135【鳥取紀行】山陰の地で、いち早く造られた近世城郭『米子城』

百名城/続・百名城(Castle)
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今回は鳥取の米子にある米子城跡にについて紹介します。

現在は建造物に関しては全て取り払われているのですが、下のパンフレットの写真のように、メインである大天守と、その横にある小天守とが並ぶ、かなりの立派な近世城郭が存在していたようなのですね。

建造物は残っていないのですが、天守台や石垣などがかなり保存状態良く残されており、見ごたえのある城址でした。

米子市の北には、水木しげるロードで有名な境港市もあり、非常に見どころの多い地域ですよ。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 良好な状態で残されている城郭跡から、壮麗な2つの天守を想像してみよう。

鳥取県に関する記事です。

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米子城

米子城の成り立ちは、室町時代の応仁の乱の頃(1467年~1487年)に山名宗之により砦として築かれたことがその始まりといわれています。
その後、砦から石垣を備えた本格的な城へと整備され、近世城郭として戦国時代末期の天正19年(1591年)頃に、吉川広家が湊山を中心にして築城します。

ところが慶弔5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、城が七割ほど完成した段階で吉川広家は岩国に転封。その後駿河から伯耆18万石の領主へと入った中村一忠によって慶弔7年(1602年)頃完成したといわれています。
しかし、慶弔14年(1609年)に中村一忠が20歳で急死し中村家が断絶。

中村家の後、会見・汗入の領主の加藤貞泰、その後は因幡・伯耆の領主の池田由之へと城主がかわります。
江戸幕府による一国一城令が発布されるものの、例外として米子城は保存されることとなり、寛永9年(1632年)からは、鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城預かりとなり、以後11代にわたって荒尾氏が預かり管理をしました。

中海沿いにある標高約90mの湊山頂上付近に、重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)の天守を構え、北の内膳丸、東の飯山を出丸として配し、湊山ふもとには二の丸・三の丸、それらを中海から水を引きこんだ二重の堀で囲まれた構造となっていました。
当時の米子城は、「山陰随一の名城」とも呼ばれる壮麗な城であったそうです。

明治維新後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在もその姿をとどめています。
天守跡からは中海や日本海、市街地を一望できる好立地であり、この地に米子城が残され続けてきた理由がよくわかります。

アクセス

JR米子駅から徒歩15分もしくは、湊山公園バス停下車後徒歩5分。
登山口から山頂の本丸跡までは約15~20分かかります。

米子城に行ってみた

それでは米子城を登頂してみたいと思います。

登山口

駐車場に車を停めると、登山入り口が見えてきます。

まあまあの山城ですので、軽装での登山は控えましょう。

それでは登っていきたいと思います。

このような登りが続いていきます。

途中にはお地蔵さんがある場所が何か所かありました。

道はそこそこ整備されているので、登りやすい道にはなっています。

15~20分ほど登っていくと、石垣が見えてきました。
かなり良好な状態で残されていますね。

水出御門

いよいよ本丸跡に入っていきます。
水出御門につきました。もともとは中海へと張り出している郭に通じる門であったそうです。

本丸跡

本丸跡に入っていきます。

山頂の本丸跡にはこのような休憩所が用意されています。

こちらにスタンプがあるので押し忘れないように。

米子城の立地が確認できます。
日本海側に配される城としては、四方がよく見えるかなりベストな立地ですね。

この先は小天守(四重櫓)があったところですね。

天守台

天守台から番所跡を見下ろしたところです。

天守台です。
礎石跡などが良好な状態で残されています。

本丸跡から四方を眺めます。
かなりの眺望であり、この地を治めるには絶好の場所だったのでしょうね。

石垣も保存状態が良く残っています。

遠見櫓跡

遠見櫓跡地です。
その名の通り、監視の役割を持っていたのでしょうか。

遠見櫓から見上げる天守台もかなりの迫力があります。

それでは、下山していきます。

内膳丸

内膳丸とは、丸山に築かれた郭です。
子の郭から本丸に向けて登り石垣が築かれ、米子城の中海側の防衛線が設けられていたそうです。

いかがだったでしょうか。
続日本百名城に登録された城ということで、これから徐々に注目が増えていく城址だと思います。
建造物は残っていませんが、石垣や郭の跡など、往年の姿を存分に想像させてくれる場所ですね。
近隣には百名城の松江城や月山富田城などもあり、このあたりをセットで回るといいかもしれませんね。