1128【静岡紀行】その天守台の巨大さからは、ここに日本最大の店主があったのではないかとも想定されるほどの城『駿府城』

百名城/続・百名城(Castle)
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2023年は大河ドラマの影響もあって、徳川家康にまつわる城の数々が非常に盛り上がっていますね。
そんな城の数々は東京から静岡、愛知にかけてあります。
そのような城の数々の中でも、徳川家康が幼少期に過ごし、そして征夷大将軍を退いた晩年に過ごしたとされる、家康にとってはその人生の中で重要な拠点となった城があるのです。
それこそが静岡県にある駿府城です。

特に、晩年を過ごしたとされるこの駿府城には、かつて天守が建っていたとされています。
そして、近年その天守が建っていた天守台が発掘されているのですが、その規模が日本でも最大級のものとして話題になっているのです。
幕府のある江戸にあった最大の城が江戸城でした。
しかし、それに匹敵するかそれ以上だったと考えられているのが駿府城の天守なのです。

そんな巨大な天守があったとされる駿府城ではありますが、徳川家康が大御所として辣腕を振るった後、家康の死後に焼失してしまっています。
そして、天守の設計図も残されていない状態であるため、謎の天守として人々の記憶から忘れ去られようとしていました。
ところが、2016年から天守台の本格的な調査が始まり、その規模が知れ渡ってくるにつれて、この駿府城がいかに重要な拠点として家康に考えられていたのかということが分かってくるようになってきているのです。

今回はそんな、徳川家康にとって重要な拠点であった駿府城について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 徳川家康晩年の超巨大な城であったと考えられる駿府城。盛り上がっている2023年だからこそ訪れてみよう。

静岡の記事です。

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駿府城

駿府城は現在の静岡県静岡市にある城跡であり、現在は駿府城址公園として整備されています。
この駿府城ですが、江戸幕府を立ち上げた徳川家康が、征夷大将軍を退いた後に晩年を過ごした城として有名な城です。
しかし、駿府城そしてその天守が築造されたのは、16世紀松のこと。
それまではこの場所には、強大な戦国大名であった今川義元氏の館があったと考えられている場所なのです。
そして、徳川家康というと幼少のまだ竹千代と呼ばれていたころ、人質として駿府で暮らしていました。
ところが、今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまいます。
その後の今川氏は衰退の一途であり、最終的に甲斐の武田信玄によって今川氏は駿府を追われることになります。

その後今川氏の両国は武田の支配拠点となりますが、その武田勢も織田信長と徳川家康の連合勢力によって滅亡に追いやられます。
そして、駿河にあった武田両派徳川家康が領有することとなったのでした。
再び駿河に入った徳川家康は1585年に駿府城初となる天守の築城を開始し、それまでの拠点だった浜松から駿府へと入ります。
この時に建てられたのが天正の天守台と天守なのです。

幼少期を過ごした駿府で力を強めていこうとした矢先、豊臣秀吉が北条氏を討ち取った後に徳川家康を江戸へと移封します。
その後の駿府城には、豊臣系の大名が入城します。

強大な力を握った豊臣秀吉ではありましたが、秀吉が亡きあとは関ヶ原の戦い、大坂の陣を制して名目共に日本全土を支配下におさめた徳川家康。
江戸幕府初代征夷大将軍として盤石な幕府の体制を築きますが、早々に息子であった徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所として駿府城に隠居します。
その際に、各地の大名による天下不振が行われ、三重の堀をもつ輪郭式の平城が完成します。
1610年には、日本最大クラスの慶長の天守が誕生するのです。
その天守は7階ある大型の天守であり、天守台の外周には隅櫓や多聞櫓などが置かれる構造だったのだそうです。

1616年に徳川家康はなくなってしまい、駿府城の天守も焼失してしまいます。
駿府の地はその後明治維新になるまで幕府の直轄地として管理されました。
明治時代には駿府城そのものが廃城となり、駿府城の跡地は駿府城公園として整備されました。

アクセス

JR静岡駅から北西に1kmほどの場所にあります。

駿府城へ行ってみた

それでは駿府城に行ってみましょう。

広大な敷地内には見どころがたくさん。
じっくりと見ていってみましょう。
今回は、北御門から駿府城敷地内へと訪問しました。

こちらが現在の駿府城公園の案内図です。
正方形の敷地となっているので、グルッと一周すると主要なところは全て見ることができるようです。

話題の天守台発掘調査が行われているので、随所にこのような案内板が出ていました。

春の桜の時期の様子です。
お花見目的や、地域のイベントなどでもよく使われているようです。

徳川家康公の像が見えてきました。
その裏には天守台の発掘調査を行っている現場があります。

早朝のため発掘現場にはまだ入れなかったので、一旦敷地内を見て回ります。
まずは坤(ひつじさる)櫓です。

坤櫓は、二之丸の南西隅にある櫓です。
防御の拠点としてだけではなく、武器庫としても使われていたとされている櫓です。

こちらは南側にある二之丸橋です。

続いて東御門にある巽櫓に向かって行きます。

途中にある堀は本丸堀と呼ばれ、駿府城にある三重堀の中でも一番内側の本丸を取り囲んでいる堀です。
こちらは駿府城の発掘調査によって再び姿を現した堀なのだそうです。

そしてその本丸堀と二之丸堀とは水路で結ばれています。
本丸堀の水を外に流す目的て設けられているこの水路は、接続部分に段差を設けて本丸堀の水位が常に保たれるように工夫されているのだそうです。

城内の案内図です。
独特な形に加工された石の面に城内の絵図が表されています。

こちらは北東にある紅葉山庭園です。
中には茶室も設けられているようです。

こちらは東御門、そして巽櫓です。
内部に入って見学をすることができます。
東御門は駿府城にとっても主要な出入り口であったとされ、重臣たちが出入り口として利用していたと考えられています。
なお、東御門は天主と共に1635年に焼失していたのですが、その3年後に再建されたとされています。
現在の東御門は、この再建された当時の姿を含転したものとして造られました。

こちらは東御門橋です。

それでは巽櫓に入っていきましょう。
こちらの櫓では駿府城の歴史、徳川家康の歴史などかなり詳しく紹介されています。

その櫓の中にあった、竹千代(家康の幼少期の名)手習いの間を再現した場所がありました。
この小さな部屋の中で家康は勉強をしていたとされています。

巽櫓を出たところです。
それでは天守台の発掘現場へと行ってみましょう。

こちらが天守台の発掘現場となっています。
駿府城の天守台は、天正期の天守台とそれに連なって慶長期の天守台とが存在しており、その規模は江戸城に匹敵するかそれを上回るものだとされています。

本丸を取り囲む堀の様子も見ることができるようになっています。

発掘調査上には、発掘情報館のきゃっしるという建物もあり、簡単な発掘情報を得ることができるようになっています。

発掘現場の航空写真図です。
歩いてみてもわかるのですが、とてつもなく巨大な天守台であり、ここにどれほどの規模の天守が建っていたのか想像が膨らみます。

このあたりは慶長期天守台の部分です。

こちらには本丸堀から出た石が山積みにされていました。
発掘が進むにつれて、徐々にこれらも復元に使われていくことでしょう。

最後に、徳川家康公手植えのミカンとされているミカンの木です。

いかがだったでしょうか。
これほど巨大な天守台が残る駿府城。
これはこれからますます訪れる人々が後を絶たない場所になっていくのであろうと考えられますね。
家康の人生の中でも、幼少期と晩年とを過ごしたとされる重要な拠点だった駿府城。
ここに、徳川家康の、そして江戸幕府のルーツがあるのかもしれませんね。