1173【静岡紀行】掛川城に残る現存御殿の一つ『掛川城 二の丸御殿』

百名城/続・百名城(Castle)
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先日紹介した静岡県にある掛川城
2023年に放送されている大河ドラマ『どうする家康』でも盛り上がりを迎えている家康にまつわる城の数々。
そんな城の一つでもある掛川城。
実際訪れてみると、掛川城の特徴である木造での復元天守が遠くからも城の中心に見え、かつての威光を今も名を見せ続けてくれているのです。

しかし、この掛川城。
そんな天守自体も有名ではあるのですが、それを上回るほどの見どころがまだあるのです。

掛川城の主要な建物の数々は、江戸時代後期、幕末の時代にこの地域を襲った大震災によって壊滅的な被害を受けてしまいます。
天守をはじめ、政務を行っていた二の丸御殿、そしてその他諸々。
その中でも、天守に関してはそこから平成の時代に入るまで再建は行われずにいましたが、さすがに政務を行っていた御殿はすぐに再建せざるを得なかったようです。
そのため、震災から数年後には御殿は再建されており、その御殿が現在にまで残っています。

日本全国には現存天守として12か所の天守が残っていることは有名ですよね。
そして、なんと日本全国には現存御殿と呼ばれる歴史ある御殿が4か所残っていることはご存じでしょうか。
その中の一つがこの掛川城の二の丸御殿なのです。
天守も見ごたえがありますが、この御殿も忘れずに見て回らなければいけませんね。
今回は、前回の掛川城の紹介記事に引き続き、御殿に焦点を当てて紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 掛川城のもう一つの見どころである現存御殿。木造の復元天守もいいけれど、この御殿も合わせて見に行ってみよう。

静岡の記事です。

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掛川城 二の丸御殿

掛川城の御殿である二の丸御殿は、掛川城に残る現存する御殿です。
掛川城は、幕末にこの地域を襲った大震災によって壊滅的な被害を受けています。
しかし、藩の政務を行う場所として重要な拠点であったこの掛川城の二の丸御殿は、震災から数年後に再建が完了し、それが約160年をこえて、現在にまで残されているのです。
現存御殿とは、掛川城を含めて、
高知城
二条城
川越城

と、全国に4か所しか残っていない貴重な建造物なのです。

掛川城は明治に入り廃城となってしまいました。
しかし、御殿は破棄されることはなく、学校や市庁舎などとして活用され続けてきました。
そして、昭和四十七年から3年間をかけて保存修理が行われ、その結果国の重要文化財にも指定されて現在に残っています。
なお、かつて掛川城の本丸にも御殿があったようなのですが、現在は二の丸御殿のみが残されています。

その後、平成に入って天守も再建されます。
再建された天守も、日本発の木造再建天守ということでこちらも注目を集めました。
現存する御殿と、日本発の工法で再建された天守。
これらは掛川のシンボルとして、今日も数多くの人々を迎え入れているわけなのです。

アクセス

JR掛川駅から北に400mほどの場所にあります。

掛川城 二の丸御殿へ行ってみた

それでは、掛川城 二の丸御殿へ行ってみましょう。

登城路の途中から、二の丸御殿への道が枝分かれしています。
その道を進んでいくと、立派な御殿が見えてきます。
これが、掛川城が誇る現存御殿である二の丸御殿です。

御殿内は入場して内部を見学することができるようになっています。
天守と御殿のセットのチケットがあるので、そちらを利用して入館しましょう。

この二の丸御殿は、国の重要文化財にも指定されている建物。
日中帯は写真のように商事などが開放されており、自然の採光や部屋割りなど当時そのままの状態を見学することができるようになっています。

城と聞くと真っ先に思い浮かぶのが天守です。
しかし実際、江戸時代に最も活用されたのは天守ではなくその近くに設けられていた御殿です。
毎日毎日、天守まで登る必要性は、太平の世では必要ありませんもんね。

そのためこの二の丸御殿もフル活用されていたわけです。
それは、江戸末期の大震災で大ダメージを受けた掛川城の中でも真っ先にこの御殿が再建されたことからもわかりますよね。
それもそのはず、御殿には重要な役割があったのです。

それはまず、藩主の公邸の役割です。
そして、藩主及び藩内の政務の仕事を行う役所としての役割。
最後に、儀式や訪問してきた要人と対面したりする公式行事が行われる役割です。
藩の運営そのものを担っていた重要な建物だったのです。

なお、明治には以上になった後は、この建物を学校や市庁舎などに転用されていたこともあるのだそうです。

内部は書院造と呼ばれ、現代の和室の様に畳が知己詰められた部屋部屋が、襖によって仕切られた造りとなっています。
このように現存している御殿ですが、日本全国を見ても現存する御殿というのは4か所しかありません。
現存十二天守よりもさらに希少な建築物なのです。

ただ単に歴史ある建物を公開しているだけではなく、このように部屋を彩る作品などの展示もされています。

天井に紋の入った謎の扉が!?
この先には何があるのでしょうね。

こちらは杉良太郎から寄贈された甲冑なのだそうです。

幕末に大地震で倒壊した御殿が再建された際に、上棟式に用いられた梵天と呼ばれるものだそうです。

目まぐるしく城主が入れ替わったかけ輪上にあって、最後に城主となっていた一族、太田氏ゆかりの品々が展示されています。

御殿を進んでいくと足軽目付と呼ばれる場所であり、足軽を監督していた足軽目付がいた部屋です。

車長持という収納に使われた木箱です。

徒(かち)という下級武士を監督した徒目付が使用した部屋です。

大目付という、藩内の監察や警備などの主要な任務をした大目付の部屋です。

藩の財政や庶務関係を担う用人が使用した部屋である御用人部屋です。

御殿邸内の警備をしていた役人が使用した部屋である張役所です。

掛川城を近世城郭へと変貌させたのは、かの有名な山内一豊です。
山内氏が高知へ入る前、この掛川城に入った同氏によって、天守の建造をはじめ、掛川城を近世城郭へと変貌させる種々改革が行われたのだそうです。

これは参勤交代の様子をあらわした展示物なのですが、驚くほどずーっと長い展示になっています。
参勤交代がやってきたときの様子というのがよくわかります。

御談の間といい、反へ幼児のあるものの取次ぎなどが行われた部屋です。

つまようじでつくられた掛川城の天守と御殿です。

こちらは天守の模型ですね。

御広間という、藩の中でも身分の高い人たちが使っていた玄関です。

いかがだったでしょうか。
さすが幕末から残る現存御殿。
その本物の雰囲気は、この直前に拝見した復元天守では表現しきれない所でしょう。
このような貴重な御殿に自由に入って見学できるというのは、非常に恵まれたことですよね。
日本に残る現存4御殿。
これはまた、全てを訪れておきたいスポットですね。