今回も鎌倉に残る史跡の紹介です。
今回はとある人物の邸址の史跡となります。
その人物とは畠山重忠。
鎌倉幕府創設期の有力御家人として活躍したものの、北条時政の計略によって謀反の疑いをかけられ、一族が滅ぼされることになってしまった人物です。
大河ドラマの鎌倉殿の13人での好演も印象深いこの人物なのですが、その畠山重忠の邸宅があったとされる場所が鶴岡八幡宮のすぐ東側に残されています。
それが畠山重忠邸址の碑なのです。
残念ながら、現在この場所には何も残されていません。
民家が立ち並ぶ町の一角にこの石碑が残るだけです。
この石碑も建立されたのは大正12年のこと。
以前紹介した、大倉御所の東御門の様に鎌倉町の青年団の人々によって建てられたものなのです。
そしてこの場所は、畠山重忠の邸宅跡であるとともに、大倉御所の東西南北にあった門の一つである南御門であったと考えられている場所なのです。
今回はこの鎌倉に残る史跡である、畠山重忠邸址について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
鎌倉に関する記事です。


















畠山重忠邸址
鎌倉の鶴岡八幡宮。
その敷地の東端には東鳥居があります。
その鳥居のすぐ前には、とある石碑が立っています。
この石碑は、畠山重忠邸址と言います。
畠山重忠というと、鎌倉時代の武将。
坂東武士の鑑として、武勇の誉れ高い人物だったと伝わる歴史上の人物です。
畠山重忠というと、頼朝の挙兵時には敵対していました。
大庭景親についていた畠山重忠でしたが、後に頼朝が力を蓄え大きな勢力となると、頼朝に従うようになり、鎌倉入りすることとなります。
その後は、鎌倉幕府の創設期に活躍をした人物でした。
しかし、源頼朝の死後には風向きが変わります。
幕府の実権を握っていた北条時政によって謀反の疑いをかけられます。
しかし、北条義時・時房の二人は重忠が謀反を起こすことなどありえないと反対しますが、時政そしてその妻である牧の方に押し切られ、重忠を討伐することとなります。
畠山重忠の乱の結果、畠山重忠とその息子である畠山重保、さらに一族もろとも滅ぼされてしまったのです。
畠山重忠は北条時政の娘婿、そして畠山重保は時政の実の孫であったにもかかわらずです。
しかし、この事件がきっかけとなり、北条時政と妻の牧の方は失脚することとなってしまいます。
そんな言い伝えの残る畠山重忠の邸宅があったとされる場所がこの地なのです。
この石碑が建てられたのは、大正12年のこと。
大正12年というと1923年。
畠山重忠が没してから700年以上後のことなのですね。
大正12年に鎌倉の青年団によって石碑が建てられます。
石碑にはこのように書かれています。
源頼朝の娘であった三幡が病気にかかった際に、京都から丹波時長という名医を呼び寄せます。
丹波時長は、亀ヶ谷にあった中原親能の家から、南御門にあった畠山重忠の邸宅いやってきました。
そして、その南御門前の畠山重忠邸があったのがこの場所なのです。
ということが書かれているのです。
南御門というと、当ブログでもこれまで出てきた、西御門・東御門が思い浮かびますね。
これらは、かつて鎌倉幕府の政務が行われていた大倉御所にあった4つの門のことを表しています。
この中でも西御門というのは地名にもなっているので有名ですね。
アクセス
鶴岡八幡宮の東鳥居を出てすぐの場所に石碑が立っています。
鎌倉駅からは徒歩で20分ほどで到着します。
畠山重忠邸址へ行ってみた
それでは、畠山重忠邸址へ行ってみましょう。

鶴岡八幡宮の東鳥居を出てすぐ、目の前にこの畠山重忠邸址の石碑が立っています。
この辺りがかつて南御門と呼ばれた場所であるらしいです。
大倉御所が現在は影も形もなくなっているのと同様に、石碑以外は何も残されていません。
しかし、鶴岡八幡宮のすぐそばにあるということで、目にしたことがある人も多い石碑なのではないかと思います。
いかがだったでしょうか。
以前当ブログでは、畠山重忠の息子である畠山重忠邸址を紹介しました。
そして今回は畠山重忠本人の邸宅跡。
親子そろって不遇の死を遂げた武将ではありますが、その誉れ高き武勇は、今もなお言い伝えられています。
だからこそ、親子ともどもその邸宅跡がこのように後世にまで伝えられていることなのでしょう。
大河ドラマの鎌倉殿の13人では、中川大志氏によって好演され、一躍鎌倉節の中でも脚光を浴びることになった畠山重忠と重保の親子。
その痕跡が残るこれらの史跡めぐりは、新たな鎌倉の楽しみ方の一つではないでしょうか。