敷地内にある湯築城資料館は、月曜のみ休館日で、それ以外は9:00~17:00に開館しています。

百名城スタンプ

日本百名城スタンプは、敷地内の湯築城資料館内にあります。
休館日でも、資料館玄関外にあるそうなので、安心して押せますね。

では、湯築城に行ってみましょう。

湯築城に行ってみた

こちらから湯築城になります。
現在は道後公園として整備されていますが、かなり範囲は広く、しっかり見て回るとそこそこ時間がかかりそうです。

ごみ捨て穴の跡だそうです。
もちろん今は捨ててはいけませんよ。
多数の皿や杯などが出土したらしく、どうも宴会をした後ではないかとも推測されています。

外堀土塁になります。
時代的に土塁が主流の時代なのでしょう。

湯築城の外堀土塁は、外堀を掘ったときにでる土を盛り上げて作られた、「掻揚げ土塁」と呼ばれる土塁だそうです。
敵の進入を防ぐことはもちろん、城内を見られないようにするためにも土塁が築かれたようです。

中に入り、内側から土塁の構造を見ることができます。

こちらが内側から見たところになります。
土塁の状態が良く、その組成を研究するために、このような場所が設けられたとのことです。

どの時代の、どういった土室の土塁なのかが開設されています。

土塁は高さが約5m、周囲の総延長は900mもあったようです。
中心部をしっかりとこの土塁で守っていたのでしょう。

当時の武家屋敷を再現した展示もありました。

いかがだったでしょうか。
日本百名城というと、どうしても戦国期や江戸期の城を思い浮かべるかもしれませんが、南北朝の時代からもあった城など、いろいろな年代の城も登録されています。

愛媛といえば松山城、道後温泉となりがちですが、この湯築城にもぜひ、道後温泉と共に訪れてみてはいかがでしょうか。