1127【神奈川紀行】いよいよ鎌倉シリーズスタート!その第一弾は若宮大路 一の鳥居のそばにある『畠山重保邸跡・重保供養塔』

関東地方(Kanto)
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鎌倉時代を取りあげた大人気大河ドラマの『鎌倉殿の13人』。
今回からは、そんな鎌倉殿の13人にまつわる様々な史跡について見ていきたいと思います。
そのために実際に訪れたのが神奈川県の鎌倉。
この鎌倉には本当にたくさんの鎌倉幕府・鎌倉時代にまつわるものがたくさんあるのですが、それら一つ一つをたどっていきたいと思います。

今回紹介するのは『畠山重保邸跡・重保供養塔』と呼ばれる場所。
畠山重保?
畠山重忠であれば、序盤から終盤にかけて物語の要所を固めた人物の一人でしたよね。
しかし、でっちあげから始まった畠山重忠の乱によって一族は滅亡してしまうわけです。
その畠山重忠の乱の際に、鎌倉の武士たちの謀略によって殺されてしまった畠山重忠の息子。
その人物こそが畠山重保なのです。

父親を畠山重忠
母親を北条家の娘という、いうなれば北条家とも親戚関係にあるこの重保。
しかし、時代は不遇な時代であり、親族であっても殺されてしまうという時代だったのでした。
その畠山重保の邸宅があったとされる場所が今回紹介しているところなのです。

鶴岡八幡宮に向かう若宮大路。
そこには3つの鳥居が立ち並んでいます。
その中でも、最も南にある最初の鳥居が一の鳥居といいます。
そのすぐそばにあるのが畠山重保邸跡・重保供養塔であり、一つ一つ鎌倉の史跡を深く見ていきたい人にとっては、最初に訪れることになるであろう場所なのです。

今回はその、畠山重保邸跡・重保供養塔について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • さあ、鎌倉時代の痕跡を一つ一つたどっていきましょう。まず最初は、畠山重保邸跡・重保供養塔です。

鎌倉紀行の記事です。

1189【神奈川紀行】鎌倉の閑静な住宅地に建つ、ひときわ目立つランドマーク的な邸宅『加賀谷邸』
甘縄神明神社につながる小道を歩いていると、その途中にふと気になる住居がありました。訪れたときには改修工事?を行っていたようなのですが、それであってもまわりの家とはかなり趣の異なるこの家。実は、鎌倉市景観重要建築物に選ばれている家なのです。その家を加賀谷邸といいます。
1188【神奈川紀行】ここにかつて若宮大路を代表する大鳥居が存在していた『浜の大鳥居跡』
源頼朝が鶴岡八幡宮を現在の場所に遷座したときに鳥居も造られました。その時代、一の鳥居は、最も南側の海岸寄りにあった鳥居であったこともあり、浜鳥居と呼ばれていました。浜鳥居はその後何度も再建が繰り返され、現在の一の鳥居へとつながっていますが、実は過去の濱鳥居は現在の一の鳥居とは異なる場所にあった痕跡が発掘されているのです。それこそが浜の大鳥居跡なのです。
1187【神奈川紀行】鎌倉幕府の創設に多大な貢献を果たした伝説の武士 畠山重忠の邸宅があったとされる場所に残る碑『畠山重忠邸址』
今回はとある人物の邸址の史跡となります。その人物とは畠山重忠。鎌倉幕府創設期の有力御家人として活躍したものの、北条時政の計略によって謀反の疑いをかけられ、一族が滅ぼされることになってしまった人物です。大河ドラマの鎌倉殿の13人での好演も印象深いこの人物なのですが、その畠山重忠の邸宅があったとされる場所が鶴岡八幡宮のすぐ東側に残されています。それが畠山重忠邸址の碑なのです。
1186【神奈川紀行】なぜここにこれらの人物の墓が!?『大江広元の墓・毛利季光の墓・島津忠久の墓』
大江広元は大河ドラマの鎌倉殿の13人でも登場した源頼朝の側近として、頼朝亡き後も文官として鎌倉幕府を支え続けた人物であったため、この地にその墓があるというのは納得ですよね。ところが、そのすぐ横に毛利氏の墓があったり、島津氏の墓があったりするのはなぜなのだろう?となるかもしれません。
1185【神奈川紀行】かつては鎌倉幕府を支える鉄壁の一族だったが・・・『三浦一族のやぐら』
鎌倉幕府の創設期から幕府を支えてきた三浦一族なのですが、最後には北条一族と争った結果敗れてしまい、一族もろとも自刃するわけなのです。そんな三浦一族を法務経ったとされる場所が今回紹介している三浦一族のやぐらなのです。 皮肉にも、北条義時を祀っている法華堂があったとされる場所のすぐ裏手にあるこのやぐらと呼ばれる場所。鎌倉散策では必ず訪れておきたい場所ですよね。
1183【神奈川紀行】かつての大倉幕府にあった4つの門の一つ。東門があったとされる場所に残る碑『東御門』
鎌倉にかつてあった大倉御所というものは影も形も残っていません。御所の中心は現在は清泉小学校という小学校の敷地になっています。そしてその御所の東西にあった門は、東御門そして西御門というものがありました。これらは現在は地名などでしか残っていません。
1182【神奈川紀行】フランスに伝わるルルドの奇跡。その願いを鎌倉の地にも『ルルドの洞窟』
ルルドの洞窟とは、フランスのピレネー山脈にあるルルドという町にあるとある洞窟です。この場所で、聖母マリアがとある少女の前に何度も現れ、お告げを与えたことによって数々の奇跡がおこったという場所とされています。そのため、現在でもなお、心身の癒しを求めて、世界中から多くの人々がルルドを訪れています。
1180【神奈川紀行】 鎌倉十井の一つ。鉄の観音像の伝説が残る『鉄の井(くろがねのい)』
今回取り上げているのは、鉄の井といいます。"てつのい"ではなく、"くろがねのい"と言います。鎌倉十井の中でも、とにかく人通りの多い小町通りの北の端にあるため、おそらく見かけたこともある人は多いのではないでしょうか。この井戸が"鉄"と呼ばれるのは、ここの井戸からとあるものが掘りだされたことに由来するのです。今となっては真偽はわからないその出来事。では、この鉄の井に残る伝説とは何なのでしょうか。
1172【神奈川紀行】和田塚につながる江ノ電の駅『和田塚駅』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、大人気となった登場人物である和田義盛。幕府のために尽力した人物であったものの、最後は北条義時との対立によって和田合戦を誘発され、討ち取られてしまった人物です。和田義盛が眠る場所である和田塚は、江ノ島電鉄のとある駅の近くにあります。その駅とはそのままで『和田塚駅』と言います。駅名になるほどの史跡なのですよ。
1169【神奈川紀行】由比ヶ浜に散った和田合戦の犠牲者たちを弔った『和田塚』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。序盤から終盤まで登場し、殺伐としたドラマにひと時の安ど感を与えた、同ドラマ内でも大人気にキャラクターがいます。その人物とは、和田義盛です。鎌倉幕府の中でも初代侍所長官などを務め、鎌倉政権の立ち上がり時になくてはならなかった人物です。
1165【神奈川紀行】長谷駅周辺は、新たなスパイスカレーの集まる地『Woof Curry』
今回紹介するお店は、Woof Curryというお店です。スパイスをふんだんに使用したカレーであることは確かですが、ジャンルとしてはどちらかというと欧風カレーのお店です。そのためスパイスカレーって初めてだなあという人にとってもなじみやすい味なのではないかと思います。
1164【神奈川紀行】鎌倉の大仏へ行くときには必ずお世話になる、江ノ電の名物駅『長谷駅』
日本に数ある鉄道の中でも、ここほど有名な鉄道も他にはないのではないでしょうか。家々と鉄道とが共存する光景がなんだかほっこりとさせてくれる鉄道。それは、神奈川県南部を走る江ノ島電鉄、通称江ノ電ではないでしょうか。そして、鎌倉から始まるこの鉄道は、鎌倉観光の際には必ずと言っていいほど利用する鉄道でもあります。
1161【神奈川紀行】ここが鎌倉の武家政治の拠点があった場所『大倉幕府跡(大蔵幕府跡)』
鎌倉幕府の中心出会った場所は、今は何も建物は残っていません。石碑が残るのみなのです。その幕府の政務が行われていた場所というのは、大倉御所と言います。そして、その場所で政務が行われていたため、史跡としては大倉幕府跡として残されているのです。
1155【神奈川紀行】源頼朝の墓のすぐ横にあるもう一つの墓『法華堂跡(北条義時墓)』
北条義時が眠る場所というのはどこにあるのでしょうか。実は、源頼朝と並び、同じく法華堂に葬られていたのだそうです。その北条義時が葬られていた場所は法華堂跡として源頼朝の墓のすぐ東側に残されているのです。
1148【神奈川紀行】かつて世の中を牛耳った天下の将軍。しかし、その墓は今はひっそりと『法華堂跡(源頼朝墓)』
何百年も続く武家を中心とした社会の基盤を作り上げたこの源頼朝ですが、今も鎌倉の地に眠り続けているわけです。では、その源頼朝の墓ってどこにあるの?実は鶴岡八幡宮の近くにあるのです。
1143【神奈川紀行】鎌倉市最古の神社。源氏将軍家から代々大切にされ続けていた『甘縄神明神社』
鎌倉殿をたどる鎌倉散策。今回はそんな鎌倉にある神社です。鎌倉時代を彩った歴史上の人物たちが物心ついたころにはすでにこの地にこの神社はあったわけなのです。その神社の名を甘縄神明神社(あまなわしんめいじんじゃ)といいます。
1140【神奈川紀行】鎌倉幕府の大倉御所西御門があった場所にある 『来迎寺(西御門)』
かつて西御門には数多くのお寺が建てられていましたが、この来迎寺はその中でも唯一残っているお寺です。その創建は1293年とされており、次週の開祖としても有名な一遍上人によって建立されたといわれていますが、その沿革には不明な点が多くあります。
1138【神奈川紀行】北条得宗家の屋敷があったとされる地に建つ寺 『宝戒寺』
今回紹介している場所は、鶴岡八幡宮のすぐ近く。境内にある三の鳥居の道を東に向かってしばらく行くとこの場所は見えてきます。そこは宝戒寺というお寺なのです。なんだ、お寺かあ・・・。と思うかもしれませんが、ここは鎌倉幕府に非常にゆかりのある寺なのです。鎌倉幕府の時代にはここにお寺はありませんでした。では、何がここにはあったのかというと、ある邸宅があったのです。
1134【神奈川紀行】関東大震災で倒壊したものの、唯一元通りに復元された『一の鳥居』
鶴岡八幡宮へと向かう若宮大路にあって、一番最初に現れる鳥居ということで、その存在感は抜群です。日光東照宮、八坂神社、これらの場所にある石鳥居と合わせて、日本三大石鳥居にも数えられるほどの鳥居なのが、この一の鳥居なのです。
1132【神奈川紀行】実は、鶴岡八幡宮に延びる大通りをさらに偉大に見せるための工夫が施されている『若宮大路』
前回は畠山重保の邸宅跡を紹介しましたが、この邸宅跡は鎌倉の鶴岡八幡宮へと続く大通りが若宮大路です。鎌倉が面する由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へと続く参道であり、鎌倉のメインストリートですよね。参道自体は1.8kmもの長さがあり、その途中に3つの鳥居があります。そして、鳥居を抜けた先にあるのがかの有名な鶴岡八幡宮なのですね。

畠山重保邸跡、重保供養塔

畠山重保邸跡・重保供養塔は、神奈川県鎌倉にある史跡の一つです。
由比ヶ浜から鶴岡八幡宮栄男向かう若宮大路。
この大通りを北上していくと、一の鳥居という大きな鳥居が見えてきます。
その鳥居のすぐ西側に、大きな石碑と大きな宝篋印塔があります。
これは畠山重保邸跡・重保供養塔と呼ばれる場所であり、かつての鎌倉幕府の御家人であった、畠山重保の邸宅跡であったとされる場所です。

この畠山重保ですが、大河ドラマ鎌倉殿の13人でも登場した人物ですが、それほど多くは出てきていません。
しかし、この人物の父親こそがドラマの中でもキーマンの一人として、序盤から終盤にかけて登場し続けた人物、坂東武士の鑑とも呼ばれていた畠山重忠なのです。

ところがこの畠山重忠なのですが、いわれのない謀反の罪を擦り付けられることとなり、一族もろとも滅亡に追い込まれてしまいます。
その際にドラマの中でも登場したのが畠山重保。
登場したのは一瞬ではありましたが、同じ鎌倉幕府の御家人たちにはめられてしまったものの、坂東武士の誇りをもってそれに相対し、立派な最期を遂げたとドラマの中でも語られていました。
その畠山重保の邸宅と、重保を供養するための塔がここにはあるのです。
畠山重保邸跡・重保供養塔自体の歴史も非常に古く、1393年にこの場所に建立されたとみられています。

鎌倉駅から南にあり、鶴岡八幡宮へ行くルートとは逆のルートになります。
そのため、ここを訪れる人は多くはありません。
しかし、ここから順番に鎌倉時代の足跡をたどっていくのもよいかもしれませんよ。

アクセス

JR鎌倉駅から南に500mほどの場所にあります。

畠山重保邸跡・重保供養塔へ行ってみた

それでは畠山重保邸跡・重保供養塔へ行ってみましょう。

若宮大路にある一の鳥居のすぐそば
そこには一つの大きな石碑があります。
ここはかつて鎌倉幕府の御家人であった畠山重保の邸宅があった場所とされています。
畠山重保とは、畠山重忠の乱によって命を落とした畠山重忠の息子です。
享年は不明となっていますが、10代~20代ごろでした。

そして、それに並ぶように石造りの宝篋印塔が並んでいます。
高さが3.4mを越えるような大型の宝篋印塔であり、畠山重保の墓塔として伝えられており、1393年に建立されたものとみられています。
14世紀後半に建立された宝篋印塔として、かなりの歴史があるものとなっています。

いかがだったでしょうか。
いよいよ鎌倉殿の13人を巡る旅が始まります。
ここから若宮大路を北上していき、まずは鶴岡八幡宮へと向かって行くのです。
今回紹介した畠山重保邸跡・重保供養塔は、若宮大路の中でも、JR鎌倉駅から南にあることもあって、ここまでやってくる観光客はほとんどいないといってもいいかもしれません。
その分、ゆっくりと散策できるので、この畠山重保邸跡・重保供養塔、一の鳥居を見て回るということはお勧めなわき道旅だったりするのです。
見どころたくさんの鎌倉散策。
これから一つ一つたどっていくとしましょう。