142【静岡紀行】ここをどのように攻めるのか!?障子堀・畝堀に囲まれた名城『山中城』

百名城/続・百名城(Castle)
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今回は、静岡県にある北条氏の山城、『山中城』を紹介します。

日本百名城は一冊の書籍にまとめられているのですが、それを順番に見ていくと、この山中城には必ずと言っていいほど目が留まると思います。

アイキャッチの画像を見ていただいて、どうでしょうか?
まるでワッフルのように掘られた堀が目に入ります。
ここまで、徹底的に掘られた堀に囲まれた山城、気になりますよね??

この独特の堀の形状ですが、もちろんただのデザインではなく、襲い掛かって来る敵に対しては非常に効果的なものなのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 土塁好きにはたまらない、山頂にある戦国末期の山城。まるでマ〇オのコースのような。

日本百名城ピックアップ記事その②でも山中城は取り上げました。

1173【静岡紀行】掛川城に残る現存御殿の一つ『掛川城 二の丸御殿』
掛川城。天守自体も有名ではあるのですが、それを上回るほどの見どころがまだあるのです。掛川城の主要な建物の数々は、江戸時代後期、幕末の時代にこの地域を襲った大震災によって壊滅的な被害を受けてしまいます。しかし、さすがに政務を行っていた御殿はすぐに再建せざるを得なかったようです。そのため、震災から数年後には御殿は再建されており、その御殿が現在にまで残っています。
1171【静岡紀行】現存天守ではないが、日本初の本格木造天守としてよみがえった『掛川城』
今回紹介しているのは、静岡県にある掛川城です。掛川城といえば元々は、静岡に強固な地位を築いていた今川氏の拠点だった城です。そんな掛川城でしたが、今川氏真の時代に徳川家康が落とし、家康の支配下にはいった城なのでした。 豊臣秀吉の時代には江戸へと移され、この地域には徳川家康の影響下ではなくなります。しかし、後に江戸時代になると再び徳川に近い大名が入り明治の時代まで続くこととなります。
1146【神奈川紀行】一夜城として有名。小田原城を見下ろす、豊臣秀吉の天下統一につながった城『石垣山城』
秀吉は総力戦でこの北条氏包囲網を形成します。最終的には北条氏を追い詰め、その居城であった小田原城を開城させますが、その最後の決め手となったのが、とある城の存在だといいます。その城の名は石垣山城といいます。
1128【静岡紀行】その天守台の巨大さからは、ここに日本最大の店主があったのではないかとも想定されるほどの城『駿府城』
徳川家康が晩年を過ごしたとされるこの駿府城には、かつて天守が建っていたとされています。そして、近年その天守が建っていた天守台が発掘されているのですが、その規模が日本でも最大級のものとして話題になっているのです。幕府のある江戸にあった最大の城が江戸城でした。しかし、それに匹敵するかそれ以上だったと考えられているのが駿府城の天守なのです。
113【ピックアップ】日本百名城・続日本百名城 こだわりのお城ピックアップ5選②
日本にはまだまだ数多くの城や城跡があります。行ってみて初めてその広大さや特色に気づき、強烈に印象付けられる城もたくさんあります。今回は、そんな自分が訪問した百名城・続百名城の中で、後々まで印象が残っているところを5つピックアップしました。

山中城

山中城の歴史

山中城は、文献によると、小田原に本城をおいた北条氏によって、永禄年間(1558~1570)に小田原を防衛するために築城したと伝えられる中世最末期の山城です。
箱根山西麓の標高580mに位置するため、その立地そのものが自然の要害に囲まれた山城であり、西方からやってくる敵を防ぐため重要視されていました。
しかし、天下統一を目指す豊臣秀吉の小田原征伐(1589年)に備え、急ピッチで西の丸や出丸等の増築を始めます。
しかし結果的には間に合わず、17倍もの兵力を要した豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に、たった一日で落城したのだそうです。
後に説明しますが、写真を見た様子では難攻不落な城の様相を見せるのですが、意外な結末ですね。

山中城跡なのですが、昭和48年から発掘調査が始まり、発掘調査による学術資料に基づき、史跡公園として三島氏が環境整備を進めました。
発掘調査に基づいて、戦国末期の山城の規模や構造が明らかになり、本丸や曲輪、架橋や土橋、池の配置の様子もわかってきました。
そして山中城の特徴である、障子堀や畝堀について、特徴的な畝の形によって敵兵を足を止め、一網打尽を目ざす北条氏の築城術を示すものとして知られています。

アクセス

JR三島駅からバスで約30分。
また、三島駅から徒歩でも3時間程です。

山中城へ行ってみた

それでは山中城跡に行ってみましょう。

三の丸堀

山中城跡は順路がしっかりと整備されているので、順番に見ていくことができます。
最初は三の丸に向かう三の丸堀を横切ります。
三の丸跡には現在宗閑寺が建てられており、こちらの寺は順路の一番最後で訪れることになります。

三の丸堀は、元々自然の谷だったところを利用して堀が設けられています。

そこから先に進むと田尻の池が配置されています。
こちらの池からの排水のためにも三の丸堀は活用されていたのだそうです。

元西櫓下の堀

さらに二の丸方面に進むと、元西櫓下の堀が見えてきます。
このあたりは、敵の進入を防ぐために、土地を深く掘り下げられたところになります。
掘った後の土は、曲輪の中での土地の造成や、土塁として活用されていました。

西の丸

二の丸からさらに進むと西の丸に到着します。
そこまでの道程で見ることができる光景ですが、マ〇オのコースのような雰囲気もありませんか?w
かなり広大な面積の曲輪になっており、重要だった西方防御の拠点だったとこです。

なお、西の丸跡からは建造物の遺構が見つかっておらず、臨時で立てられた小屋程度があったにとどまっていたのだろうといわれています。

西の丸見張台から見た光景です。
何よりも西方からの敵襲に備えなければいけない山中城。
城の守りのための連絡や通報のためには、この西端にある見張り台が何よりも重要な場所だったのでしょう。

西の丸畝堀

上の写真の特徴的な堀が畝堀と呼ばれています。
西の丸内部に敵が侵入することを防ぐため、西の丸周辺は畝堀で囲まれています。
畝を高さは2m、堀の底から曲輪の中までは9m近くの高さがあります。
また、現在は遺構保護のため芝生や樹木が植えられていますが、戦国期当時は、現在よりもすべりやすいローム層が露出していた堀だったといわれています。
そのため、一度堀底へ入ってしまうとなかなか這い上がることができず、ぐずぐずしているうちに上から攻撃されて命を落としてしまうという、恐ろしい堀の形状ですね。

障子堀

そしてもう一つ特徴的な堀の形状が障子堀です。
畝をワッフルのように区画して堀残しています。
畝堀同様、敵の進入を阻むものとして効果的な作りですが、一部の堀は水堀や用水池としても活用されるなど特徴的な作りになっていたようです。

西櫓堀

西の丸の突き出しには西櫓が造られ、その周囲に土塁と堀を巡らしています。
守りや攻撃の起点としてこの西櫓が活用されていたそうです。

西櫓を囲む堀は、畝堀になっており、畝の傾斜が50~60度と非常な急傾斜になっており、400年前当時であれば、その高さとローム層とが相まって、人間が一旦落ちれば脱出することが不可能であっただろうといわれています。

西櫓の曲輪を囲む堀には、西櫓へ渡る橋がかけられていたのではないかと推定されています。

西の丸障子堀

西櫓と西の丸の間には、中央に太い畝を置いた障子堀の堀によって囲われています。

溜池

この溜池には、雨水が集められる仕組みになっていたようです。
山城では命をつなぐ飲料水の確保が難しく、どのようにして水を確保するかが生命線であったため、山中城には、水を確保するための水堀・用水池・井戸等の設備が非常に考えられて設置されています。

本丸堀・北の丸堀

本丸を囲う堀も畝堀として作られており、用水池も兼ねることで水の確保を可能にしていたのだそうです。

北の丸を守る堀として、かなり深く掘られ、堅固な土塁が築かれていたとされています。
石を用いず、土塁としてこれだけ急な堀を構築する技術は特筆するべきものであるそうです。

上から見てもかなり急であることが分かります。
侵入する側からすると恐ろしい造りですね。

架橋

本丸と北の丸とを結ぶ架橋として、木製の橋が復元されています。
山中城では盛られた土で作られた土橋が多いのですが、本丸などの重要な曲輪には木製の橋もかけられていたようです。
木製橋の利点は、簡単に壊すことができることであり、戦いの状況に応じて敵兵が曲輪に渡れなくするように橋を破壊するということも戦況に応じて行われていたようです。

天守櫓跡

天守櫓の跡とされています。
山中城の中で最も高地にあります。

兵糧庫跡

ここは兵糧庫や弾薬庫といわれていた場所です。
柱跡が確認されており、どのような位置に建物が築かれていたかが推測できるようになっています。
この力は、硯や甲冑片、陶器なども出土しているそうです。

本丸堀と櫓台

本丸と二の丸との間の本丸西堀は土橋によって結ばれています。

本丸堀は、今でもかなりの高さがある急峻な堀になっています。

二の丸虎口と架橋

山中城最大の二の丸と西の丸、三の丸からの通路の連結部になります。

元西櫓

元西櫓という曲輪です。
小さな曲輪ですが、雨水の排水や地下水の上昇を抑えるなどの役割を持った施設と考えられているそうです。

宗閑寺

豊臣秀吉による小田原征伐時、北条方の将であった松田康長・間宮康俊、そして豊臣方だった一柳直末の墓は、三の丸跡の宗閑寺の境内に置かれています。

いかがだったでしょうか。
かなりきちんと整備されているため、全て見て回るためにはけっこう時間を要します。
また山城ですので、公園内の高低差もけっこうあるため、軽装でいくことは避けたほうがよさそうです。
ひときわ目を惹く造りをした山中城ですが、実際に行ってみると、土塁だけでかためられた、戦うための城という点がひときわ感じられたように思います。