1161【神奈川紀行】ここが鎌倉の武家政治の拠点があった場所『大倉幕府跡(大蔵幕府跡)』

関東地方(Kanto)
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まだまだ鎌倉には散策すべきスポットがたくさんあります。
鶴岡八幡宮だけではないんですよ。
さて、今回紹介しているのは、かつての鎌倉幕府の中心出会った場所なのです。
日本で初の武家政権であった鎌倉幕府。
その政務が行われていた場所となるとどこなのでしょうか?

鶴岡八幡宮なのか??
いえいえ、まさかそこではありません。
ではどこなのか?
実際、鎌倉幕府の中心出会った場所は、今は何も建物は残っていません。
石碑が残るのみなのです。
その幕府の政務が行われていた場所というのは、大倉御所と言います。
そして、その場所で政務が行われていたため、史跡としては大倉幕府跡として残されているのです。

その場所は、鶴岡八幡宮からもすぐそば。
今現在は小学校が建っている場所にあるのです。
この場所で、鎌倉幕府は武家政権として政務を執り行っていたのです。
これはぜひとも訪れておかなければいけない場所ですよね。
現在は石碑が残るだけなので、見に行ってもなあ・・・となる場所かもしれません。
しかし、鎌倉という場所をつくったこの場所こそが鎌倉という場所の始まりの地であるのです。

今回はそんなかつて御所のあった場所、大倉幕府跡について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • かつて鎌倉幕府の中心だった場所、大倉幕府跡を忘れずに鎌倉散策をしてみよう。

鎌倉に関する記事です。

1189【神奈川紀行】鎌倉の閑静な住宅地に建つ、ひときわ目立つランドマーク的な邸宅『加賀谷邸』
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1187【神奈川紀行】鎌倉幕府の創設に多大な貢献を果たした伝説の武士 畠山重忠の邸宅があったとされる場所に残る碑『畠山重忠邸址』
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鎌倉幕府の創設期から幕府を支えてきた三浦一族なのですが、最後には北条一族と争った結果敗れてしまい、一族もろとも自刃するわけなのです。そんな三浦一族を法務経ったとされる場所が今回紹介している三浦一族のやぐらなのです。 皮肉にも、北条義時を祀っている法華堂があったとされる場所のすぐ裏手にあるこのやぐらと呼ばれる場所。鎌倉散策では必ず訪れておきたい場所ですよね。
1183【神奈川紀行】かつての大倉幕府にあった4つの門の一つ。東門があったとされる場所に残る碑『東御門』
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ルルドの洞窟とは、フランスのピレネー山脈にあるルルドという町にあるとある洞窟です。この場所で、聖母マリアがとある少女の前に何度も現れ、お告げを与えたことによって数々の奇跡がおこったという場所とされています。そのため、現在でもなお、心身の癒しを求めて、世界中から多くの人々がルルドを訪れています。
1180【神奈川紀行】 鎌倉十井の一つ。鉄の観音像の伝説が残る『鉄の井(くろがねのい)』
今回取り上げているのは、鉄の井といいます。"てつのい"ではなく、"くろがねのい"と言います。鎌倉十井の中でも、とにかく人通りの多い小町通りの北の端にあるため、おそらく見かけたこともある人は多いのではないでしょうか。この井戸が"鉄"と呼ばれるのは、ここの井戸からとあるものが掘りだされたことに由来するのです。今となっては真偽はわからないその出来事。では、この鉄の井に残る伝説とは何なのでしょうか。
1172【神奈川紀行】和田塚につながる江ノ電の駅『和田塚駅』
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1169【神奈川紀行】由比ヶ浜に散った和田合戦の犠牲者たちを弔った『和田塚』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。序盤から終盤まで登場し、殺伐としたドラマにひと時の安ど感を与えた、同ドラマ内でも大人気にキャラクターがいます。その人物とは、和田義盛です。鎌倉幕府の中でも初代侍所長官などを務め、鎌倉政権の立ち上がり時になくてはならなかった人物です。
1165【神奈川紀行】長谷駅周辺は、新たなスパイスカレーの集まる地『Woof Curry』
今回紹介するお店は、Woof Curryというお店です。スパイスをふんだんに使用したカレーであることは確かですが、ジャンルとしてはどちらかというと欧風カレーのお店です。そのためスパイスカレーって初めてだなあという人にとってもなじみやすい味なのではないかと思います。
1164【神奈川紀行】鎌倉の大仏へ行くときには必ずお世話になる、江ノ電の名物駅『長谷駅』
日本に数ある鉄道の中でも、ここほど有名な鉄道も他にはないのではないでしょうか。家々と鉄道とが共存する光景がなんだかほっこりとさせてくれる鉄道。それは、神奈川県南部を走る江ノ島電鉄、通称江ノ電ではないでしょうか。そして、鎌倉から始まるこの鉄道は、鎌倉観光の際には必ずと言っていいほど利用する鉄道でもあります。
1155【神奈川紀行】源頼朝の墓のすぐ横にあるもう一つの墓『法華堂跡(北条義時墓)』
北条義時が眠る場所というのはどこにあるのでしょうか。実は、源頼朝と並び、同じく法華堂に葬られていたのだそうです。その北条義時が葬られていた場所は法華堂跡として源頼朝の墓のすぐ東側に残されているのです。
1148【神奈川紀行】かつて世の中を牛耳った天下の将軍。しかし、その墓は今はひっそりと『法華堂跡(源頼朝墓)』
何百年も続く武家を中心とした社会の基盤を作り上げたこの源頼朝ですが、今も鎌倉の地に眠り続けているわけです。では、その源頼朝の墓ってどこにあるの?実は鶴岡八幡宮の近くにあるのです。
1143【神奈川紀行】鎌倉市最古の神社。源氏将軍家から代々大切にされ続けていた『甘縄神明神社』
鎌倉殿をたどる鎌倉散策。今回はそんな鎌倉にある神社です。鎌倉時代を彩った歴史上の人物たちが物心ついたころにはすでにこの地にこの神社はあったわけなのです。その神社の名を甘縄神明神社(あまなわしんめいじんじゃ)といいます。
1140【神奈川紀行】鎌倉幕府の大倉御所西御門があった場所にある 『来迎寺(西御門)』
かつて西御門には数多くのお寺が建てられていましたが、この来迎寺はその中でも唯一残っているお寺です。その創建は1293年とされており、次週の開祖としても有名な一遍上人によって建立されたといわれていますが、その沿革には不明な点が多くあります。
1138【神奈川紀行】北条得宗家の屋敷があったとされる地に建つ寺 『宝戒寺』
今回紹介している場所は、鶴岡八幡宮のすぐ近く。境内にある三の鳥居の道を東に向かってしばらく行くとこの場所は見えてきます。そこは宝戒寺というお寺なのです。なんだ、お寺かあ・・・。と思うかもしれませんが、ここは鎌倉幕府に非常にゆかりのある寺なのです。鎌倉幕府の時代にはここにお寺はありませんでした。では、何がここにはあったのかというと、ある邸宅があったのです。
1134【神奈川紀行】関東大震災で倒壊したものの、唯一元通りに復元された『一の鳥居』
鶴岡八幡宮へと向かう若宮大路にあって、一番最初に現れる鳥居ということで、その存在感は抜群です。日光東照宮、八坂神社、これらの場所にある石鳥居と合わせて、日本三大石鳥居にも数えられるほどの鳥居なのが、この一の鳥居なのです。
1132【神奈川紀行】実は、鶴岡八幡宮に延びる大通りをさらに偉大に見せるための工夫が施されている『若宮大路』
前回は畠山重保の邸宅跡を紹介しましたが、この邸宅跡は鎌倉の鶴岡八幡宮へと続く大通りが若宮大路です。鎌倉が面する由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へと続く参道であり、鎌倉のメインストリートですよね。参道自体は1.8kmもの長さがあり、その途中に3つの鳥居があります。そして、鳥居を抜けた先にあるのがかの有名な鶴岡八幡宮なのですね。
1127【神奈川紀行】いよいよ鎌倉シリーズスタート!その第一弾は若宮大路 一の鳥居のそばにある『畠山重保邸跡・重保供養塔』
今回紹介するのは『畠山重保邸跡・重保供養塔』と呼ばれる場所。畠山重保?畠山重忠であれば、序盤から終盤にかけて物語の要所を固めた人物の一人でしたよね。しかし、でっちあげから始まった畠山重忠の乱によって一族は滅亡してしまうわけです。その畠山重忠の乱の際に、鎌倉の武士たちの謀略によって殺されてしまった畠山重忠の息子。その人物こそが畠山重保なのです。

大倉幕府跡(大蔵幕府跡)

大倉幕府?と言われると何のことだろう?となる人は多いかもしれません。
大倉幕府とは、鎌倉にかつてあった御所のことです。
鎌倉時代は、この御所で政治が行われていたことと、大倉という場所から大倉幕府(大蔵幕府)という名称で呼ばれています。
現在その大倉幕府があったという場所には、何も建物が残されていません。
しかし、おそらく御所があったと考えられている場所に大倉幕府跡の石碑が残されています。

その場所とは、鶴岡八幡宮からは北東。
源頼朝の墓から見ると、金沢街道に向かって歩いた場所にあります。

源頼朝が幕府を開くにあたって、最初に御所を設ける計画としては亀ヶ谷という場所が考えられていました。
それは亀ヶ谷の地が源頼朝の父である義朝と縁があった地だということからでした。
しかし、新たに武家政治の中心となる場所としては、亀ヶ谷の地はやや狭いこともあり、最終的に選ばれたのが大倉の地でした。
この周辺は、東御門や西御門など、かつての大倉幕府を構成していた建造物を由来とした名称が残っています。
さらにこの周辺には、幕府の主要施設が置かれていたと考えられています。
ここで政治が行われていたのですが、源頼朝の時代から頼家、実朝の時代と続き、北条政子がが亡くなった後に、幕府の中心が大倉幕府跡から南西にある宇都宮辻子幕府へと移されるまでの45年間はこの場所が鎌倉幕府の中心地だったのでした。

しかし、その明確な範囲はわかっていないのですが、おそらく現在石碑の建つ清泉小学校と周囲の住宅地に存在していたと考えられています。
鶴岡八幡宮の北東一帯の地域が鎌倉幕府の中心地域だったのです。
さらに、この大倉幕府の北側には法華堂があり、そこには源頼朝や北条義時が眠っています。
亡くなってもなお、高台にある法華堂から幕府の行く末を見守っていたのですね。

アクセス

金沢シーサイドラインの八景島駅から徒歩5分で八景島に入ることができます。

大倉幕府跡(大蔵幕府跡)へ行ってみた

それでは、大倉幕府跡(大蔵幕府跡)へ行ってみましょう。

こちらがかつて鎌倉幕府の中心であった御所のあった場所です。
大倉の地にあった御所ということから、大倉御所、そしてここで政治が行われたことから大倉幕府(大蔵幕府)と呼ばれるようになった場所なのです。

現在のその場所は、清泉小学校という小学校の敷地となっています。
そして、かつての御所の周囲には、有力御家人の宿所や幕府の役所が置かれていたそうです。
まさしく鎌倉幕府の中心だったわけですね。

小学校にあるということから、児童たちが鎌倉について調べた新聞がたくさん掲示されています。
中には、「おっ」と思うような内容もあったりするので、意外に見逃すわけにはいかないのです。

鎌倉といえば源頼朝。
そして鎌倉幕府。
しかし、それだけではありませんよね。
大仏と鶴岡八幡宮についてももちろんありましたよ。

小学校の角っこにポツンとあるので、しっかりとナビと共に訪れなければ見逃してしまうかもしれませんよね。

いかがだったでしょうか。
かつて鎌倉の地にあった幕府の中心地、大倉幕府。
意外なことにこの場所や名称のことなどは知られていない方だなあ、と思います。
しかし、2022年大河で大注目を浴びた鎌倉の地。
この大倉幕府も大注目の場所であることは間違いないのです。
周囲には頼朝の墓や、種々寺院などが点在しているこのエリア。
ゆっくりと徒歩で見て回ってみるのが、鎌倉を深く理解できる楽しみ方かもしれませんよ。