1102【大阪紀行】大坂の治水事業を成し遂げ、今の大阪につながる礎をつくった人物『河村瑞賢紀功碑』

近畿地方(Kinki)
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西の大都市大阪
西日本を代表する都市として、日本の中でも要所になるこの大阪の地ですが、現在のような大都市になるためには、過去この地にいた人々の多大なる尽力があったことはご存じでしょうか。
水の都と呼ばれている大阪ではありますが、大阪というと古くから海・川・島々といった水上交通が重要な土地柄でした。
そういった土地柄であることから、水運が栄える反面、水害による被害というものと常に隣り合わせ絵でもあった場所なのでした。
そういったことから、大阪の発展というものは、大規模な治水事業と共にあったのでした。

そんな大阪の治水の歴史の中で、最も特筆すべき功績を残した人物というのが、河村瑞賢という人物です。
この人物の功績を称える碑が、現在の西区の安治川沿い南岸にあるのです。
この河村瑞賢という人物が大阪で主になしたこととしては、安治川の開削事業でした。
かつての安治川というと、現在の九条のあたりで大きく北に迂回する流れをしていました。
その流れによって、この地域では何度も洪水被害などに見舞われていたのです。
そこで、この九条の地域にまっすぐに安治川を通すための開削事業を行ったのです。

また、河村瑞賢の功績はこれだけではなく、中津川の分水工事や大和川の川底の土砂をほりあげる浚渫(しゅんせつ)事業など、数々の功績を成し遂げたのです。
そんな河村瑞賢を称え、明治44年(1911)に、建てられたのが河村瑞賢紀功碑なのです。

今回はこの大阪を発展に導いた人物である河村瑞賢と、河村瑞賢紀功碑について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 大坂を幾度となく襲った水害から守るために、治水事業に尽力した河村瑞賢。その歴史上の偉大な人物の功績を称えた碑を見に行ってみよう。

河村瑞賢紀功碑

大阪市西区。
九条駅近くの安治川沿いに、大きな石碑が残されているのを見かけます。
この石碑は河村瑞賢紀功碑といい、かつて大阪の治水事業にその身を投じた河村瑞賢氏の偉業を現代にまでつ言い伝える碑となっています。

河村瑞賢は、江戸時代に活躍した人物です。
本来は豪商であった河村瑞賢ですが、全国各地で航路を開拓したり、治水工事を指揮した功績によって、晩年には武士としての身分を得るまでになった人物として言い伝えられています。

そんな河村瑞賢は、現在の三重県の農家に生まれました。
13歳の段階で江戸へと移り住み、幕府の土木工事に携わったり、材木屋としてその私財を増やしていきました。
そして、土木工事に携わっていた経験もあったことが幸いして、幕府の公共事業にかかわりを深めていきます。

河村瑞賢の功績の一つが、船運の航路開拓でした。
江戸時代というと、社会が非常に安定していた時代であったことから、世界有数の人口を誇った日本。
人口が増えてくると、日本人の主食である米が大量に必要になってきます。
そんな米を運ぶ安全な航路が早急に必要となったわけです。
そこで河村瑞賢は、現在の福島県阿武隈川河口から本州に沿って南下して、江戸へと入る東回り航路を開きます。
また、最上川河口から瀬戸内海をまわり、紀伊半島を迂回して江戸に入る西回り航路も開拓しました。
こういった船の航路開拓を行うことによって、江戸時代の海運は大いに発展することになったのでした。

また、航路の開拓だけではなく、治水事業にも大いにその腕を振るいます。
個の治水事業の功績が、大阪にある河村瑞賢紀功碑につながっていくわけですね。
当時の大阪はというと、軟弱な地盤で海抜も低く、多くの川や島によって成り立っている街でした。
そのような土地柄であったため、ひとたび猛烈な雨が降ったりすると、すぐい水害が発生してしまうような土地柄でした。
特に、大阪を流れる淀川からの大洪水は大きな問題でした。
そこで河村瑞賢は、淀川水系の新川に目を付けます。
当時の新川というと、かつて存在していた九条島で大きく北に迂回し大阪湾へと流れ込みます。
この大きな迂回地があることによって、大阪には水害がもたらされていたのでした。
そこで河村瑞賢はこ、この九条島を切開し、九条と西九条とに分けることによって、洪水被害の解消を行いました。
そして、この新川が後に安治川と呼ばれるようになり、現在にまで続いているのです。
これだけの工事をたった4年で成し遂げてしまったのでした。
この工事の際に、南岸に土砂を盛り上げて航路の目印ともしました。
この土砂の山がいわゆる瑞賢山と呼ばれ、後に波除山とも呼ばれるようになり、現在は平坦化されましたが、その跡地は残っているのです。

また、安治川以外にも、大阪の中心を流れる大川や堂島川、曽根崎川などの拡幅や、その他の川でも安治川同様に開削事業を行いました。
さらには、大和川の浚渫(しゅんせつ)工事も行い、こういった数々の治水事業によって大阪の街は安定し、経済的に発展していく地盤が出来上がったわけなのでした。

河村瑞賢はその後82歳でその生涯を閉じますが、その功績によって晩年に旗本なるまでになったのでした。
これほどの功績を残した人物であったため、その功績を称えて明治44年にこの地に河村瑞賢紀功碑が建てられたのでした。

アクセス

大坂メトロ九条駅から北に600mほどのところにあります。

河村瑞賢紀功碑に行ってみた

それでは、河村瑞賢紀功碑に行ってみましょう。

安治川沿いにある一画に河村瑞賢紀功碑はあります。
上の写真のような大きな石を用いた碑です。

碑の背面には、漢文で掘られた文が書かれています。
もちろんながら読むことができません。

しかしすぐそばにその原文の意味が現代語で書かれているため、この碑の意味がよくわかるようになっています。

なお、この辺りにはかつて古川という川が流れ安治川に至っていたようです。
長さ750m、幅15mという規模の皮だったようですが、昭和前半に埋め立てられてしまったため、その記念碑もここに建てられています。

これらの碑が置かれているこの場所ですが、上の写真のように小高い所になっています。
おそらく、この周囲にかつての古川があったため、このような地形になっているのではないかと推測できます。

いかがだったでしょうか。
常に治水事業とと隣り合わせであった大阪の街。
そこには数多くの歴史上の人物が尽力し、現在のような災害というものが非常に稀になった大阪を作り出していったのでしょうね。
そういった現在のような状態を作り出してくれた先人たちの偉業の数々は忘れてはいけないことですよね。
そして、私たちが次の世代のために残すことができることはどのようなことなのか?そういったことも考えさせられる場所なのでした。