176【大阪紀行】最後は、畿内の有力大名だった三好家の居城『飯盛城』

百名城/続・百名城(Castle)
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三好政権をご存じでしょうか。
かの有名な戦国の三英傑である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が、天下を統一していったことは有名ですが、実は信長よりも前に天下を取った天下人がいたのです。

その人物は、三好長慶であり、三英傑よりも数十年前に天下を取ったということなのです。
そんな三好長慶が拠点とした城が今回紹介する飯盛城です。

政権という言葉の通り、その時代の中心となった人物が居を構えていた地なのですが、実際地元大阪に住んでいる人々にとっても、あまり多くは知られていない城なのです。
はたして三英傑より先に天下を取っていた三好政権とは?
また、飯盛城とはどのような城なのか?

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 時代の中心だった城だが、現在はひっそりと隠されているように残る、大規模山上城郭跡。

飯盛山からすぐ南にある、旧生駒トンネルについての記事です。

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大阪についての記事です。

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飯盛城

飯盛城跡は大阪の四条畷市と大東氏にかかる飯盛山山頂にある山城跡です。
2017年に続日本100名城の1つに選ばれています。
南北約650m×東西約400mの規模をほこる大阪府か最大の山城である飯盛城は、戦国時代末期に実質的に幕府を制した三好長慶の居城であり、時代の中心に合った城だったのです。

現在では、多くの曲輪や堀切、石垣の跡などが確認できます。

飯盛城は、三好長慶の居城であった城跡です。
時は室町時代後期。
13代将軍足利義輝を1549年に京都から追い出し、実質政治の実権を握った人物が三好長慶であり、その政権が三好政権と呼ばれています。
長慶最盛期に居城とした城が飯盛城であり、その勢力は、現在の大阪・京都・奈良・兵庫そして、淡路や徳島にまで及んでいたようです。

しかし、相次ぐ肉親の死によって、晩年は精神不安定な様子が見られ、やがて病死してしまいます。
その後は、家臣であった松永久秀などによって、三好政権は支えられていくのですが、残念ながら、内部から瓦解していきます。
そして時代は、15代将軍足方義昭とともに京都に入った織田信長によって、天下統一が成し遂げられていくのでした。

アクセス

電車利用の場合は、四条畷駅から徒歩約100分、野崎駅から徒歩約90分。どちらも登りが続きます。
バスの場合は、住道駅発・生駒登山口行きバスで、「竜間」バス停下車徒歩約40分です。

飯盛城址へ行ってみた

それでは飯盛城跡に行ってみましょう。

楠公寺までは車・バイクで行くことができます。
ここまでくれば飯盛城跡までは簡単に行くことができます。
この楠公寺は、飯盛城の馬場と呼ばれる広い郭跡内に1950年に建立されました。
すでにこのあたりは、元々の飯盛城跡の中なのです。

堀切跡に差し掛かったあたりです。
堀切と葉、尾根を切断して、防御用に構えられたものです。

山頂からの羨望はなかなかのものです。
大阪平野はもちろん、明石海峡大橋や淡路島、四国まで見えることもあるそうです。

楠木正行像です。
飯盛山山麓の四条畷合戦で戦死したと言われています。

山頂に建てられている飯森城址の石碑です。

戦時中に造られた防空監視所跡だそうです。
一部が残されていますが、なかなか不気味なたたずまいです。

尾根筋には石垣が見えています。
階段状に備えれた曲輪群の石垣は何層にも重なって造られています。

こちらもよくみると石垣が見えますね。

こちらはけっこうきれいに残っています。

こちらは展望台です。

展望台には、飯森山上の紹介資料や、マップが掲示されていました。
スタンプはこちらではなく、大東市立野外活動センターにあります。

飯盛城の構造についての解説もありました。

かなりうっそうとした城跡です。
時期的なものなのでそうでしょうが、あまり手入れが為されていないような感じもしました。

最悪なことにスタンプを押すときにミスってしまいました…。
軽く凹みました。

いいかがだったでしょうか。
自分も、続日本百名城に選定されたことによってこの飯盛城を知ることができました。
そして実際に訪れてみると、これだけ歴史の中心的な役割を果たしてきた城址が、このような場所にあるのかということに驚きを感じました。
やはり歴史は勝者の歴史によって紡がれていきます。
そのため、後の三英傑である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が華々しく歴史に名を残している反面、その陰に隠れてしまっているのではないでしょうか。
しかし、その分、城跡を見に行くと、往年の城の造りや、長い年月をかけて風化してきた様子なども見ることができるため、しっかりと手入れされて観光地として整備された城跡にはない良さもあったりします。
こういった新たな発見があることが、百名城巡りの醍醐味ですね。