鎌倉には本当にたくさんの見どころがあります。
しかし、多くの人々はそのほとんどがある限られたところに集まっているような気がします。
それは、鎌倉の大仏と、鶴岡八幡宮ではないでしょうか。
しかし、それ以外にもとてつもなくたくさんの見どころがあります。
今回紹介している場所は、鶴岡八幡宮のすぐ近く。
境内にある三の鳥居の道を東に向かってしばらく行くとこの場所は見えてきます。
そこは宝戒寺というお寺なのです。
なんだ、お寺かあ・・・。
と思うかもしれませんが、ここは鎌倉幕府に非常にゆかりのある寺なのです。
鎌倉幕府の時代にはここにお寺はありませんでした。
では、何がここにはあったのかというと、ある邸宅があったのです。
誰の邸宅かというと、歴代の北条得宗家の屋敷があったのでした。
北条得宗家というと、北条義時から始まる鎌倉幕府の歴代執権を担ってきた、北条家の中でも格の違う一族です。
そんな北条得宗家ですが、北条家の一族郎党が追い詰められ、自害をしたことによって鎌倉幕府は滅亡を迎えます。
その際にあまりにも多くの人々が命を絶ったのでした。
その慰霊の意味も込めて建立されたのがこの宝戒寺なのです。
鶴岡八幡宮からもほんのわずかの時間で訪れることができるこのお寺。
現在はどのようになっているのでしょうか。
今回はこの鎌倉にある宝戒寺について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
鎌倉に関する記事です。




















宝戒寺
鎌倉にある宝戒寺は、1335年の建武2年に建てられた天台宗のお寺です。
このお寺を建立したのは、あの有名な後醍醐天皇です。
後醍醐天皇といえば、鎌倉幕府を滅亡に追いやり建武の新政を始めた人物。
その後足利尊氏との闘争に敗れ、奈良県の吉野に南朝を開いて南北朝時代を始めた人物ですよね。
その後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅亡に追いやった後に建てたのがこの宝戒寺なのです。
鎌倉幕府末期、朝廷側であった新田義貞の鎌倉攻めによって、北条一族は滅亡に追いやられます。
この宝戒寺から南東に200mほどのところにある腹切りやぐらと呼ばれる場所で、北条一族最後の執権であった北条高時をはじめ、北条一族870名あまりが自害をしたと伝えられています。
驚くほどの数の人が自害をしたわけですよね。
実質鎌倉幕府そのものであった北条一族の滅亡によって、鎌倉幕府は滅亡に追いやられます。
しかし、この驚くほど凄惨な北条一族の最期。
素の霊達を弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて宝戒寺は建てられました。
後醍醐天皇が命じたものの、実際に寺の造営が行われたのは建武の新政が崩壊し、後醍醐天皇が没した後と言われています。
この宝戒寺があった場所には、かつて北条執権一族の屋敷があったとされています。
寺の中には、寺の建造当時から残る重要文化財が残ります。
木造地蔵菩薩坐像は、作られてから700年以上も経つ貴重な文化財です。
またそれと同時代に作られた像が他にもあり、その歴史の長さを感じさせられます。
境内の中には四季を通じて様々な花が咲き乱れます。
春には桜、夏には百日紅。
冬には梅やツバキなどですね。
その中でも秋に咲く萩が有名であり、萩の寺としても有名なのが宝戒寺なのです。
アクセス
鶴岡八幡宮の三の鳥居から、南東へ300mほどの場所にあります。
宝戒寺へ行ってみた
それでは宝戒寺へ行ってみましょう。

鶴岡八幡宮から東に向かって500mほど歩くと宝戒寺が見えてきます。
かなり近い場所にあるのですね。

ここが北条執権邸跡であることを書いた石碑です。
大正時代に建てられた模様です。

桜のシーズンなので、何ともよい雰囲気の小道の先に宝戒寺はあります。

境内の中では、9月になると白いハギで埋め尽くされることから、萩の寺と呼ばれる寺なのだそうです。

今回は諸事情によりこの先には入りませんでした。
中に入ると国の重要文化財である地蔵菩薩の坐像があり、これは1365年に作られたものなのだそうです。
また、聖徳太子を祀った太子堂などもあります。
ここから先に入るには拝観料が必要なので注意しましょう。
いかがだったでしょうか。
鎌倉時代を通して栄華を極めた北条一族。
しかし、どんなに権力を握った者たちであってもいつか終わりはやってきます。
北条一族にも終わりの時はやってきました。
その終わりは凄惨なものでした。
その凄惨な最期を迎えた一族の霊達は、今もこの場所で弔われ続けているのです。
鎌倉を訪れ、その歴史をたどりたいときには欠かせない場所の一つかもしれませんね。