1134【神奈川紀行】関東大震災で倒壊したものの、唯一元通りに復元された『一の鳥居』

関東地方(Kanto)
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今回紹介するのは、鎌倉の若宮大路に立つ3つの大鳥居
その中でも、最も南の由比ヶ浜寄りに建つ一の鳥居です。
鎌倉駅から500mほど南にあるこの鳥居ですが、現在は両サイドを車道に囲まれた中央にアイランド型で残っている鳥居です。
駅や観光の中心地から遠いことや、鳥居のある場所が人々の動線上にはないため、他の2つの鳥居に比べると訪れる人の数は多くはありません。
しかし、鶴岡八幡宮へと向かう若宮大路にあって、一番最初に現れる鳥居ということで、その存在感は抜群です。
日光東照宮、八坂神社、これらの場所にある石鳥居と合わせて、日本三大石鳥居にも数えられるほどの鳥居なのが、この一の鳥居なのです。

ところで、これら3つの鳥居ですが、元々は鎌倉幕府成立の頃に建てられたものではありましたが、現在の鳥居は江戸時代、四代将軍徳川家綱によって寄進されたものなのです。
しかし、その寄進された鳥居も、大正期に起こった関東大震災によって全て倒壊してしまいます。
しかし、3つの鳥居の中で、この一の鳥居だけが元通りに再建されているのです。
そう聞くと、この一の鳥居が中心地から離れていたとしても、足を運んでみたくなりませんか?

今回はこの、鎌倉の若宮大路にある一の鳥居について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 若宮大路に立つ3つの鳥居の一つ目。実は、唯一修復再建されている重要文化財 一の鳥居を見に行ってみよう。

鎌倉に関する記事です。

1189【神奈川紀行】鎌倉の閑静な住宅地に建つ、ひときわ目立つランドマーク的な邸宅『加賀谷邸』
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1187【神奈川紀行】鎌倉幕府の創設に多大な貢献を果たした伝説の武士 畠山重忠の邸宅があったとされる場所に残る碑『畠山重忠邸址』
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1183【神奈川紀行】かつての大倉幕府にあった4つの門の一つ。東門があったとされる場所に残る碑『東御門』
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1180【神奈川紀行】 鎌倉十井の一つ。鉄の観音像の伝説が残る『鉄の井(くろがねのい)』
今回取り上げているのは、鉄の井といいます。"てつのい"ではなく、"くろがねのい"と言います。鎌倉十井の中でも、とにかく人通りの多い小町通りの北の端にあるため、おそらく見かけたこともある人は多いのではないでしょうか。この井戸が"鉄"と呼ばれるのは、ここの井戸からとあるものが掘りだされたことに由来するのです。今となっては真偽はわからないその出来事。では、この鉄の井に残る伝説とは何なのでしょうか。
1172【神奈川紀行】和田塚につながる江ノ電の駅『和田塚駅』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、大人気となった登場人物である和田義盛。幕府のために尽力した人物であったものの、最後は北条義時との対立によって和田合戦を誘発され、討ち取られてしまった人物です。和田義盛が眠る場所である和田塚は、江ノ島電鉄のとある駅の近くにあります。その駅とはそのままで『和田塚駅』と言います。駅名になるほどの史跡なのですよ。
1169【神奈川紀行】由比ヶ浜に散った和田合戦の犠牲者たちを弔った『和田塚』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。序盤から終盤まで登場し、殺伐としたドラマにひと時の安ど感を与えた、同ドラマ内でも大人気にキャラクターがいます。その人物とは、和田義盛です。鎌倉幕府の中でも初代侍所長官などを務め、鎌倉政権の立ち上がり時になくてはならなかった人物です。
1165【神奈川紀行】長谷駅周辺は、新たなスパイスカレーの集まる地『Woof Curry』
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1164【神奈川紀行】鎌倉の大仏へ行くときには必ずお世話になる、江ノ電の名物駅『長谷駅』
日本に数ある鉄道の中でも、ここほど有名な鉄道も他にはないのではないでしょうか。家々と鉄道とが共存する光景がなんだかほっこりとさせてくれる鉄道。それは、神奈川県南部を走る江ノ島電鉄、通称江ノ電ではないでしょうか。そして、鎌倉から始まるこの鉄道は、鎌倉観光の際には必ずと言っていいほど利用する鉄道でもあります。
1161【神奈川紀行】ここが鎌倉の武家政治の拠点があった場所『大倉幕府跡(大蔵幕府跡)』
鎌倉幕府の中心出会った場所は、今は何も建物は残っていません。石碑が残るのみなのです。その幕府の政務が行われていた場所というのは、大倉御所と言います。そして、その場所で政務が行われていたため、史跡としては大倉幕府跡として残されているのです。
1155【神奈川紀行】源頼朝の墓のすぐ横にあるもう一つの墓『法華堂跡(北条義時墓)』
北条義時が眠る場所というのはどこにあるのでしょうか。実は、源頼朝と並び、同じく法華堂に葬られていたのだそうです。その北条義時が葬られていた場所は法華堂跡として源頼朝の墓のすぐ東側に残されているのです。
1148【神奈川紀行】かつて世の中を牛耳った天下の将軍。しかし、その墓は今はひっそりと『法華堂跡(源頼朝墓)』
何百年も続く武家を中心とした社会の基盤を作り上げたこの源頼朝ですが、今も鎌倉の地に眠り続けているわけです。では、その源頼朝の墓ってどこにあるの?実は鶴岡八幡宮の近くにあるのです。
1143【神奈川紀行】鎌倉市最古の神社。源氏将軍家から代々大切にされ続けていた『甘縄神明神社』
鎌倉殿をたどる鎌倉散策。今回はそんな鎌倉にある神社です。鎌倉時代を彩った歴史上の人物たちが物心ついたころにはすでにこの地にこの神社はあったわけなのです。その神社の名を甘縄神明神社(あまなわしんめいじんじゃ)といいます。
1140【神奈川紀行】鎌倉幕府の大倉御所西御門があった場所にある 『来迎寺(西御門)』
かつて西御門には数多くのお寺が建てられていましたが、この来迎寺はその中でも唯一残っているお寺です。その創建は1293年とされており、次週の開祖としても有名な一遍上人によって建立されたといわれていますが、その沿革には不明な点が多くあります。
1138【神奈川紀行】北条得宗家の屋敷があったとされる地に建つ寺 『宝戒寺』
今回紹介している場所は、鶴岡八幡宮のすぐ近く。境内にある三の鳥居の道を東に向かってしばらく行くとこの場所は見えてきます。そこは宝戒寺というお寺なのです。なんだ、お寺かあ・・・。と思うかもしれませんが、ここは鎌倉幕府に非常にゆかりのある寺なのです。鎌倉幕府の時代にはここにお寺はありませんでした。では、何がここにはあったのかというと、ある邸宅があったのです。
1132【神奈川紀行】実は、鶴岡八幡宮に延びる大通りをさらに偉大に見せるための工夫が施されている『若宮大路』
前回は畠山重保の邸宅跡を紹介しましたが、この邸宅跡は鎌倉の鶴岡八幡宮へと続く大通りが若宮大路です。鎌倉が面する由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へと続く参道であり、鎌倉のメインストリートですよね。参道自体は1.8kmもの長さがあり、その途中に3つの鳥居があります。そして、鳥居を抜けた先にあるのがかの有名な鶴岡八幡宮なのですね。
1127【神奈川紀行】いよいよ鎌倉シリーズスタート!その第一弾は若宮大路 一の鳥居のそばにある『畠山重保邸跡・重保供養塔』
今回紹介するのは『畠山重保邸跡・重保供養塔』と呼ばれる場所。畠山重保?畠山重忠であれば、序盤から終盤にかけて物語の要所を固めた人物の一人でしたよね。しかし、でっちあげから始まった畠山重忠の乱によって一族は滅亡してしまうわけです。その畠山重忠の乱の際に、鎌倉の武士たちの謀略によって殺されてしまった畠山重忠の息子。その人物こそが畠山重保なのです。

一の鳥居(浜の大鳥居)

一の鳥居は、鎌倉の若宮大路にある3つの大鳥居の一つであり、最も由比ヶ浜に近い南側にある鳥居です。
別名、浜の大鳥居とも呼ばれています。
御影石で作られた鳥居であり、その高さは8.5mもあります。
古くは1180年に鎌倉幕府初代将軍である源頼朝によって建立されたとされているこの鳥居。
その時代に鶴岡八幡宮を由比ヶ浜沿いから現在地に移された際に、新しい鶴岡八幡宮へと続く参道である若宮大路が整備されました。
その際に、海岸から順に一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居が配置されました。

頼朝の時代から約500年の後、江戸幕府4代将軍徳川家綱によって1668年に再建され、現在まで受け継がれている国の重要文化財でもあります。
なぜ徳川家綱がこの鳥居を再建したのかというと、江戸幕府2代将軍である徳川秀忠の正室であるお江が信仰していた八幡大神に関係しています。
お江の夢の中に八幡大神が現れm、現在の岡山県である備前の国の犬島にある石で一の鳥居を造りなさい、というお告げがあったのだそうです。
犬島といえば、大坂城築城時にもここの石材が用いられたことで有名な島ですね。
その後、家光が無事に誕生。
しかし、家光の時代にはこの夢のお告げを実現させることはできませんでした。
家光の子である家綱の時代になり、徳川家長年の礼を込めて、家綱が長い年月をかけて完成させたものだとされています。
備前の国からはるばる海路で鎌倉まで運ばれ、3つの鳥居が全て造られたとされています。

そんな一の鳥居は、石鳥居としても貴重な物であり、日本三大石鳥居にも数えられています。
ところが、江戸時代に建てられたこの鳥居なのですが、実は大正12年の関東大震災によって3つとも全て倒壊してしまっています。
その後、昭和12年に、全てではありませんが江戸時代に用いられた石材を使用して一の鳥居のみが復元・再建されました。
残念なことに、二の鳥居と三の鳥居は現在はコンクリート造なのだそうです。
しかし、かつての二の鳥居と三の鳥居に用いられていた部材は、鶴岡八幡宮境内の源実朝の歌碑などに転用されて残されています。

アクセス

JR鎌倉駅から若宮大路を南に500mほど行ったところにあります。

一の鳥居(浜の大鳥居)へ行ってみた

それでは、一の鳥居(浜の大鳥居)へ行ってみましょう。

由比ヶ浜方面から鶴岡八幡宮へ、若宮大路を北上していくと、車道に挟まれた道路の真ん中に。石造りの大きな鳥居が見えてきます。

こちらが若宮大路にある3つの鳥居の一つ、一の鳥居です。
道路の真ん中にありますが、実際に近くにまで行くことができます。
車道を通らなければいけないので、車に注意しながらわたりましょう。

一の鳥居建立の由来などが説明されています。
この一の鳥居ですが、現在の物は江戸時代に四代将軍徳川家綱によって寄進された鳥居です。
備前の国の犬嶋の石材が海路で鎌倉まで運ばれ、鶴岡八幡宮までの3つの鳥居が石造りで作られたとあります。
ただ、これらの鳥居は全て関東大震災で倒壊してしまっています。
この一の鳥居だけが修理再建されており、残りの2つの鳥居の部材は、鶴岡八幡宮境内の源実朝歌碑などに使用され、現在もまだ残されているのだそうです。

昭和時代に再建された際の記録が残されています。

さあ、ここから鎌倉散策が始まりますね。

いかがだったでしょうか。
若宮大路の3つの鳥居の中でも、唯一再建されている重要文化財 一の鳥居。
鎌倉を訪れても、観光の動線にはこの一の鳥居はなかなか入らないため、訪れたことがないということもあるかもしれません。
しかし、わずか数百メートル。
3つの鳥居の中でも、江戸時代の鳥居という歴史的な価値を残すこの鳥居をわざわざ観光ルートに入れるということは、価値あることなのではないかと思います。
鎌倉に訪れた際には、少し足を延ばして一の鳥居から鎌倉観光をスタートしてみませんか。