1083【愛媛紀行】明治維新でそのほとんどが破却されたものの、豊富な資料を音に天守が正確に復元された『大洲城』

百名城/続・百名城(Castle)
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四国にも数多くの有名な城がありますね。
四国にある城の特徴としては現存天守が多いなあというところ。
天守が現存しているということは、様々な危機を乗り越えてきて今日に至るということ。
そのため、城めぐりが好きな人にとってはぴったりの土地だといえます。

もちろん現存天守以外にも魅力的な場所はたくさん。
今回紹介している大洲城は愛媛県大洲市にある城です。
実はこの城の天守は明治に各地で廃城が行われた際には生き残ることができていたのです。
しかし、残念なことに、明治の中期に建物の老朽化が原因で解体されるに至ってしまったのです。

ところが、地元住民の大洲城への思いはとても強かったのです。
多くの方々の寄付などによって、100年以上の時を経て大洲城は再建されたのでした。
しかも、大洲城の構造は非常に膨大な資料が残されており、ただの再建ではなくとてつもなく正確に大洲城は復元されているのです。

それほど人々の思いがこもった再建天守。
ぜひとも見に行ってみたいとは思いませんか?
今回はこの愛媛県にある城、大洲城について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 城のかつての広い敷地の痕跡が町のいたるところに残る大洲城を見に行ってみよう。

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大洲城

大洲城は、愛媛県大洲市にある城です。
大洲街道と宇和島街道とが結びつく点にあり、土佐国(高知)にもつながる街道もある交通の要衝に建造されていました。
この大洲城を修築したのがかの有名な藤堂竹虎です。
城下町も非常に反映していた大洲城は、経済的な面でも非常に恵まれていた場所でした。

この宇和島城を一番最初に築城したのは鎌倉時代末期の人物である宇都宮豊房氏でした。
その後宇都宮氏一族によって受け継がれていった大洲城ですが、ここを中心にして二百年以上その統治が行われました。

その後は、豊臣秀吉とその配下の武将である小早川隆景によって滅ぼされ、伊予の一支城となります。
その後入場したのが藤堂竹虎であり、同氏によって近世城郭として一気に整備されることになりました。
江戸時代になると、脇坂氏、そして加藤氏がこの大洲城に添付されてきます。
その後は加藤氏の一族12代によって大洲班は運営されていましたが、明治時代になって状況は一変します。

明治というと主要な城郭以外の多くの場所については、廃城令が出されたことによって解体が進められていました。
そういった理由での解体は免れていた大洲城。
しかし、単純に老朽化が進んだことで明治中期である明治21年に結局は解体されてしまいます。
ところが地元住民の強い思いがあり、それが結実します。
2004年になると、正確に残されていた天守の伝統的な工法を用いて、復元が行われました。
他では類を見ないほど正確な資料が残っていたそうであり、外観から内部に至るまでかつての大洲城そのものを再現することができているのだそうです。

なお、台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓の4つの櫓については現存している建物であり、重要文化財に指定されています

アクセス

JR予讃線の伊予大洲駅から南に徒歩約20分で到着します。

大洲城に行ってみよう

それでは、大洲城に行ってみましょう。

大洲城へ車でアクセスする場合は、城の南にある大洲市民会館前の駐車場に車を停めて城山を登っていきます。
大洲城は平山城なので、この会館横ぐらいから登りが始まっていきます。

すると直角にまがって進んでいる道があります。
その横には立派な石垣が。
ここは大洲城の櫓下御門跡です。
まだ城の敷地内には行ってないのに?と思うかもしれませが、かつての大洲城の敷地は現在の物よりも相当広かったようであり、今では民家や商店が出ているところもかつては城の敷地内だったのです。
そのため、街中にかつての大洲城内の痕跡が数多く残っているのです。

その先には、最近よく見かけるようになってきたNIPPONIA HOTELのLE UNがあります。
なかなか高級なホテルなのですよ。

さて、大洲市民会館の真横には、大きな蔵のような建物があります。

こちらは、下台所と呼ばれる櫓であり、大洲城内で現存している貴重な建造物です。
大洲城内には、この下台所と重要文化財に指定されている4つの櫓が、現存する建造物となっています。
かつては城内の食糧庫として活用されていたこちらの建物。

実は、食糧庫として使われていたのは確かなのですが、明治以降は製糸工場や酒造工場などの倉庫として使われます。
また、小劇的な用途としては、監獄としても使われていたとのことなのです。

さて、下台所を後にして進んでいくと、坂道が始まりました。
いよいよ城山を登っていきますが、さっそく目の前には大洲城の天守が見えています。

この辺りはかつて御殿があったとされている二の丸御殿跡だそうです。

さらに登っていくと、

ここはかま櫓跡と書かれていました。

まだまだ登りますよ。
道は舗装されているので、登りですがそれほど大変ではありません。
上の写真に見えている建物はトイレです。

登っている間、常に天守が見えています。

さて、この曲がりを曲がるといよいよ本丸、そして天守に到着します。

大洲城天守を裏側から見ています。

緩やかなスロープを登っていきます。
上の写真ではただ単なる坂道のようですが、実はここは城内最後の城門があったとされています。
城内で最も大きな櫓門があったとされていますが、現在の姿だけを見るとどこに門があったのかいまいちわかりません。

実は、この坂道の途中に石垣が立ちはだかっており、そこを左に折れて石段を登ると、天守につながっている台所櫓の前に出ることができる造りになってました。
渡り櫓がその上の部分に覆いかぶさっていたことから、この門の名前は暗り(くらがり)門と呼ばれています。
この門は、城の最終防衛ラインであり、攻め込んできた敵兵を退けるための構造をしていたとされています。
なお、現在はその遺構は埋め戻されているので、残念ながら見学することはできませんでした。

復元天守である大洲城ですが、数多くの資料をもとに正確に復元されていることもあって、非常に立派な天守ですよね。

大路城天守は、天守と台所櫓とが連結したような形となっています。

それでは城内に入っていきましょう。

城の背後を流れる肱川(ひじかわ)の様子が帝都るようにわかります。

内部では、台所櫓だけではなく、高欄櫓にも接続しています。

台所櫓と高欄櫓ですが、双方ともにい江戸時代の安政期に建造された国の重要文化財となっています。

平山城なので、周囲の眺めが非常に良いですね。
攻め込んできた敵を見つけるためにはばっちりな立地ですね。

櫓の方は現存している建造物のため、その雰囲気は抜群ですね。

それでは天守の方を見ていきたいと思います。
こちらは再現された天守ですので、いたるところに使われている建材などは新しいものが利用されています。

城の中央部は吹き抜けになっています。

天守からの肱川の様子です。

こちらは入り口にあたる台所櫓の様子です。
現在は入館受付になっていますが、こちらの建物もしっかりと見ておかないといけませんね。

かつて、明治の中期まで残っていた大洲城の写真です。
この時期には全国的に数多くの天守が取り壊された時期なので、非常にもったいないことですよね。
まあ、大洲城は老朽化からという点がありましたが、維持管理できる力と財力があったのなら・・・とも思ってしまいますね。

さて、現在の大洲市民会館から200mほど南下したところにはお殿様公園という場所があります。

ここには三の丸南隅櫓が残されています。
また、同敷地内には旧加藤家住宅主屋もあり、どちらの建物も内部に入って見学をすることができます。

こちらが、三の丸南隅櫓ですね。

さっそく入ってみましょう。

こちらの櫓も現存しているものなのですね。
1階だけではなく、上の怪談を登っていくと2階に上がって見学もできます。

こちらは狭間であり、穴に埋め込まれているものを押し出して狭間として利用するのだそうです。

櫓の前にある旧加藤家住宅主屋です。
古い日本家屋を見学することができます。
また、この建物の一角がNIPPONIAホテルとなっており、古い日本家屋に宿泊する宇ことができてしまうのです。

さらに同敷地内には、大洲市埋蔵文化財センターもあります。
こちらはこの地域で見つかった様々な遺構が展示されており、見学することができます。

いかがだったでしょうか。
さすが日本百名城に選定された名城だなあという気がしますよね。
実際、なかなか広範囲に見どころが点在しているので、天守だけで満足してしまうのは少しもったいないかもしれませんよね。
ほんの少しだけ散策するだけでかつての史跡にたどり着くことができる大洲城。
今後非常に注目される城の一つになっていくことでしょう。