大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
近年の大河ドラマの中でも絶大な人気を誇ったこのドラマですが、その中では数々の魅力的なキャラクターが活躍していました。
これまでなかなかフィーチャーされなかった鎌倉時代にスポットを当て、さらにはそれまではほとんど広く知られていなかったキャラクターをこれほどまでに広めたこのドラマの功績は計り知れないものがあると思います。
その中でも、序盤から終盤まで登場し、殺伐としたドラマにひと時の安ど感を与えた、同ドラマ内でも大人気にキャラクターがいます。
その人物とは、和田義盛です。
鎌倉幕府の中でも初代侍所長官などを務め、鎌倉政権の立ち上がり時になくてはならなかった人物です。
しかし、その最期はむなしく、共に鎌倉幕府の立ち上げを行ってきた北条義時によって、和田合戦と呼ばれる戦いの中で討ち取られてしまいます。
おそらく、本作の中でも最もロスが多かった人物ではないかと思います。
実際、和田合戦とは由比ヶ浜近くの一帯で起きた戦いでした。
戦いの結果、和田氏一族は滅亡し、そして設けられたのが和田塚という墓でした。
そしてさらに時代は、明治の時代。
新たに道を設けようと、この和田合戦が起きた一帯を掘り起こしたところ、おびただしい数の人骨が発掘されたそうなのです。
そこで、これら和田合戦によって命を落とした人々を弔うために、この和田塚のあるところに和田一族戦没地の碑も建てられています。
今回はこの和田氏一族を弔った場所であり、江ノ島電鉄の駅名にもなっている場所、和田塚について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
鎌倉に関する記事です。


















和田塚
和田塚とは、神奈川県の鎌倉市にある史跡です。
ここには鎌倉幕府立ち上げの際に尽力した人物の一人である和田義盛氏が葬られています。
鎌倉幕府創成期には幾度となく内部抗争が繰り広げられました。
そういった内部抗争の中で、粛清する側だった和田義盛ではありますが、そんな吉森自身も北条義時との対立の中で粛清されてしまったのでした。
その和田義盛が没した戦いを和田合戦と言います。
この和田合戦ですが、鎌倉時代に起きた戦いの中でも最大規模の市街地戦闘であったと考えられています。
数千人もの死者を出したとされるこの戦い。
この戦いの結果として、和田一族は滅亡したとされています。
現在和田塚がある場所は、その前身には、古墳時代に作られた墳墓があったと考えられています。
和田義盛が亡くなった後はこの場所に葬られ和田塚と呼ばれていました。
また、明治時代にこの和田塚一帯が道路建設などの整備が行われた際に、おびただしい数の人骨が発掘されました。
そして、そういった数多くの人々を弔うために和田一族戦没地の碑が建てられました。
大正時代になるとこの一帯が再開発され多くの塚が壊されていく中でもこの和田塚はかろうじて残されることとなりました。
そのため、鎌倉の歴史を今に伝える貴重な遺跡の一つなのです。
アクセス
江ノ島電鉄の和田塚駅下車、南に50mほどの場所にあります。
和田塚へ行ってみた
それでは、和田塚へ行ってみましょう。

今回訪れたときは、江ノ電の長谷駅から東に向かって歩いていきました。
上の写真は由比ヶ浜であり、和田合戦が起きた中心的な場所でもあります。

由比ヶ浜から北に向かって歩いていくと、住宅街の一角に上の写真のような石垣でできた歴史を感じる場所があります。

そこを上がってみると、中央に石碑の建つ場所になっています。
ここが和田義盛はじめ、和田一族を祀った場所である和田塚なのです。

中央にあるのが和田一族戦没地の碑です。
こちらは、もともと和田義盛の墓のあったこの場所に、建てられたものです。
明治の時代になり、由比ヶ浜一帯に新たな道を設ける計画が出てきました。
そして、この一帯を掘り起こしたところ、和田合戦の際に亡くなったおびただしい数の人骨が発掘されたのだそうです。
そういった、人骨を一堂に集め、ここに和田一族戦没地の碑が建てられました。

右側に建つ小さな石碑には、和田一族の碑と書かれています。

さらに左側には和田義盛一族の墓が建てられていました。
こちらがもともとこの地に建てられていた墓なのでしょうか。
いかがだったでしょうか。
江ノ島電鉄の駅名にもなっている和田塚。
鎌倉幕府創設期の立役者である和田義盛。
しかし、幕府内部での権力を一手に握るためには、どうしても障壁になってしまう人物でもありました。
その人望と力によって逆に滅ぼされる結果につながってしまった不遇の武将である和田義盛。
その和田義盛は、亡くなってなお鎌倉の姿を見続けているのです。
この和田塚以外にはなかなか見どころの少ない駅ではありますが、この場所を訪れるためだけにも和田塚駅を降りてみる価値はあるのではないでしょうか。