1155【神奈川紀行】源頼朝の墓のすぐ横にあるもう一つの墓『法華堂跡(北条義時墓)』

関東地方(Kanto)
この記事は約6分で読めます。

鎌倉は鶴岡八幡宮からさらに北に行った先。
そこには鎌倉幕府を作り、武家政権の礎を作った人物の墓があります。
その人物とは、源頼朝
この源頼朝は、法華堂と呼ばれる場所に葬られ、そこから鎌倉幕府の行く末を見続けました。
今でもそこには再建された石塔が残り、参拝する人は後を絶ちません。
では、同じく鎌倉幕府を立ち上げた人物として、源頼朝と並ぶ歴史上の人物というとだれが思い浮かぶでしょうか。
その人物こそ、大河ドラマの鎌倉殿の13人でも主人公であった人物、北条義時なのです。

では、その北条義時が眠る場所というのはどこにあるのでしょうか。
実は、源頼朝と並び、同じく法華堂に葬られていたのだそうです。
その北条義時が葬られていた場所は法華堂跡として源頼朝の墓のすぐ東側に残されているのです。

現在その場所には、かつての建物跡が残されており、なんとARでかつての建物を見ることができるように整備されています。
源頼朝に比べるとその名前はなかなか知られていなかった北条義時。
しかし、大河ドラマによって注目を集めることになったこの人物の眠る場所となると、ぜひとも足を運んでおきたい場所の一つですよね。

今回は、鎌倉に残る法華堂跡、北条義時墓について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 鎌倉幕府を開いた功労者の一人、北条義時が眠る法華堂跡をたずねてみよう。

鎌倉に関する記事です。

1189【神奈川紀行】鎌倉の閑静な住宅地に建つ、ひときわ目立つランドマーク的な邸宅『加賀谷邸』
甘縄神明神社につながる小道を歩いていると、その途中にふと気になる住居がありました。訪れたときには改修工事?を行っていたようなのですが、それであってもまわりの家とはかなり趣の異なるこの家。実は、鎌倉市景観重要建築物に選ばれている家なのです。その家を加賀谷邸といいます。
1188【神奈川紀行】ここにかつて若宮大路を代表する大鳥居が存在していた『浜の大鳥居跡』
源頼朝が鶴岡八幡宮を現在の場所に遷座したときに鳥居も造られました。その時代、一の鳥居は、最も南側の海岸寄りにあった鳥居であったこともあり、浜鳥居と呼ばれていました。浜鳥居はその後何度も再建が繰り返され、現在の一の鳥居へとつながっていますが、実は過去の濱鳥居は現在の一の鳥居とは異なる場所にあった痕跡が発掘されているのです。それこそが浜の大鳥居跡なのです。
1187【神奈川紀行】鎌倉幕府の創設に多大な貢献を果たした伝説の武士 畠山重忠の邸宅があったとされる場所に残る碑『畠山重忠邸址』
今回はとある人物の邸址の史跡となります。その人物とは畠山重忠。鎌倉幕府創設期の有力御家人として活躍したものの、北条時政の計略によって謀反の疑いをかけられ、一族が滅ぼされることになってしまった人物です。大河ドラマの鎌倉殿の13人での好演も印象深いこの人物なのですが、その畠山重忠の邸宅があったとされる場所が鶴岡八幡宮のすぐ東側に残されています。それが畠山重忠邸址の碑なのです。
1186【神奈川紀行】なぜここにこれらの人物の墓が!?『大江広元の墓・毛利季光の墓・島津忠久の墓』
大江広元は大河ドラマの鎌倉殿の13人でも登場した源頼朝の側近として、頼朝亡き後も文官として鎌倉幕府を支え続けた人物であったため、この地にその墓があるというのは納得ですよね。ところが、そのすぐ横に毛利氏の墓があったり、島津氏の墓があったりするのはなぜなのだろう?となるかもしれません。
1185【神奈川紀行】かつては鎌倉幕府を支える鉄壁の一族だったが・・・『三浦一族のやぐら』
鎌倉幕府の創設期から幕府を支えてきた三浦一族なのですが、最後には北条一族と争った結果敗れてしまい、一族もろとも自刃するわけなのです。そんな三浦一族を法務経ったとされる場所が今回紹介している三浦一族のやぐらなのです。 皮肉にも、北条義時を祀っている法華堂があったとされる場所のすぐ裏手にあるこのやぐらと呼ばれる場所。鎌倉散策では必ず訪れておきたい場所ですよね。
1183【神奈川紀行】かつての大倉幕府にあった4つの門の一つ。東門があったとされる場所に残る碑『東御門』
鎌倉にかつてあった大倉御所というものは影も形も残っていません。御所の中心は現在は清泉小学校という小学校の敷地になっています。そしてその御所の東西にあった門は、東御門そして西御門というものがありました。これらは現在は地名などでしか残っていません。
1182【神奈川紀行】フランスに伝わるルルドの奇跡。その願いを鎌倉の地にも『ルルドの洞窟』
ルルドの洞窟とは、フランスのピレネー山脈にあるルルドという町にあるとある洞窟です。この場所で、聖母マリアがとある少女の前に何度も現れ、お告げを与えたことによって数々の奇跡がおこったという場所とされています。そのため、現在でもなお、心身の癒しを求めて、世界中から多くの人々がルルドを訪れています。
1180【神奈川紀行】 鎌倉十井の一つ。鉄の観音像の伝説が残る『鉄の井(くろがねのい)』
今回取り上げているのは、鉄の井といいます。"てつのい"ではなく、"くろがねのい"と言います。鎌倉十井の中でも、とにかく人通りの多い小町通りの北の端にあるため、おそらく見かけたこともある人は多いのではないでしょうか。この井戸が"鉄"と呼ばれるのは、ここの井戸からとあるものが掘りだされたことに由来するのです。今となっては真偽はわからないその出来事。では、この鉄の井に残る伝説とは何なのでしょうか。
1172【神奈川紀行】和田塚につながる江ノ電の駅『和田塚駅』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、大人気となった登場人物である和田義盛。幕府のために尽力した人物であったものの、最後は北条義時との対立によって和田合戦を誘発され、討ち取られてしまった人物です。和田義盛が眠る場所である和田塚は、江ノ島電鉄のとある駅の近くにあります。その駅とはそのままで『和田塚駅』と言います。駅名になるほどの史跡なのですよ。
1169【神奈川紀行】由比ヶ浜に散った和田合戦の犠牲者たちを弔った『和田塚』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。序盤から終盤まで登場し、殺伐としたドラマにひと時の安ど感を与えた、同ドラマ内でも大人気にキャラクターがいます。その人物とは、和田義盛です。鎌倉幕府の中でも初代侍所長官などを務め、鎌倉政権の立ち上がり時になくてはならなかった人物です。
1165【神奈川紀行】長谷駅周辺は、新たなスパイスカレーの集まる地『Woof Curry』
今回紹介するお店は、Woof Curryというお店です。スパイスをふんだんに使用したカレーであることは確かですが、ジャンルとしてはどちらかというと欧風カレーのお店です。そのためスパイスカレーって初めてだなあという人にとってもなじみやすい味なのではないかと思います。
1164【神奈川紀行】鎌倉の大仏へ行くときには必ずお世話になる、江ノ電の名物駅『長谷駅』
日本に数ある鉄道の中でも、ここほど有名な鉄道も他にはないのではないでしょうか。家々と鉄道とが共存する光景がなんだかほっこりとさせてくれる鉄道。それは、神奈川県南部を走る江ノ島電鉄、通称江ノ電ではないでしょうか。そして、鎌倉から始まるこの鉄道は、鎌倉観光の際には必ずと言っていいほど利用する鉄道でもあります。
1161【神奈川紀行】ここが鎌倉の武家政治の拠点があった場所『大倉幕府跡(大蔵幕府跡)』
鎌倉幕府の中心出会った場所は、今は何も建物は残っていません。石碑が残るのみなのです。その幕府の政務が行われていた場所というのは、大倉御所と言います。そして、その場所で政務が行われていたため、史跡としては大倉幕府跡として残されているのです。
1148【神奈川紀行】かつて世の中を牛耳った天下の将軍。しかし、その墓は今はひっそりと『法華堂跡(源頼朝墓)』
何百年も続く武家を中心とした社会の基盤を作り上げたこの源頼朝ですが、今も鎌倉の地に眠り続けているわけです。では、その源頼朝の墓ってどこにあるの?実は鶴岡八幡宮の近くにあるのです。
1143【神奈川紀行】鎌倉市最古の神社。源氏将軍家から代々大切にされ続けていた『甘縄神明神社』
鎌倉殿をたどる鎌倉散策。今回はそんな鎌倉にある神社です。鎌倉時代を彩った歴史上の人物たちが物心ついたころにはすでにこの地にこの神社はあったわけなのです。その神社の名を甘縄神明神社(あまなわしんめいじんじゃ)といいます。
1140【神奈川紀行】鎌倉幕府の大倉御所西御門があった場所にある 『来迎寺(西御門)』
かつて西御門には数多くのお寺が建てられていましたが、この来迎寺はその中でも唯一残っているお寺です。その創建は1293年とされており、次週の開祖としても有名な一遍上人によって建立されたといわれていますが、その沿革には不明な点が多くあります。
1138【神奈川紀行】北条得宗家の屋敷があったとされる地に建つ寺 『宝戒寺』
今回紹介している場所は、鶴岡八幡宮のすぐ近く。境内にある三の鳥居の道を東に向かってしばらく行くとこの場所は見えてきます。そこは宝戒寺というお寺なのです。なんだ、お寺かあ・・・。と思うかもしれませんが、ここは鎌倉幕府に非常にゆかりのある寺なのです。鎌倉幕府の時代にはここにお寺はありませんでした。では、何がここにはあったのかというと、ある邸宅があったのです。
1134【神奈川紀行】関東大震災で倒壊したものの、唯一元通りに復元された『一の鳥居』
鶴岡八幡宮へと向かう若宮大路にあって、一番最初に現れる鳥居ということで、その存在感は抜群です。日光東照宮、八坂神社、これらの場所にある石鳥居と合わせて、日本三大石鳥居にも数えられるほどの鳥居なのが、この一の鳥居なのです。
1132【神奈川紀行】実は、鶴岡八幡宮に延びる大通りをさらに偉大に見せるための工夫が施されている『若宮大路』
前回は畠山重保の邸宅跡を紹介しましたが、この邸宅跡は鎌倉の鶴岡八幡宮へと続く大通りが若宮大路です。鎌倉が面する由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へと続く参道であり、鎌倉のメインストリートですよね。参道自体は1.8kmもの長さがあり、その途中に3つの鳥居があります。そして、鳥居を抜けた先にあるのがかの有名な鶴岡八幡宮なのですね。
1127【神奈川紀行】いよいよ鎌倉シリーズスタート!その第一弾は若宮大路 一の鳥居のそばにある『畠山重保邸跡・重保供養塔』
今回紹介するのは『畠山重保邸跡・重保供養塔』と呼ばれる場所。畠山重保?畠山重忠であれば、序盤から終盤にかけて物語の要所を固めた人物の一人でしたよね。しかし、でっちあげから始まった畠山重忠の乱によって一族は滅亡してしまうわけです。その畠山重忠の乱の際に、鎌倉の武士たちの謀略によって殺されてしまった畠山重忠の息子。その人物こそが畠山重保なのです。

法華堂跡(北条義時墓)

法華堂跡(北条義時墓)は、鎌倉の鶴岡八幡宮近くに残る史跡です。
源頼朝の墓のすぐそばにあるこの北条義時の墓の場所には、かつて法華堂と呼ばれる墳墓堂が建てられていたとされています。

北条義時というと、源頼朝、北条時政と共に鎌倉幕府を開いた人物として歴史に名を残している人物です。
源頼朝が早々と没した後は、幕府の権力を確固たるものとしました。
さらには、承久の乱において、後鳥羽上皇率いる朝廷軍をも破り、全国的に強固な政権を創り出した人物なのです。

そんな絶大な力をもった北条義時ではありましたが、62歳の時に没します。
その後、源頼朝が葬られていた法華堂が建つ場所の東側の山上を墳墓の地として、北条義時のための新法華堂が建てられたと、鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡には記されています。

そんな鎌倉幕府への絶大な力をもっていた北条義時の法華堂ですが、鎌倉時代の終わり、北条氏の失脚と共に建物自体も途絶えたとされています。
しかし、2005年にはこの場祖にて8.4m四方の建物跡が確認されます。
その際に、縁束の礎石、雨落溝、柱を支える礎石の痕跡が発見されました。
さらに瓦も見つかったことによってどのような建物だったのかが分かってきました。
その際に、13世紀末ごろには建物が使われなくなっていたことも判明し、吾妻鏡に記されていることが証明される形となりました。

アクセス

鶴岡八幡宮から東に350mほどのところにあります。

法華堂跡(北条義時墓)へ行ってみた

それでは、法華堂跡(北条義時墓)へ行ってみましょう。

源頼朝の墓へとつながる階段を上らず、数十メートル東に向かうと、同じく法華堂跡へとつながる階段があります。
この階段の先に北条義時墓があります。

この写真の奥に白旗神社見えますが、その場所に源頼朝の墓につながる階段があります。
大体距離感が伝わるでしょうか。

こちらの階段を上っていきましょう。

法華堂跡の看板が見えてきました。

階段を上りきると、少し広場になっているところに出ます。
こちらがかつて法華堂が建っていた跡地になっています。

広場をよく見てみると、発掘された建物跡が見えます。
この建物跡のところにはARを表示させるためのQRコードが設置されており、スマホを使ってかつての建物を目の前に再現することができます。

こちらがかつての新法華堂の様子です。
内部には仏像の姿が確認できますね。

なお、この法華堂跡の広場からは、さらに別の史跡にもつながっています。

まず、建物跡のすぐ裏手には三浦一族のやぐらがあります。
ここは、鎌倉幕府を支えた有力な御家人であった三浦一族を供養しています。
三浦一族は宝治合戦の後に、一族全てが法華堂にて自害したと伝えられています。
こういった横穴式に掘られた墳墓は、鎌倉とその周辺ではよく見られるのだそうです。

さらにそのやぐらのそばにある鳥居をくぐり、階段を上ると3つの墓が並んでいます。
こちらは左から順に、毛利季光の墓・大江広元の墓・島津忠久の墓となっています。

こちらが毛利季光の墓です。

中央にある大江広元の墓ですね。

島津忠久の墓です。
この3つの墓については、また別の機会に紹介したいと思います。

3つの墓から下に降りていきます。

鳥居が見えてきましたね。

再び法華堂跡です。
裏手側から見るとこのようになっています。
建物の礎石跡がよくわかりますね。

いかがだったでしょうか。
大河ドラマ効果で一気にその名前が広がることになった北条義時。
後に続く鎌倉幕府、そして執権を担った北条得宗家の祖。
そんな絶大な権力を握った人物が眠る場所となると、これは訪れておかなければいけない場所の一つですよね。
整備状態も非常に良い場所となっているので、鎌倉散策の際には外してはいけない場所の一つですね。