鎌倉時代を取りあげた大人気大河ドラマの『鎌倉殿の13人』。
今回からは、そんな鎌倉殿の13人にまつわる様々な史跡について見ていきたいと思います。
そのために実際に訪れたのが神奈川県の鎌倉。
この鎌倉には本当にたくさんの鎌倉幕府・鎌倉時代にまつわるものがたくさんあるのですが、それら一つ一つをたどっていきたいと思います。
今回紹介するのは『畠山重保邸跡・重保供養塔』と呼ばれる場所。
畠山重保?
畠山重忠であれば、序盤から終盤にかけて物語の要所を固めた人物の一人でしたよね。
しかし、でっちあげから始まった畠山重忠の乱によって一族は滅亡してしまうわけです。
その畠山重忠の乱の際に、鎌倉の武士たちの謀略によって殺されてしまった畠山重忠の息子。
その人物こそが畠山重保なのです。
父親を畠山重忠。
母親を北条家の娘という、いうなれば北条家とも親戚関係にあるこの重保。
しかし、時代は不遇な時代であり、親族であっても殺されてしまうという時代だったのでした。
その畠山重保の邸宅があったとされる場所が今回紹介しているところなのです。
鶴岡八幡宮に向かう若宮大路。
そこには3つの鳥居が立ち並んでいます。
その中でも、最も南にある最初の鳥居が一の鳥居といいます。
そのすぐそばにあるのが畠山重保邸跡・重保供養塔であり、一つ一つ鎌倉の史跡を深く見ていきたい人にとっては、最初に訪れることになるであろう場所なのです。
今回はその、畠山重保邸跡・重保供養塔について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
鎌倉紀行の記事です。




















畠山重保邸跡、重保供養塔
畠山重保邸跡・重保供養塔は、神奈川県鎌倉にある史跡の一つです。
由比ヶ浜から鶴岡八幡宮栄男向かう若宮大路。
この大通りを北上していくと、一の鳥居という大きな鳥居が見えてきます。
その鳥居のすぐ西側に、大きな石碑と大きな宝篋印塔があります。
これは畠山重保邸跡・重保供養塔と呼ばれる場所であり、かつての鎌倉幕府の御家人であった、畠山重保の邸宅跡であったとされる場所です。
この畠山重保ですが、大河ドラマ鎌倉殿の13人でも登場した人物ですが、それほど多くは出てきていません。
しかし、この人物の父親こそがドラマの中でもキーマンの一人として、序盤から終盤にかけて登場し続けた人物、坂東武士の鑑とも呼ばれていた畠山重忠なのです。
ところがこの畠山重忠なのですが、いわれのない謀反の罪を擦り付けられることとなり、一族もろとも滅亡に追い込まれてしまいます。
その際にドラマの中でも登場したのが畠山重保。
登場したのは一瞬ではありましたが、同じ鎌倉幕府の御家人たちにはめられてしまったものの、坂東武士の誇りをもってそれに相対し、立派な最期を遂げたとドラマの中でも語られていました。
その畠山重保の邸宅と、重保を供養するための塔がここにはあるのです。
畠山重保邸跡・重保供養塔自体の歴史も非常に古く、1393年にこの場所に建立されたとみられています。
鎌倉駅から南にあり、鶴岡八幡宮へ行くルートとは逆のルートになります。
そのため、ここを訪れる人は多くはありません。
しかし、ここから順番に鎌倉時代の足跡をたどっていくのもよいかもしれませんよ。
アクセス
JR鎌倉駅から南に500mほどの場所にあります。
畠山重保邸跡・重保供養塔へ行ってみた
それでは畠山重保邸跡・重保供養塔へ行ってみましょう。

若宮大路にある一の鳥居のすぐそば。
そこには一つの大きな石碑があります。
ここはかつて鎌倉幕府の御家人であった畠山重保の邸宅があった場所とされています。
畠山重保とは、畠山重忠の乱によって命を落とした畠山重忠の息子です。
享年は不明となっていますが、10代~20代ごろでした。

そして、それに並ぶように石造りの宝篋印塔が並んでいます。
高さが3.4mを越えるような大型の宝篋印塔であり、畠山重保の墓塔として伝えられており、1393年に建立されたものとみられています。
14世紀後半に建立された宝篋印塔として、かなりの歴史があるものとなっています。
いかがだったでしょうか。
いよいよ鎌倉殿の13人を巡る旅が始まります。
ここから若宮大路を北上していき、まずは鶴岡八幡宮へと向かって行くのです。
今回紹介した畠山重保邸跡・重保供養塔は、若宮大路の中でも、JR鎌倉駅から南にあることもあって、ここまでやってくる観光客はほとんどいないといってもいいかもしれません。
その分、ゆっくりと散策できるので、この畠山重保邸跡・重保供養塔、一の鳥居を見て回るということはお勧めなわき道旅だったりするのです。
見どころたくさんの鎌倉散策。
これから一つ一つたどっていくとしましょう。