兵庫県丹波篠山市にある、篠山城城下町には、江戸時代に造られた築200年の武家屋敷群が残されています。
これらの武家屋敷群は、御徒士町武家屋敷群として、一般公開されています。
徒士とは江戸時代にあった武士に中でも、徒歩で戦っていた下級武士の一身分のことで、その徒士だった人々の屋敷跡なのです。
現在でも引き続き住み続けている家もあったりするなど、その保存状態も良好であり一見の価値ありなスポットです。
というわけで、今回のわきみちは、
丹波篠山周辺の記事です。





篠山城
篠山城は1609年に徳川家康によって築かれた城です。
豊臣氏をはじめ、西国の大名を抑制・監視する城として、山陰道の要衝、丹波篠山盆地中心部の丘陵に築かれました。
築城の名手と言われた藤堂高虎によって縄張を担当した名城でした。
天下普請(※江戸幕府が全国の諸大名に命令し、土木工事を行わせること。)によって、15か国20の大名の助役によってたった6ヶ月という短期間で築城されました。
その後は、篠山藩の藩庁として明治期まで活用されていました。
今回紹介している御徒士町武家屋敷群は、篠山城が築城された際に、城の西側の外堀の堀端道に平行して造られた南北の通りの両側に従士が住んでいた地域です。

御徒士町武家屋敷群
篠山城が完成したと同時に篠山城下の町割が行われました。
今回紹介している御徒士町もその時に形成され城の西側の外濠にそって南北の通りを通し、その両側に徒士(※ 江戸時代の下級武士の一身分。)の屋敷が建てられました。
しかしその後、天保元年(1830)に火災が発生し、そのほとんど消失しました。
現在残っている十数戸の武家屋敷は、その火災後ほどなくして建てられたものです。
アクセス
JR宝塚線「篠山口駅」から、バスで約15分「二階町」下車で、徒歩5分です。
御徒士町武家屋敷群へ行ってみた
それでは、御徒士町武家屋敷群に行ってみたいと思います。

上の写真が篠山城城下町の地図になります。
中央部に篠山城跡(現在は大書院が再建されています。)があり、それを囲うように内濠と外濠があります。
その外濠の西側の通り沿いにあるのが、今回紹介している御徒士町武家屋敷群になります。


通りに着くと、さっそく武家屋敷群が見えてきました。
茅葺屋根が特徴的です。

こちらはまだ住居として利用されているようでした。
武家屋敷安間家資料館

立ち並ぶ武家屋敷群の中で、旧安間家武家屋敷が現在は史料館として一般公開されています。
安間家武家屋敷は、慶長14年(1609)に築城された篠山城の御徒士町通りの一角にあり、安間家として受けつがれました。
安間家から篠山市に寄贈された武家屋敷を、その後復元して、1995年より資料館として現在まで活用されています。


中庭を抜け、屋敷内に入っていきます。
内部が資料館として運営されています。

手燭といい、ろうそくを立てて持ち運ぶことができる燭台です。

記念スタンプもありました。
百名城スタンプとは違います。

当時の戸棚も内部が見えるように公開されています。

漆塗りの食器です。

左側は陶器製の湯たんぽですね。
右側は、定温器という常温に保つ装置だそうです。

小さな食器セットです。
お祝いの席で使うのか、子ども用なのか、ですね。



土間と台所、そして竈があります。
いつも思いますが、当時の炊事は大変ですね。

篠山藩士の中山家に伝来の、紺糸縅素掛海老胴具足が飾られています。

こちらも中川家伝来の、江戸時代後期の内裏雛です。
中川家からかなりの品が寄贈されているようです。

玄関上になぎなた等が置かれています。
時代劇などではよく見かける光景です。

稲畑人形と呼ばれる、丹波篠山市の稲畑という地で造られている人形だそうです。
その地の良質な粘土と、丹波霧と呼ばれる気候条件に恵まれたことから生み出された民芸品です。

絹本著色布袋唐子図です。



武士の接客に使われた什器類や膳椀類の展示です。
盃台と汁椀などの展示です。

江戸時代の二十四間筋兜です。

篠山城城郭の絵図です。
現在と基本的な形は変わっていません。



水琴窟です。
柄杓で水を左下の黒井石の上から流すと、水琴窟の音色を聞くことができます。


離れにある蔵の中も展示室となっています。

いかがだったでしょうか。
江戸期の武家屋敷跡がかなり保存状態良く残されていました。
近隣には竹田城や生野銀山など、目立つ観光地が多いためか、なかなか目が向けられにくいところもありますが、ゆっくりと当時の城下町を見て回ることができるスポットですよ。