1187【神奈川紀行】鎌倉幕府の創設に多大な貢献を果たした伝説の武士 畠山重忠の邸宅があったとされる場所に残る碑『畠山重忠邸址』

関東地方(Kanto)
この記事は約5分で読めます。

今回も鎌倉に残る史跡の紹介です。
今回はとある人物の邸址の史跡となります。
その人物とは畠山重忠
鎌倉幕府創設期の有力御家人として活躍したものの、北条時政の計略によって謀反の疑いをかけられ、一族が滅ぼされることになってしまった人物です。
大河ドラマの鎌倉殿の13人での好演も印象深いこの人物なのですが、その畠山重忠の邸宅があったとされる場所が鶴岡八幡宮のすぐ東側に残されています。
それが畠山重忠邸址の碑なのです。

残念ながら、現在この場所には何も残されていません。
民家が立ち並ぶ町の一角にこの石碑が残るだけです。
この石碑も建立されたのは大正12年のこと。
以前紹介した、大倉御所の東御門の様に鎌倉町の青年団の人々によって建てられたものなのです。
そしてこの場所は、畠山重忠の邸宅跡であるとともに、大倉御所の東西南北にあった門の一つである南御門であったと考えられている場所なのです。

今回はこの鎌倉に残る史跡である、畠山重忠邸址について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 坂東武者の鑑と称された人物畠山重忠、その邸宅があったとされる場所に残る、畠山重忠邸址を見に行ってみよう。

鎌倉に関する記事です。

1189【神奈川紀行】鎌倉の閑静な住宅地に建つ、ひときわ目立つランドマーク的な邸宅『加賀谷邸』
甘縄神明神社につながる小道を歩いていると、その途中にふと気になる住居がありました。訪れたときには改修工事?を行っていたようなのですが、それであってもまわりの家とはかなり趣の異なるこの家。実は、鎌倉市景観重要建築物に選ばれている家なのです。その家を加賀谷邸といいます。
1188【神奈川紀行】ここにかつて若宮大路を代表する大鳥居が存在していた『浜の大鳥居跡』
源頼朝が鶴岡八幡宮を現在の場所に遷座したときに鳥居も造られました。その時代、一の鳥居は、最も南側の海岸寄りにあった鳥居であったこともあり、浜鳥居と呼ばれていました。浜鳥居はその後何度も再建が繰り返され、現在の一の鳥居へとつながっていますが、実は過去の濱鳥居は現在の一の鳥居とは異なる場所にあった痕跡が発掘されているのです。それこそが浜の大鳥居跡なのです。
1186【神奈川紀行】なぜここにこれらの人物の墓が!?『大江広元の墓・毛利季光の墓・島津忠久の墓』
大江広元は大河ドラマの鎌倉殿の13人でも登場した源頼朝の側近として、頼朝亡き後も文官として鎌倉幕府を支え続けた人物であったため、この地にその墓があるというのは納得ですよね。ところが、そのすぐ横に毛利氏の墓があったり、島津氏の墓があったりするのはなぜなのだろう?となるかもしれません。
1185【神奈川紀行】かつては鎌倉幕府を支える鉄壁の一族だったが・・・『三浦一族のやぐら』
鎌倉幕府の創設期から幕府を支えてきた三浦一族なのですが、最後には北条一族と争った結果敗れてしまい、一族もろとも自刃するわけなのです。そんな三浦一族を法務経ったとされる場所が今回紹介している三浦一族のやぐらなのです。 皮肉にも、北条義時を祀っている法華堂があったとされる場所のすぐ裏手にあるこのやぐらと呼ばれる場所。鎌倉散策では必ず訪れておきたい場所ですよね。
1183【神奈川紀行】かつての大倉幕府にあった4つの門の一つ。東門があったとされる場所に残る碑『東御門』
鎌倉にかつてあった大倉御所というものは影も形も残っていません。御所の中心は現在は清泉小学校という小学校の敷地になっています。そしてその御所の東西にあった門は、東御門そして西御門というものがありました。これらは現在は地名などでしか残っていません。
1182【神奈川紀行】フランスに伝わるルルドの奇跡。その願いを鎌倉の地にも『ルルドの洞窟』
ルルドの洞窟とは、フランスのピレネー山脈にあるルルドという町にあるとある洞窟です。この場所で、聖母マリアがとある少女の前に何度も現れ、お告げを与えたことによって数々の奇跡がおこったという場所とされています。そのため、現在でもなお、心身の癒しを求めて、世界中から多くの人々がルルドを訪れています。
1180【神奈川紀行】 鎌倉十井の一つ。鉄の観音像の伝説が残る『鉄の井(くろがねのい)』
今回取り上げているのは、鉄の井といいます。"てつのい"ではなく、"くろがねのい"と言います。鎌倉十井の中でも、とにかく人通りの多い小町通りの北の端にあるため、おそらく見かけたこともある人は多いのではないでしょうか。この井戸が"鉄"と呼ばれるのは、ここの井戸からとあるものが掘りだされたことに由来するのです。今となっては真偽はわからないその出来事。では、この鉄の井に残る伝説とは何なのでしょうか。
1172【神奈川紀行】和田塚につながる江ノ電の駅『和田塚駅』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、大人気となった登場人物である和田義盛。幕府のために尽力した人物であったものの、最後は北条義時との対立によって和田合戦を誘発され、討ち取られてしまった人物です。和田義盛が眠る場所である和田塚は、江ノ島電鉄のとある駅の近くにあります。その駅とはそのままで『和田塚駅』と言います。駅名になるほどの史跡なのですよ。
1169【神奈川紀行】由比ヶ浜に散った和田合戦の犠牲者たちを弔った『和田塚』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。序盤から終盤まで登場し、殺伐としたドラマにひと時の安ど感を与えた、同ドラマ内でも大人気にキャラクターがいます。その人物とは、和田義盛です。鎌倉幕府の中でも初代侍所長官などを務め、鎌倉政権の立ち上がり時になくてはならなかった人物です。
1161【神奈川紀行】ここが鎌倉の武家政治の拠点があった場所『大倉幕府跡(大蔵幕府跡)』
鎌倉幕府の中心出会った場所は、今は何も建物は残っていません。石碑が残るのみなのです。その幕府の政務が行われていた場所というのは、大倉御所と言います。そして、その場所で政務が行われていたため、史跡としては大倉幕府跡として残されているのです。
1155【神奈川紀行】源頼朝の墓のすぐ横にあるもう一つの墓『法華堂跡(北条義時墓)』
北条義時が眠る場所というのはどこにあるのでしょうか。実は、源頼朝と並び、同じく法華堂に葬られていたのだそうです。その北条義時が葬られていた場所は法華堂跡として源頼朝の墓のすぐ東側に残されているのです。
1148【神奈川紀行】かつて世の中を牛耳った天下の将軍。しかし、その墓は今はひっそりと『法華堂跡(源頼朝墓)』
何百年も続く武家を中心とした社会の基盤を作り上げたこの源頼朝ですが、今も鎌倉の地に眠り続けているわけです。では、その源頼朝の墓ってどこにあるの?実は鶴岡八幡宮の近くにあるのです。
1143【神奈川紀行】鎌倉市最古の神社。源氏将軍家から代々大切にされ続けていた『甘縄神明神社』
鎌倉殿をたどる鎌倉散策。今回はそんな鎌倉にある神社です。鎌倉時代を彩った歴史上の人物たちが物心ついたころにはすでにこの地にこの神社はあったわけなのです。その神社の名を甘縄神明神社(あまなわしんめいじんじゃ)といいます。
1140【神奈川紀行】鎌倉幕府の大倉御所西御門があった場所にある 『来迎寺(西御門)』
かつて西御門には数多くのお寺が建てられていましたが、この来迎寺はその中でも唯一残っているお寺です。その創建は1293年とされており、次週の開祖としても有名な一遍上人によって建立されたといわれていますが、その沿革には不明な点が多くあります。
1138【神奈川紀行】北条得宗家の屋敷があったとされる地に建つ寺 『宝戒寺』
今回紹介している場所は、鶴岡八幡宮のすぐ近く。境内にある三の鳥居の道を東に向かってしばらく行くとこの場所は見えてきます。そこは宝戒寺というお寺なのです。なんだ、お寺かあ・・・。と思うかもしれませんが、ここは鎌倉幕府に非常にゆかりのある寺なのです。鎌倉幕府の時代にはここにお寺はありませんでした。では、何がここにはあったのかというと、ある邸宅があったのです。
1134【神奈川紀行】関東大震災で倒壊したものの、唯一元通りに復元された『一の鳥居』
鶴岡八幡宮へと向かう若宮大路にあって、一番最初に現れる鳥居ということで、その存在感は抜群です。日光東照宮、八坂神社、これらの場所にある石鳥居と合わせて、日本三大石鳥居にも数えられるほどの鳥居なのが、この一の鳥居なのです。
1132【神奈川紀行】実は、鶴岡八幡宮に延びる大通りをさらに偉大に見せるための工夫が施されている『若宮大路』
前回は畠山重保の邸宅跡を紹介しましたが、この邸宅跡は鎌倉の鶴岡八幡宮へと続く大通りが若宮大路です。鎌倉が面する由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へと続く参道であり、鎌倉のメインストリートですよね。参道自体は1.8kmもの長さがあり、その途中に3つの鳥居があります。そして、鳥居を抜けた先にあるのがかの有名な鶴岡八幡宮なのですね。
1127【神奈川紀行】いよいよ鎌倉シリーズスタート!その第一弾は若宮大路 一の鳥居のそばにある『畠山重保邸跡・重保供養塔』
今回紹介するのは『畠山重保邸跡・重保供養塔』と呼ばれる場所。畠山重保?畠山重忠であれば、序盤から終盤にかけて物語の要所を固めた人物の一人でしたよね。しかし、でっちあげから始まった畠山重忠の乱によって一族は滅亡してしまうわけです。その畠山重忠の乱の際に、鎌倉の武士たちの謀略によって殺されてしまった畠山重忠の息子。その人物こそが畠山重保なのです。

畠山重忠邸址

鎌倉の鶴岡八幡宮。
その敷地の東端には東鳥居があります。
その鳥居のすぐ前には、とある石碑が立っています。
この石碑は、畠山重忠邸址と言います。
畠山重忠というと、鎌倉時代の武将。
坂東武士の鑑として、武勇の誉れ高い人物だったと伝わる歴史上の人物です。

畠山重忠というと、頼朝の挙兵時には敵対していました。
大庭景親についていた畠山重忠でしたが、後に頼朝が力を蓄え大きな勢力となると、頼朝に従うようになり、鎌倉入りすることとなります。
その後は、鎌倉幕府の創設期に活躍をした人物でした。

しかし、源頼朝の死後には風向きが変わります。
幕府の実権を握っていた北条時政によって謀反の疑いをかけられます。
しかし、北条義時・時房の二人は重忠が謀反を起こすことなどありえないと反対しますが、時政そしてその妻である牧の方に押し切られ、重忠を討伐することとなります。
畠山重忠の乱の結果、畠山重忠とその息子である畠山重保、さらに一族もろとも滅ぼされてしまったのです。
畠山重忠は北条時政の娘婿、そして畠山重保は時政の実の孫であったにもかかわらずです。
しかし、この事件がきっかけとなり、北条時政と妻の牧の方は失脚することとなってしまいます。
そんな言い伝えの残る畠山重忠の邸宅があったとされる場所がこの地なのです。

この石碑が建てられたのは、大正12年のこと。
大正12年というと1923年。
畠山重忠が没してから700年以上後のことなのですね。
大正12年に鎌倉の青年団によって石碑が建てられます。
石碑にはこのように書かれています。
源頼朝の娘であった三幡が病気にかかった際に、京都から丹波時長という名医を呼び寄せます。
丹波時長は、亀ヶ谷にあった中原親能の家から、南御門にあった畠山重忠の邸宅いやってきました。
そして、その南御門前の畠山重忠邸があったのがこの場所なのです。
ということが書かれているのです。

南御門というと、当ブログでもこれまで出てきた、西御門・東御門が思い浮かびますね。
これらは、かつて鎌倉幕府の政務が行われていた大倉御所にあった4つの門のことを表しています。
この中でも西御門というのは地名にもなっているので有名ですね。

アクセス

鶴岡八幡宮の東鳥居を出てすぐの場所に石碑が立っています。
鎌倉駅からは徒歩で20分ほどで到着します。

畠山重忠邸址へ行ってみた

それでは、畠山重忠邸址へ行ってみましょう。

鶴岡八幡宮の東鳥居を出てすぐ、目の前にこの畠山重忠邸址の石碑が立っています。
この辺りがかつて南御門と呼ばれた場所であるらしいです。
大倉御所が現在は影も形もなくなっているのと同様に、石碑以外は何も残されていません。
しかし、鶴岡八幡宮のすぐそばにあるということで、目にしたことがある人も多い石碑なのではないかと思います。

いかがだったでしょうか。
以前当ブログでは、畠山重忠の息子である畠山重忠邸址を紹介しました。
そして今回は畠山重忠本人の邸宅跡。
親子そろって不遇の死を遂げた武将ではありますが、その誉れ高き武勇は、今もなお言い伝えられています。
だからこそ、親子ともどもその邸宅跡がこのように後世にまで伝えられていることなのでしょう。
大河ドラマの鎌倉殿の13人では、中川大志氏によって好演され、一躍鎌倉節の中でも脚光を浴びることになった畠山重忠と重保の親子。
その痕跡が残るこれらの史跡めぐりは、新たな鎌倉の楽しみ方の一つではないでしょうか。