1171【静岡紀行】現存天守ではないが、日本初の本格木造天守としてよみがえった『掛川城』

百名城/続・百名城(Castle)
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2023年度は大河ドラマで取り上げられている徳川家康
そうなってくると、家康が過去活躍していた地域は盛り上がってきますよね。
江戸のあった東京はもちろんのことなのですが、家康の本拠地といえば現在の愛知から静岡の地域。
そして、縁のある城では大いに盛り上がりを見えているのです。

その中でも今回紹介しているのは、静岡県にある掛川城です。
掛川城といえば元々は、静岡に強固な地位を築いていた今川氏の拠点だった城です。
そんな掛川城でしたが、今川氏真の時代に徳川家康が落とし、家康の支配下にはいった城なのでした。
豊臣秀吉の時代には江戸へと移され、この地域には徳川家康の影響下ではなくなります。
しかし、後に江戸時代になると再び徳川に近い大名が入り明治の時代まで続くこととなります。

そんな掛川城に訪れるとまず目に入ってくるのが何といっても天守です。
しかし掛川城の天守は、幕末の時代に東海地方を襲った地震によって倒壊し、平成になるまで再建されませんでした。
そういうわけで現在の天守は再建されたものなのですが、なんと日本で初めての木造の復元天守として有名なのです。
さらにこの掛川城がもつ特徴の一つが、江戸時代に震災の影響で倒壊したものの再建され、160年以上の歴史をもつ現存御殿である二の丸御殿です。
日本に4か所ある現存御殿の一つとして、木造再建天守と共に掛川城の見どころの一つでもあるのです。

今回はこの、見どころが盛りだくさんである掛川城について、2回にわたって紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 木造で復元された天守とはいかなあるものか。見どころたくさんの掛川城に行ってみよう。。

静岡の記事です。

1173【静岡紀行】掛川城に残る現存御殿の一つ『掛川城 二の丸御殿』
掛川城。天守自体も有名ではあるのですが、それを上回るほどの見どころがまだあるのです。掛川城の主要な建物の数々は、江戸時代後期、幕末の時代にこの地域を襲った大震災によって壊滅的な被害を受けてしまいます。しかし、さすがに政務を行っていた御殿はすぐに再建せざるを得なかったようです。そのため、震災から数年後には御殿は再建されており、その御殿が現在にまで残っています。
1128【静岡紀行】その天守台の巨大さからは、ここに日本最大の店主があったのではないかとも想定されるほどの城『駿府城』
徳川家康が晩年を過ごしたとされるこの駿府城には、かつて天守が建っていたとされています。そして、近年その天守が建っていた天守台が発掘されているのですが、その規模が日本でも最大級のものとして話題になっているのです。幕府のある江戸にあった最大の城が江戸城でした。しかし、それに匹敵するかそれ以上だったと考えられているのが駿府城の天守なのです。
142【静岡紀行】ここをどのように攻めるのか!?障子堀・畝堀に囲まれた名城『山中城』
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掛川城

掛川城は現在の静岡県掛川市にある城です。
東海道の要所にあるこの城は、たびたび有力な大名たちの争奪戦の舞台になるほどの場所でした。
戦国時代に静岡の地の有力大名であった今川氏が、家臣の朝比奈氏に銘じて築城させたのが掛川城の始まりでした。
しかしその後、今川氏真の失脚と共に徳川の僚友の城となります。

時代が豊臣秀吉の時代になると、徳川家康は江戸へと移されることになり、掛川城には山内一豊が入ることになります。
掛川城に入った一豊は掛川城を大幅に拡張し、その際に天守も設けることになります。
山内一豊はその後、江戸幕府の元で高知へと移されますが、その後は江戸幕府の譜代大名が入る城となります。

幕末まで続いていた掛川城ですが、1854年にこの一帯を襲った安政東海地震によって天守をはじめ主要な建物の大半が倒壊する目にあいます。
政務の中心だった二の丸御殿だけは1861年までに再建されますが、天守などは再建されることはなく明治の時代を迎えます。

天守が再建されたのはそこから140年後の平成の時代でした。
日本で初めての木造復元天守で再建された掛川城は、残された城絵図や古記録を基に正確に再建されています。
そんな掛川城は2006年に日本100名城に選定された静岡を代表する城となっているのです。

何より掛川城の特徴としてあげられるのが、幕末に再建されていている二の丸御殿です。
日本に4か所残る現存御殿の一つとして、国の重要文化財にも指定されているほどの建物なのです。

アクセス

JR掛川駅から北に400mほどの場所にあります。

掛川城へ行ってみた

それでは掛川城に行ってみましょう。

掛川城へと向かって歩いていくと最初に目に入ってくるのがこの大手門です。
天守からは葉案れたところにありますが、こちらは復元された大手門です。
こちらも木造復元されています。
ただし、本来あった場所からは道路の関係で50mほど北の位置に再建されています。

こちらは大手門番所であり、これは幕末の建築の物だそうです。

こちらは大手門裏に保存されている、大手門礎石根固め石ということで、大手門の基礎部分であり、門柱を支えていた礎石が移されて保存されています。

大手門から見える掛川城はこの通り。
川に沿って歩いていきましょう。

しばらくいくと四足門という門が見えてきました。
こちらは江戸時代に書かれていた絵図にその名称があったことから復元されたものだそうです。

中心にある天守が非常によく見える特徴的な城ですね。

入ってすぐに見えてくるのが太鼓櫓です。
時刻を知らせる太鼓が置かれていた櫓であり、この太鼓櫓は1854年の大地震後に建てられ、昭和の時代に三の丸からここに移築されたものです。

いよいよ天守に向かって登っていきましょう。

途中から見下ろしてみると、先ほどの太鼓櫓と券売所が見えます。
掛川城の天守へ向かうと登城路は、何度も折り曲げて登りにくくすることによって、敵の侵入に備えた城造りをしています。

途中、二の丸御殿へと続く岐路がありますが、まずは天守へと向かいます。
なお、二の丸御殿については、次回の記事で紹介します。

まだまだ登りますよ。

さあ、到着です。
掛川城の天守は、徳川家康の時代ではなく山内一豊が入場したときに造られたものです。
この天守がある曲輪は、山内一豊時代以前には本丸として使われていましたが、一豊によって城域が拡張され、天守を配置する独立した曲輪 天守丸となり、別に御殿が置かれる本丸が設けられました。

一豊によって造られた天守でしたが、幕末の大地震で倒壊してしばらくは再建されなかったものの、平成に入り現在のような木造再建天守として再び世に現れることとなりました。

天守前の霧吹き井戸です。
ここから霧がたちこみ、今川氏真を徳川家康の攻撃から守ったという言い伝えがあるのだそうです。
では、天守内に入ってみましょう。

再建天守ではありますが木造で造られているため天守の雰囲気は抜群です。
城絵図や古記録を基にして木造で復元された天守は、大きな天守ではありませんが入り口に櫓を隣接した造りにするなどして、外観を大きく複雑に見せる造りになっています。

天守を守るための石落としや狭間といった設備が設けられています。

掛川城天守にあった鯱の原寸大複製したものです。


天守からの眺めです。

降りていくと、武者隠しと書かれた小部屋がありました。

土佐漆喰という、藁を発酵させてノリを使わずに使われる漆喰だそうです。
普通の漆喰に比べると硬く、防水性でも秀でたものがあるそうです。

こちらは本丸を囲む堀であり十露盤(そろばん)堀と言います。
十露盤のはこのように見えることからこの名前が付いたのではないかと推測されています。

桜のシーズンの掛川城です。
様々な場所から見上げると見える掛川城天守は、非常に美しいいで立ちですね。

いかがだったでしょうか。
今回は、城の全域と天守について紹介してきました。
しかし、掛川城の見どころはこれだけではありません。
なにしろ、現存する御殿を有する掛川城。
これだけでは終わらないのです。
第二弾記事で、掛川城に残る現存御殿について紹介していきたいと思います。