大久野島は瀬戸内海に浮かぶ、広島県にある島であり、居住者はいない無人島です。
無人島ではありますが、人がいない島ではありません。
むしろ、近年あまりに人気が出すぎて、常に人で溢れかえっている状態です。
ではこの島が人を引き寄せる理由は何でしょうか。
それは、ウサギの存在です。
島に一歩渡ると、目の前に広がるのは、これでもかというほどのウサギの姿。
そのウサギを求めて、多くの人々が連日島を訪れるわけです。
しかしこの大久野島という島。
そんなメルヘンチックなだけが取り柄の島ではありません。
それどころか、地図にも載っていない。
いや、載せられない時期があったほどの島なのです。
それはなぜか?
それは、旧大日本帝国軍の軍事機密があった島だからなのです。
その軍事機密とは、毒ガスの製造。
敵国に見つからないように、毒ガス兵器を研究・製造していたのがこの大久野島だったのです。
今の姿とは正反対の姿ですよね。
そして、島に渡ると、山のようなウサギと共に、物々しい施設の数々も目に入ってきます。
かつて毒ガス製造が行われていた跡や、戦時中の施設などが今もなお残されているのがこの大久野島のもう一つの顔なのです。
今回は、この大久野島に残る毒ガスの島だったころの数々の遺構・遺物について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
広島の記事です。








大久野島
ウサギ島として有名な、瀬戸内海にうかぶ広島県の島 大久野島。
今でこそレジャーや癒しを求めて訪れる人が後を絶えないこの島ですが、そんな華やかな面とは違い、この島には歴史的に暗い過去があるのです。
それは、この島が毒ガスの島だったということなのです。
大久野島では1929年から終戦まで毒ガスの製造が行われていました。
それ以前には芸予要塞が置かれ、日清戦争や日露戦争が勃発していた時代にあって、22基もの大砲が設置されていました。
その後、第二次世界大戦期に入ると、この島には毒ガス工場が設置されるようになります。
主に作られていたガスはイペリットと呼ばれるものとルイサイトとよばれるもので、どちらも皮膚をただれさせる効果を持つガスでした。
年間生産量は1500トンにも及び、主に製造が行われた15年間の間に6600トンもの毒ガスが作られていたとされています。
しかし、数々の施設や毒ガスなどは、日本の敗戦と共に、終戦から1年間をかけて薬品によって消毒したり、施設や製品などを太平洋に沈めたり、火炎放射器で焼いて処分などをしていました。
これらの芸予要塞時代から、毒ガス製造工場時代にかけての数々の遺跡が大久野島のいたるところに残されているのです。
アクセス
忠海港のフェリー乗り場からフェリーに乗り15分ほどで到着します。
大久野島へ行ってみた
それでは、大久野島へ行ってみましょう。

忠海の港からフェリーで大久野島までやってきました。
平日でもたくさんの人々が大久野島を目指してこのフェリーを利用します。

現在はウサギを観察したり、キャンプをしたりというレジャーな島ですが、かつては様々な姿がありました。
最初にこの島が活用されたのは芸予要塞という、軍の要塞施設があった島でした。
そこから太平洋戦争期に向けては毒ガス製造の島となっていったのです。
そのため島には、要塞時代の砲台跡や、監視施設。
毒ガス時代の製造施設や貯蔵施設といった施設跡が残っているのです。
では、島を一周しながら大久野島の施設を見に行ってみましょう。
研究所跡

まずは研究所跡です。
文字通りここでは毒ガスの研究が行われていました。
毒ガス製造時代の研究室と薬品庫として使われていた建物と、検査などが行われていた建物とが残されています。
戦後の一時期は、宿泊施設として使沸得ていたこともあるのだとか・・・!!?


毒ガス資料館

次や、大久野島が毒ガスの島であったことを後世に伝えるために造られた毒ガス資料館です。

この資料館では、毒ガス島だったころの貴重な資料が展示されています。

ところが、この日は定休日・・・。
年末年始は気をつけなければいけません。
南部照明所跡

次は、毒ガス資料館から南にある山を登っていきます。

ここは芸予要塞時代の、南部照明所跡です。
巨大な探照灯=サーチライトが置かれていた場所であり、夜間に敵の選管の探知を行場所でした。
巨大な探照灯は、手巻きリフトによって地下に格納することもできたのだそうです。

三軒家毒ガス貯蔵庫

休暇村のすぐ横にあるのが、三軒家毒ガス貯蔵庫です。
巨大なタンクに入ったイペリットという毒ガスが貯蔵されていた場所だそうです。

横穴の中にある台座の上に、10トン入るタンクが置かれていました。
ここまで製造工場から直接管が配置され、タンク内に毒ガスが送り込まれていたようです。

毒ガス貯蔵庫跡

こちらも毒ガスの貯蔵庫跡です。
ここはかなり広い貯蔵庫だったようなのですが、現在はその半分が埋められています。
10トン入るタンクを8つも置くことができた貯蔵庫だったようです。
日本が敗戦後に、連合国軍の支持によって処理され、現在に至っています。


日本庭園跡

こちらは日本庭園跡です。

物々しい島かと思いきや、こういった庭園跡も残されている場所があるのですね。

小さな池のような痕跡も見られました。
トイレ跡


こちらは毒ガス工場のトイレ跡です。
長浦毒ガス貯蔵庫跡

この巨大な施設も毒ガスの貯蔵庫跡です。
長浦毒ガス貯蔵庫跡と呼ばれるこの場所は、利用されていた当時は、外から個々の存在がわからないように小山が造られたり、迷彩色で塗ったりするなどして海上から見えないようにされていたようです。


内部の壁面が黒く見えるのは、この施設を焼却する際に火炎放射器で焼いた跡なのだそうです。
その処理のすさまじさがまざまざと感じられます。


島の北部の方にやってきました。
なお、島の最北端は、北部監視所跡があるのですが、こちらの施設のある島の先端部分には現在進入することができないため、見ることはできません。
北部砲台跡

こちらは北部砲台跡です。
大久野島には、ここを含めて3か所の砲台跡があります。
もちろん”跡”なので、現在砲台は撤去されていてありません。
この北部砲台跡は、大久野島の中では道沿いにあるので一番訪問しやすい場所です。
なお、北部砲台が設置されたのは、日露戦争前の1902年のことです。






そして、北部砲台跡の一角からは、大久野島中央部にある、山頂展望台および中部砲台跡へと向かう山道が始まります。
短い距離でそこそこの高さを登るので、まあまあ過酷な山道になります。
中部砲台跡


というわけで中部砲台跡へ到着です。
さきほどの北部砲台跡とはうって変わって、山頂に設けられた砲台跡。
上へ下へとなかなかの規模の跡です。


なお、中部砲台跡が築かれたのは、1900年頃。
時代は日露戦争前のころです。
大久野島に設けられた大宝は、第一次世界大戦時にはすでに取り外されて、大陸などの前線に送られたということです。








再び北部砲台跡

再び下山して、北部砲台跡に戻ってきました。
さきほどはまだすべてを見て回っていなかったので、大久野島最大の砲台数であった北部砲台をもう少し見てみましょう。


北部砲台にある24cmカノン砲の砲台です
ここにはカノン砲が4つ置かれていたようです。



道沿いにもかつての砲台跡の遺構が残されています。







発電所跡

そろそろ大久野島一周も終盤です。
終盤で見えてきた大きなコンクリート製の建物は発電所跡です。
毒ガス製造委はもちろん電力が必須です。
ここにはディーゼル発電機が8基置かれ、発電が行われていました。
また、太平洋戦争末期には、風船爆弾の風船を膨らませたりする作業も行われていたようです。





芸予要塞時代の桟橋

発電所跡を後にすると、最後に見えてきたのは芸予要塞時代の桟橋です。
石でできた固定桟橋であり、当初は人間が上陸するための桟橋として利用されていました。
その後は、資材の陸揚げのために使われるようになりました。
表立ってこの桟橋が人の出入りに使われなくなった理由は、本土から個々の様子がよく見えてしまう場所だからという理由があるようです。


いかがだったでしょうか。
島を一周してみるとわかるのですが、そこいらに毒ガスの島だったころの痕跡が山のように残されています。
そして、そんな負の歴史を伝える遺物には、かわいらしいウサギたちがw。
今では、老若男女問わず癒しを求めて訪れる島、大久野島。
しかし、そこには忘れてはならない歴史があるということも、頭の片隅にでも置いておきたいですね。