1189【神奈川紀行】鎌倉の閑静な住宅地に建つ、ひときわ目立つランドマーク的な邸宅『加賀谷邸』

関東地方(Kanto)
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鎌倉で最古とされる神社である甘縄神明神社
源頼朝や北条政子の時代よりもさらに400年以上古い神社とされ、鎌倉幕府の著名な人物たちも参詣したと伝えられている神社です。
鎌倉観光の中心である大仏や長谷寺などに比べると訪れる人は圧倒的に少ないなあと思うところはあるのですが、知る人ぞ知る鎌倉の散策スポットの一つなのです。

ところでこの甘縄神明神社へは、江ノ島電鉄の長谷駅で下車してすぐのところにあります。
メインストリートである藤沢鎌倉線から東に少し外れたところに行くことになるのですが、甘縄神明神社につながる小道を歩いていると、その途中にふと気になる住居がありました。
訪れたときには改修工事?を行っていたようなのですが、それであってもまわりの家とはかなり趣の異なるこの家。
実は、鎌倉市景観重要建築物等に選ばれている家なのです。
その家を加賀谷邸といいます。
一見すると和風建築物のように見えるのですが、洋風な趣もある目を引く洋館なのです。
これはどういった建物なのか調べてみないといけませんね。

というわけで今回は、鎌倉は長谷にある加賀谷邸について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 鎌倉の散策スポットの一つ。これまで紹介してきた鎌倉幕府がらみではないものの中にも、目を引く建造物がまだまだあるのです。

鎌倉に関する記事です。

1187【神奈川紀行】鎌倉幕府の創設に多大な貢献を果たした伝説の武士 畠山重忠の邸宅があったとされる場所に残る碑『畠山重忠邸址』
今回はとある人物の邸址の史跡となります。その人物とは畠山重忠。鎌倉幕府創設期の有力御家人として活躍したものの、北条時政の計略によって謀反の疑いをかけられ、一族が滅ぼされることになってしまった人物です。大河ドラマの鎌倉殿の13人での好演も印象深いこの人物なのですが、その畠山重忠の邸宅があったとされる場所が鶴岡八幡宮のすぐ東側に残されています。それが畠山重忠邸址の碑なのです。
1186【神奈川紀行】なぜここにこれらの人物の墓が!?『大江広元の墓・毛利季光の墓・島津忠久の墓』
大江広元は大河ドラマの鎌倉殿の13人でも登場した源頼朝の側近として、頼朝亡き後も文官として鎌倉幕府を支え続けた人物であったため、この地にその墓があるというのは納得ですよね。ところが、そのすぐ横に毛利氏の墓があったり、島津氏の墓があったりするのはなぜなのだろう?となるかもしれません。
1185【神奈川紀行】かつては鎌倉幕府を支える鉄壁の一族だったが・・・『三浦一族のやぐら』
鎌倉幕府の創設期から幕府を支えてきた三浦一族なのですが、最後には北条一族と争った結果敗れてしまい、一族もろとも自刃するわけなのです。そんな三浦一族を法務経ったとされる場所が今回紹介している三浦一族のやぐらなのです。 皮肉にも、北条義時を祀っている法華堂があったとされる場所のすぐ裏手にあるこのやぐらと呼ばれる場所。鎌倉散策では必ず訪れておきたい場所ですよね。
1183【神奈川紀行】かつての大倉幕府にあった4つの門の一つ。東門があったとされる場所に残る碑『東御門』
鎌倉にかつてあった大倉御所というものは影も形も残っていません。御所の中心は現在は清泉小学校という小学校の敷地になっています。そしてその御所の東西にあった門は、東御門そして西御門というものがありました。これらは現在は地名などでしか残っていません。
1182【神奈川紀行】フランスに伝わるルルドの奇跡。その願いを鎌倉の地にも『ルルドの洞窟』
ルルドの洞窟とは、フランスのピレネー山脈にあるルルドという町にあるとある洞窟です。この場所で、聖母マリアがとある少女の前に何度も現れ、お告げを与えたことによって数々の奇跡がおこったという場所とされています。そのため、現在でもなお、心身の癒しを求めて、世界中から多くの人々がルルドを訪れています。
1180【神奈川紀行】 鎌倉十井の一つ。鉄の観音像の伝説が残る『鉄の井(くろがねのい)』
今回取り上げているのは、鉄の井といいます。"てつのい"ではなく、"くろがねのい"と言います。鎌倉十井の中でも、とにかく人通りの多い小町通りの北の端にあるため、おそらく見かけたこともある人は多いのではないでしょうか。この井戸が"鉄"と呼ばれるのは、ここの井戸からとあるものが掘りだされたことに由来するのです。今となっては真偽はわからないその出来事。では、この鉄の井に残る伝説とは何なのでしょうか。
1172【神奈川紀行】和田塚につながる江ノ電の駅『和田塚駅』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、大人気となった登場人物である和田義盛。幕府のために尽力した人物であったものの、最後は北条義時との対立によって和田合戦を誘発され、討ち取られてしまった人物です。和田義盛が眠る場所である和田塚は、江ノ島電鉄のとある駅の近くにあります。その駅とはそのままで『和田塚駅』と言います。駅名になるほどの史跡なのですよ。
1169【神奈川紀行】由比ヶ浜に散った和田合戦の犠牲者たちを弔った『和田塚』
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。序盤から終盤まで登場し、殺伐としたドラマにひと時の安ど感を与えた、同ドラマ内でも大人気にキャラクターがいます。その人物とは、和田義盛です。鎌倉幕府の中でも初代侍所長官などを務め、鎌倉政権の立ち上がり時になくてはならなかった人物です。
1161【神奈川紀行】ここが鎌倉の武家政治の拠点があった場所『大倉幕府跡(大蔵幕府跡)』
鎌倉幕府の中心出会った場所は、今は何も建物は残っていません。石碑が残るのみなのです。その幕府の政務が行われていた場所というのは、大倉御所と言います。そして、その場所で政務が行われていたため、史跡としては大倉幕府跡として残されているのです。
1155【神奈川紀行】源頼朝の墓のすぐ横にあるもう一つの墓『法華堂跡(北条義時墓)』
北条義時が眠る場所というのはどこにあるのでしょうか。実は、源頼朝と並び、同じく法華堂に葬られていたのだそうです。その北条義時が葬られていた場所は法華堂跡として源頼朝の墓のすぐ東側に残されているのです。
1148【神奈川紀行】かつて世の中を牛耳った天下の将軍。しかし、その墓は今はひっそりと『法華堂跡(源頼朝墓)』
何百年も続く武家を中心とした社会の基盤を作り上げたこの源頼朝ですが、今も鎌倉の地に眠り続けているわけです。では、その源頼朝の墓ってどこにあるの?実は鶴岡八幡宮の近くにあるのです。
1143【神奈川紀行】鎌倉市最古の神社。源氏将軍家から代々大切にされ続けていた『甘縄神明神社』
鎌倉殿をたどる鎌倉散策。今回はそんな鎌倉にある神社です。鎌倉時代を彩った歴史上の人物たちが物心ついたころにはすでにこの地にこの神社はあったわけなのです。その神社の名を甘縄神明神社(あまなわしんめいじんじゃ)といいます。
1140【神奈川紀行】鎌倉幕府の大倉御所西御門があった場所にある 『来迎寺(西御門)』
かつて西御門には数多くのお寺が建てられていましたが、この来迎寺はその中でも唯一残っているお寺です。その創建は1293年とされており、次週の開祖としても有名な一遍上人によって建立されたといわれていますが、その沿革には不明な点が多くあります。
1138【神奈川紀行】北条得宗家の屋敷があったとされる地に建つ寺 『宝戒寺』
今回紹介している場所は、鶴岡八幡宮のすぐ近く。境内にある三の鳥居の道を東に向かってしばらく行くとこの場所は見えてきます。そこは宝戒寺というお寺なのです。なんだ、お寺かあ・・・。と思うかもしれませんが、ここは鎌倉幕府に非常にゆかりのある寺なのです。鎌倉幕府の時代にはここにお寺はありませんでした。では、何がここにはあったのかというと、ある邸宅があったのです。
1134【神奈川紀行】関東大震災で倒壊したものの、唯一元通りに復元された『一の鳥居』
鶴岡八幡宮へと向かう若宮大路にあって、一番最初に現れる鳥居ということで、その存在感は抜群です。日光東照宮、八坂神社、これらの場所にある石鳥居と合わせて、日本三大石鳥居にも数えられるほどの鳥居なのが、この一の鳥居なのです。
1132【神奈川紀行】実は、鶴岡八幡宮に延びる大通りをさらに偉大に見せるための工夫が施されている『若宮大路』
前回は畠山重保の邸宅跡を紹介しましたが、この邸宅跡は鎌倉の鶴岡八幡宮へと続く大通りが若宮大路です。鎌倉が面する由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へと続く参道であり、鎌倉のメインストリートですよね。参道自体は1.8kmもの長さがあり、その途中に3つの鳥居があります。そして、鳥居を抜けた先にあるのがかの有名な鶴岡八幡宮なのですね。
1127【神奈川紀行】いよいよ鎌倉シリーズスタート!その第一弾は若宮大路 一の鳥居のそばにある『畠山重保邸跡・重保供養塔』
今回紹介するのは『畠山重保邸跡・重保供養塔』と呼ばれる場所。畠山重保?畠山重忠であれば、序盤から終盤にかけて物語の要所を固めた人物の一人でしたよね。しかし、でっちあげから始まった畠山重忠の乱によって一族は滅亡してしまうわけです。その畠山重忠の乱の際に、鎌倉の武士たちの謀略によって殺されてしまった畠山重忠の息子。その人物こそが畠山重保なのです。

加賀谷邸

加賀谷邸は神奈川県鎌倉市、長谷にある住居です。
江ノ島電鉄の長谷駅から徒歩で数分。
鎌倉最古の神社といわれている甘縄神明神社のすぐ目の前にあります。

この加賀谷邸なのですが、住宅街の中にありながらそのデザインがひときわ目を引きます。
この加賀谷邸がある地域は長谷の中でも旧市街地にあたります。
洋館のようでありながら、その中に端正な和風建築物の要素が見え、現在日本各地で新たに作られる建築物では見られない建物となっています。
それもそのはずで、この加賀谷邸が建てられたのは大正14年と、今から100年ほど前のこと。
当時としては、このような和風建築物と洋館をと組み合わせた住宅というものが流行したのだそうです。

その作りとしては、和風建築物ではあるものの、そこに洋館の部分を加えた造りとなっています。
洋館部分は天井が高い平屋建てとなっており、屋根の上部につけられた細部のデザインが特徴的となっています。
特にこの洋館部分が背の高い建物となっており、周囲の中でもひときわ目を引きます。
そのため、この地域のランドマークにもなっているのだとか。

そういった建築物であることから、鎌倉市景観重要建築物等に選ばれるほどの建物となっています。
この鎌倉市景観重要建築物等とは、鎌倉市の洋風建築物穂の損のための要綱が定められたうえで鎌倉市都市景観条例が施行されました。
その中で、鎌倉市の中でも明治から昭和の初めごろに建てられた洋風建築の数々が選ばれ、保存されるようになっています。
なお、鎌倉市景観重要建築物とは他には、鎌倉市長谷子ども会館や鎌倉文学館、白日堂、様々な邸宅が登録されており、その数は37か所となっています。
この中でも長谷子ども会館も元々は諸戸邸という住居であり、この諸戸邸を加賀谷邸は設計の際に参考にしたのではないかと言われています。

なお、この加賀谷邸なのですが、現在も住居として使用されていることもあり一般公開はされていません。
むしろ100年以上経った現在であっても、まだまだ住居として安定して使用されているということが悪露時の建築物でもありますね。

アクセス

江ノ島電鉄の長谷駅から北へ400mほどのところにあります。

加賀谷邸へ行ってみた

それでは、加賀谷邸へ行ってみましょう。

長谷駅から歩いていくと、小道の奥に甘縄神明神社が見えてきます。
鳥居の先の階段を上ると甘縄神明神社があります。
この鳥居の手前側に、気になる邸宅がありました。

こちらがその邸宅です。
現在工事中ではあるのですが、周囲の家とは全く趣が異なるこの家。
否が応でも目に入ります。
さて、この家は一体何なのでしょうか。

案内が立てられていました。
こちらは加賀谷邸といいます。
鎌倉市景観重要建築物等として選ばれていいる建物であるらしく、最初に建てられたのはなんと大正14年のことなのだそうです。
どうりで現代ではなかなか見られない趣の建物ですよね。

洋館のようでありながら和風建築のようでもある。
この造りは、明治大正期に住宅建築で流行したスタイルであるのだそうです。

残念なことに現在も住居として使われているため、一般に公開は行われていません。
そのため、内部の状態は見ることができないのですが、その外観だけでもこの地域の歴史を感じさせてくれる建物の一つなのです。

いかがだったでしょうか。
約100年ほど前の建築様式である加賀谷邸。
鎌倉の地ではなかなか他に見られない建物なので、ひときわ目立つ建物になっているのです。
1000年以上の甘縄神明神社の目の前にあり、近代様式を今に伝えるこの加賀谷邸。
様々な時代の移り変わりを、訪れる人に見せてくれているのです。