1188【神奈川紀行】ここにかつて若宮大路を代表する大鳥居が存在していた『浜の大鳥居跡』

関東地方(Kanto)
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鎌倉のメインストリートである若宮大路。
この若宮大路には現在3つ鳥居があります。
海側から若宮大路を北上していくと最初に現れる一の鳥居
鶴岡八幡宮の参道途中、段葛とよばれる一段高い歩道の初めに現れる二の鳥居
そして、鶴岡八幡宮の入り口にある三の鳥居
この3つの鳥居を見ると、鎌倉にやってきたんだなあという気持ちになりますよね。

実際、非常に長い歴史をもつこれらの鳥居なのですが、現在ある鳥居の元になっているのは、1668年に江戸幕府によって再建されたものがもとになっています。
そして、その再建された鳥居なのですが今から100年ほど前の関東大震災によって全て倒壊してしまいました。

その後、昭和になってすべて再建されてのですが、3つの鳥居の中で一の鳥居のみが江戸時代に再建された際の石材を用いて復原されました。
残りの2つの鳥居に関してはコンクリートで再建されています。

このような歴史をもつこれらの鳥居なのですが、その元祖はというと、やはり源頼朝の時代にまでさかのぼります。
そして、源頼朝が鶴岡八幡宮を現在の場所に遷座したときに鳥居も造られました。
その時代、一の鳥居は、最も南側の海岸寄りにあった鳥居であったこともあり、浜鳥居と呼ばれていました。
浜鳥居はその後何度も再建が繰り返され、現在の一の鳥居へとつながっていますが、実は過去の濱鳥居は現在の一の鳥居とは異なる場所にあった痕跡が発掘されているのです。
それこそが浜の大鳥居跡なのです。

今回はこの鎌倉の若宮大路に残る浜の大鳥居跡について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 現在の若宮大路一の鳥居とは異なる場所にかつてあった浜の大鳥居の跡を見に行ってみよう。

鎌倉に関する記事です。

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浜の大鳥居跡

浜の大鳥居跡とは、鎌倉の若宮大路に残る史跡です。
現在の鎌倉の若宮大路には、3つの大きな鳥居があります。
由比ヶ浜から北上して鶴岡八幡宮へとつながる若宮大路。
浜に一番近いのが一の鳥居であり、途中の段葛にあるのが二の鳥居。
最後に鶴岡八幡宮の入り口にあるのが三の鳥居です。

この中でも一の鳥居は、最も由比ヶ浜に近いことから浜鳥居と呼ばれているのですが、この鳥居が最初に造られたのは1180年のことでした。
この時代は源頼朝がかつて別の場所にあった鶴岡八幡宮を現在の場所にまで遷座しました。
その際に、一番最初の浜鳥居が創建されました。
この浜鳥居はその後、何度も倒壊と再建が繰り返されています。
現在の浜鳥居も、江戸時代に4代将軍の徳川家綱によって1668年に再建されたものがもとになっています。
再建された浜鳥居なのですが、その後、大正12年の阪神大震災に3つの鳥居は全て倒壊してしまいますが、浜鳥居だけは当時の石材を用いて復元されています。

そんな浜鳥居なのですが、現在はJR鎌倉駅から600mほど南のところにあるのですが、かつての浜鳥居は別の場所にあったと推定されています。
実は浜鳥居がかつてあった場所は長年はっきりとしていませんでした。
かつては由比ヶ浜がもっと内陸にあり、本当には間に合った鳥居だったから浜鳥居というようになったのだとか、宮島の様に海中に鳥居があったのだとか、様々な説があったのですが、今回紹介している浜の大鳥居跡が平成2年に見つかったことによって、かつて立っていた場所がある程度特定されることになりました。

発掘された浜鳥居跡は、1553年の北条氏康によって造られた浜鳥居である可能性が高いとされています。
この浜鳥居の跡が発見されてことで、かつて浜鳥居が現在の位置から200mほど北にあったことがわかりました。
このことから、かつての浜鳥居の位置について推定できる歴史的に貴重な資料として大きな発見だったのです。

なお、この大鳥居跡が発掘された時には、木造の柱痕が見つかったらしく、その様子については大鳥居跡の石碑に写真が掲載されています。

アクセス

JR鎌倉駅から南に400m。一の鳥居からは北に200mほどの場所にあります。

浜の大鳥居跡へ行ってみた

それでは、浜の大鳥居跡へ行ってみましょう。

現在の一の鳥居から北に向かって歩いていくと上の写真のような石碑が見えてきます。
これがかつての一の鳥居=浜鳥居の跡なのです。
しかし、小の濱鳥居も南との頼朝時代のものではないとのことなのです。

ここにかつてあった浜鳥居は、1553年の戦国時代に、北条氏康によって建てられた浜鳥居の跡である可能性が高いとされています。
北条氏康の時代には無くなっていたとされる浜鳥居。
それが北条氏康によって再建されたのですね。
このように過去何度も再建を繰り返されていたのが浜鳥居なのです。

この跡が発掘されたのは約30年以上前の平成2年のこと。
ヒノキ及びケヤキで造られた木造の鳥居であったようであり、発掘時の様子が案内の写真で紹介されていました。

いかがだったでしょうか。
現在私たちが目にすることができる鎌倉の若宮大路の鳥居なのですが、900年に及ぶ歴史があるということは、その歴史の中で大きな変遷がたくさんあったわけなのです。
幸いなことに、その痕跡が発掘されたことによって、今の私たちも見ることができるかつての浜の大鳥居跡。
これまで様々な人物たちがこの鎌倉を重要なポイントとして考えていた一つの痕跡でもあるのですね。