1063【大阪紀行】大阪市南部を流れる大きな川。しかし、かつての川筋は全く異なるものだった『大和川』

近畿地方(Kinki)
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西日本の大都市である大阪市
この大阪市には2本の巨大な河川が流れています。

1つは大阪市の北部を流れる淀川です。
人びとの生活用水としても重要な淀川は、京都方面から流れてくる巨大な河川です。
そしてもう一つが南部を流れる大和川です。
この大和川は、奈良方面から流れてきて大阪湾に流れ出る、淀川と同じく大阪を代表する河川となっています。

現在では奈良から流れてきた大和川は、東から西へ流れていき、最終的に大阪湾に流れ出ています。
これが今では当たり前のようになっていますが、実はかつて大和川はこのような流れではなかったことをご存じでしょうか?
実は、東から西ではなく、南から北に向けて流れていたのがかつての大和川だったのです。
では、なぜ今の大和川は東から西に流れているのでしょうか?
かつての大和川にいったい何があったのでしょうか?

今回はこの大阪市を流れる巨大な河川、大和川について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 生駒山の麓、この場所で古くから何度も人々を襲い続けた地すべり災害。周辺を壊滅的な状況に追い込む可能性があるこの災害に挑んだ、人々の歴史を見に行ってみよう。

生駒山に関する記事です。

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大和川

大和川は大阪市の南部を東から西に向けて流れる河川です。
奈良から大阪へと流れる子の大和川は、かつては海からやってきた人々が子の大和川を船で上がり、人や物資の行き来がありました。
そうして、かつての奈良や大阪の発展に寄与してきたのですよね。

現在はこのような流れをしている大和川なのですが、実はもともとは全く異なる姿をもった川なのでした。
これほど大きな河川がなぜ今と全く異なる姿だったのか?
それは、もちろん自然にその川筋が変わったのではなく、人工的に今のように流れが変えられたのでした。
大和川の流れを大きく変えた付替え工事が行われたのは、江戸時代である宝永元年(1704)のことでした。
もちろん重機などがないこの時代。
頼れるのは人の力だけでした。
なんと、延べ人数で240万人もの人がこの大和川付替え工事に携わったのです。
川幅180mもある川が、14km。
これほど大規模な川の付替えが、なんとこの時代にわずか7カ月半で完成してしまったのです。
これってとんでもないことだとは思いませんか??

そんな大規模工事だった大和川の付替え。
なぜそんな工事が行われなければいけなかったのでしょうか。
それは、大和川が古代からたびたび洪水災害を引き起こしていた川だったからなのです。
かつては、奈良から流れてきた大和川と、南から流れてきた石川とが現在の柏原市である柏原村で合流し、そこから北の久宝寺川、玉櫛川とに分かれて北上し、最終的に淀川へと合流していました。
川が流れることによって、この地域 河内平野は非常に肥沃な土地であったため、人々が集まり生活が営まれていました。
しかし、川は肥沃な土地をもたらす半面、頻繁に洪水被害をももたらしていました。
そのため、大和川の治水工事に関しては、長年にわたって取り組みが重ねられ続けていました。

そんな時代が長く続き、時は江戸時代となります。
江戸時代になっても大和川の付替え事業は一向に進捗しません。
幕府動く気配はありません。
中甚兵衛という人物を中心として、何度も何度も大和川付替えの計画を要請しました。
そんな人々訴えが続き、約50年もの後にようやく江戸幕府を動かすことができたのでした。
当初は3年かかるといわれたこの大工事。
しかし、なんとたったの7カ月半で完成してしまうという偉業を成し遂げてしまったのでした。

そして、川筋が変わったことによって、残った旧川筋では新田開発が積極的に行われます。
付替えから5年後にはなんと34か所で新田開発が行われました。
しかし、旧和筋の多くは砂地であったため水田には適さないところも多く、そういった場所では綿花の栽培が積極的に行われ、この地域の特産品として伝わり続けているのです。

アクセス

大阪市南部を東から西に向かって流れています。

大和川に行ってみた

それでは、大和川に行ってみましょう。

こちらが大和川です。
柏原市から撮影したものです。

この川が人工的に作られたものだというのが信じられませんね。
しかも重機のない江戸時代に、8か月間という短期間でできたということが信じられません。

なお、こちらが旧大和川と、付替えによって生まれた新田の数々です。
現在とは全く異なる川筋だったことがわかると思います。
(※この写真は、八尾市にある安中新田会所跡旧植田家住宅で展示されていたものです。)

そんな大和川の付替えにまつわる史跡なのですが、柏原市役所近くにも大和川付替三百年記念碑をはじめとして設けられています。

こちらに建てられているのが、大和川付け替え中甚兵衛像です。
中甚兵衛氏は、大和川の付け替え工事のために尽力した人物です。
半世紀にわたって幕府に対して大和川付け替えに関する嘆願を行い続け、工事が始まってからは付け替え工事を指揮しました。

こちらは昭和29年に設置された大和川付替二百五十年記念碑です。
50年ごとに記念碑が設けられているようです。

いかがだったでしょうか。
現在の大阪では、大規模な洪水被害というのは考えられないほどの状況となっています。
しかし、海抜が低く、強固な土壌ではない大阪ではかつては多数の洪水被害があったのです。
それから考えると、長年にわたって多くの人々が治水事業に携わり、現在のような災害被害が稀になった状態を作り出してくれた先人たちの偉業の数々は忘れてはいけないことですよね。