今回紹介しているのはかつての鎌倉幕府にあったある建造物跡になあります。
その場所とは東御門と言います。
その名の通り東にあった門なのですが、この門は鎌倉幕府の政務が行われていた大倉御所の東側にあった幕府の門の跡なのです。
現在この大倉御所というものは影も形も残っていません。
御所の中心は現在は清泉小学校という小学校の敷地になっています。
そしてその御所の東西南北には4つの門がありました。
その中でも東西にあった門は、東御門そして西御門という名前です。
これらは現在はその影も形も残されていません。
しかし、西御門は地名となって今も人々の生活の中に残ってはいます。
そして、東御門は現在は碑が残されているだけなのです。
しかし、この辺り一帯に残された碑や地名などをたどっていくと、今は影も形もないかつての政治の中心地がうっすらと浮かび上がってくるのではないでしょうか。
今回はそんなかつての大倉御所の東側に設けられていた門である、東御門について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
鎌倉に関する記事です。


















東御門
東御門は、神奈川県鎌倉市に残る史跡であり、現在は碑のみが建てられたいる場所です。
この東御門というのは、かつて鎌倉幕府があった時代、その政務が執り行われていた大倉御所という場所がありました。
その大倉御所には、東西南北4つの門が設置されており、そのうちの東門があった場所がこの東御門と呼ばれる碑の立つ場所となっています。
同じく西門があったところは西御門と呼ばれ、現在は地名にもなっていますが、東御門は地名にはなっておらず、なんと東御門跡がある場所の住所が西御門になっているというなんとも影の薄い扱いになっていたりします。
この碑自体は、大正末期に建立されたものです。
実際に東門があったのは800年ほど前のことであり、碑が建てられたのが約100年ほど前のこと。
つまりその間数百年間は何もない空白の時間があった場所なのですね。
しかし、そのまま風化されていくのではなく、今場所に確かにあった東門を後世に伝えていくために、鎌倉町青年団の多くの人々が尽力して、現在に至っているという歴史の重みを感じる場所ともなっています。
実際東御門の碑は、街中にポツンとあり、かつて大倉御所があったとされている現在の清泉小学校の北東角の向かい側にあります。
周辺には鎌倉時代を彩った数々の史跡がありますが、鶴岡八幡宮や鎌倉駅周辺の賑わいと比べると非常にひっそりとした場所にあります。
おそらくココアで訪れる人々というのは、かなり鎌倉の歴史について興味関心の高い人かもしれません。
現在は碑があるだけで、何も当時の面影がないこの東御門の場所なのですが、この近くには当時には櫓が設けられていたということです。
さらに当時には御所の周囲を堀が張り巡らされていたのではないかともいわれています。
しかし、当時の痕跡を残すものは残っていないので、これらは推測となりますが、かつてこの場所に大きな御所があり、多くの人々の賑わいがあったと想像してみるのも面白い歴史のたどり方ではないでしょうか。
アクセス
鶴岡八幡宮から東に600mのところにあります。
東御門へ行ってみた
それでは、東御門へ行ってみましょう。
鎌倉の鶴岡八幡宮から東に向かってある行くと、かつて政務を行っていた鎌倉幕府の中心地、大倉御所跡のある清泉小学校があります。
その小学校をぐるっとまわっていき、北東角にまでたどりつくと、その向かい側に一つの石碑が残されています。

この石碑こそが大倉御所の東御門の跡なのです。
大正自裁に建てられた石碑は、すでに100年近くを数える年季の入ったものです。
しかし、この石碑以外には何も残っておらず、少し寂しい感じがしたりします。

手書きで書かれた説明文もあります。
かつての大倉御所がどのような範囲にあったのか。
これを読んでみるとなんとなくその範囲がわかるようになっています。
ここまで来たかいがあった!と感じさせられますね。
いかがだったでしょうか。
同じく大倉御所の西御門に比べると影が薄いかなあと感じさせられる東御門。
地名にもなっている西御門と比べると扱いが小さいなあと感じるかもしれませんが、だからこそここまでたどり着いたという、自分だけのお気に入り感がある史跡かもしれません。
探せば探すほど様々な見どころのある鎌倉。
まだまだ、自分だけのお気に入りの場所を探せば見つかりそうです。
特にこの鶴岡八幡宮から北東のエリアには、面白いスポットが点在しているため、歩いての散策が楽しみになりますね。