今回は徳島県にある城の紹介です。
徳島県の城というと徳島城かなあというところですが、それ以外にも魅力的な城は多数あるのですね。
今回紹介しているのはその中でも勝瑞城といい、続日本百名城にも選ばれている城です。
鎌倉・室町時代を中心に中世期に築かれた城郭なのですが、この時代の城というと大体が山城かなあというところなのですが、この勝瑞城は珍しく平城となっています。
当時のこの辺りというと東に阿波国、讃岐国、淡路国とが集まり、これらの国々の政治や経済、文化の中心地としてこの勝瑞の地がありました。
現在では徳島県でも市の中心部から少し離れた目立たないところにあるのですが、吉野川沿いにあるこの場所は、かつて非常に栄え、且つ中世史上でもかなり重要な城跡なのでした。
現在はというとその城跡にはそれらしきものが残されていません。
おそらくこれが城を囲う堀だったのだろうなと思われる中心には、現在はお寺が建てられています。
そのため、実際に見に行ったとしても、城跡にやってきたんだという感覚はあまりないかもしれません。
しかし、すぐそばにはかつての勝瑞城の居館跡が発掘され整備されています。
まだまだ発掘作業の続く勝瑞城は、いずれは徳島県を代表するような観光スポットになるのかもしれません。
今回はそんな、徳島県にある中世の城、勝瑞城について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
徳島の百名城記事です。



勝瑞城
勝瑞城は徳島県の板野郡、藍住町勝瑞にある城跡です。
かつて阿波国と呼ばれた徳島では、この勝瑞の地域が非常に重要な拠点でもありました。
なぜなら、室町時代には阿波の守護であった細川氏がこの勝瑞の地に守護所を置き、その後実権を握った三好氏もそれに引き続いてこの勝瑞を拠点としていたからでした。
そのため、城の城下町も中世の地方都市としては他に見られないほど繫栄していたのだそうです。
細川氏9代と三好氏3代、合わせると何と240年もの長い間、この地域の中心だった勝瑞。
現在徳島県の中心は、吉野川をはさんで5kmほど南の徳島市内になってしまっており。かつての繁栄の様子は見られない、田畑の広がる穏やかな土地となっています。
そんな勝瑞城が築かれたのは、はっきりとはわかっていないのですが、鎌倉時代の承久の乱の後、この阿波の地域の守護になった小笠原氏によって開かれたのではないかと考えられています。
その後、室町時代となり阿波国に入ってきたのが細川氏でした。
細川氏によって勝瑞と名付けられたこの地は、阿波の守護所として、重要な拠点となっていったのです。
細川氏によって代々受け継がれていたこの勝瑞の地ですが、家臣であった三好実休氏によって謀反が興され、実権を握られてしまいます。
その後、三好氏による統治が行われることとなった勝瑞。
戦国の世とは思えないほどの安定した地域であったようなのですが、天正期に入るとその状況は一変。
力をつけてきた土佐の長曾我部氏によって勝瑞は侵攻の危機に陥ります。
その際に設けられたのが、勝瑞城跡にある堀や、詰めの城である勝瑞城、土塁といった敵からの侵攻を防ぐための数々の建造物でした。
しかし、そういった対策を講じたにもかかわらず、最終的には長曾我部元親の侵攻を受けてしまった勝瑞城は、1582年に廃城となってしまいました。
廃城となった際に、勝瑞城の石塁などの多くが部材が徳島城に運ばれて利用されたともいわれています。
アクセス
JR勝瑞駅から北西に500mほどの場所にあります。
勝瑞城に行ってみた
それでは、勝瑞城に行ってみましょう。

というわけで勝瑞城跡に到着です。
国道14号線沿いなのでアクセスは良いです。
車で来た場合は、見性寺内に車を停めることができます。


かつての勝瑞城主であった三好長治氏の菩提寺の案内があります。
その横には、勝瑞城跡の案内も立っていました。

現在は見性寺(けんしょうじ)というお寺になっています。

勝瑞城及び、勝瑞城館跡の地図です。
城跡だけになるとそれほど大きいわけではありませんが、その数倍の大きさの館跡が現在は公園のようになっています。
また、かつての城下町まで考えると、かなり大きな範囲に影響力を持っていた城であったことがわかります。
実は、まだまだ地下にはかつて室町時代などに阿波国の中心だったころの遺構が非常に状態よく残っているのだそうです。
発掘作業の結果、屋敷跡やそれを囲む堀の跡、庭園や建物跡なども見つかっており、土器や陶磁器などの生活道具も数多く出土しています。
それではまずは勝瑞城跡である見性寺の敷地内に入ってみましょう。

寺はかつての本丸の場所に建てられており、その周りは堀で囲われています。
かつての勝瑞城を囲っていたものなのでしょう。



敷地内に入ると左手に見えてくるのは、かつての城主だった三好氏4代の墓です。
左から三好之長、三好元長、三好義賢、そして三好家としてはじめて勝瑞で実権を握った三好実休の子、三好長治の墓となっています。

こちらは見性寺の本堂です。
車はこの辺りに停めることができます。


かつては城の周囲を土塁が巡っていたようですが、現在ではこの部分でだけしか確認することができません。
周囲の堀を掘った際の土を盛り上げて造られたのがこの土塁です。
当時は、高さ2.5mほどもあるかなり大規模な土塁であったことが確認されています。






こちらは城跡に建つ勝瑞義冢碑です。
戦国大名だった三好家の盛衰と戦没者の慰霊文を記録したものです。

境内からも堀へと出られる小道がありました。
それでは勝瑞城館跡の方へ行ってみたいと思います。


勝瑞城跡からはすぐ南のところに勝瑞館跡はあります。
かつて室町時代に阿波守護であった細川氏が守護所を勝瑞に置いたことからこの地域は反映していきました。
その後、阿波の実権を握った三好氏の居館として設けられていたのが勝瑞城館です。
中世の勝瑞では非常に平和な時代が続いていたのですが、天正期になり勝瑞への侵攻を目論んでいた土佐の長曾我部氏に備えるため、勝瑞城及び土塁をもつ曲輪などが相次いで築かれることになりました。
勝瑞城跡よりもこちらの勝瑞城館跡の方が歴史的には古い場所なのですね。

勝瑞館跡に入ると、まずは堀の跡がありました。
実際の大きさに復元して展示してあるこの跡は、かつての堀の大きさを目の前に表してくれています。


こちらは礎石建物跡です。
堀のっ分にあることから、かつてここには橋が架かっていたのではないかと考えられています。

こちらも堀と復元された橋です。
勝瑞城館跡はこのように堀で区切られた複数の曲輪を橋でつないでいるような造りになっています。
しかしこれだけ堀が掘られているにもかかわらず、土塁は設けられていません。
そのことからも、この勝瑞の地域がどのような地域だったのかということが垣間見れます。

こちらはかつての礎石の上に建物が復元されています。
この建物からは庭園を眺めることができ、かつての会所としての役割をもった建物ではないかと考えられています。
なお、ここの発掘作業の際に、礎石周辺からは焼けた壁土や炭化したものが発見されたことから、建物自体は焼失してしまったようです。

こちらは枯山水庭園跡です。
発掘調査の結果12個の石が見つかり、それらを配置することによって庭園が構成されていました。

勝瑞城館跡には史跡勝瑞城跡の展示室が設けられている建物があります。
そちらに向かってみましょう。
発掘の様子のパネルも展示されていました。

なお、こちらの展示室に続百名城のスタンプは置かれています。
スタンプ帳やインターネットの情報ではここに置かれているという情報がなかったので、少し注意が必要ですね。

阿波の特産品といえば藍。
勝瑞の地域が栄えていたころから、特産品である藍によって豊かな生活が行われていたのではないでしょうか。

展示室は建物の二階にあります。
小さな展示室なので、すぐに見て回ることができます。


続百名城スタンプはこちらなのでお忘れなく。
いかがだったでしょうか。
まだまだ徳島県の城の中でも知られていない勝瑞城でしたが、その城跡は大満足なほどにかつての痕跡をたどることができる城跡となっていました。
まだまだ勝瑞城では発掘作業が継続されており、今後も更なる発見が多々あることと思われます。
そして、そのように発見された遺構を訪れた人々が見学しやすいように配慮して整備されている点が、徳島県がこの史跡に力を入れていることがとても伝わってくるかのような場所でした。
徳島市の中心部からも比較的楽に訪れることができるこの勝瑞城跡。
徳島観光の穴場かもしれませんよ。