212【島根紀行】一国一城令後に築かれた、数少ない城郭の一つ『浜田城』

百名城/続・百名城(Castle)
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島根県の中央より東寄りの日本海岸にある浜田市
何の町?といわれると、島根県内最大の漁獲高である浜田漁港や、中四国地方最大級の水族館『しまね海洋館アクアス』などもあるのですが、大多数はあまりパッとでてこないでしょう。
さらには、日本初の缶コーヒーである『ミラ・コーヒー』を作った三浦義武氏が経営していた喫茶店『ヨシタケ』が、浜田市の紺屋町にあったのですが、これもなかなか知っている人はいないかもしれません。

しかし、江戸時代には瀬戸内地域から北陸地域を結ぶ西回り航路の中継地として、大変賑わった漁港だったのです。
そんな浜田市には、日本海松原湾を眼前に見下ろす山城『浜田城跡』が、今もなお立派な石垣と共に、丘陵地帯の上に築かれています。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 城跡と眼前の海との眺めが一体となった景勝地。幕末の第二次長州征伐によって炎とともに消えた城跡へ行ってみよう。

島根の名城『松江城』の記事です。

226【島根紀行】地元の人々の力で解体を免れた、近世平山城の現存天守『松江城』
今回は現存天守 松江城について紹介していきたいと思います。松江城は、明治時代の廃城令によって取り壊される寸前の状態になりますが、後世のために残そうと、多くの人々の尽力により、解体を免れ、現在もその荘厳な姿を残し続けています。

第二次長州征伐で対峙した長州藩(萩藩)の萩の町について書いた記事です。

120【山口紀行】よくこれだけの小さなエリアにつめこんだものだ…『萩城下町』
山口県の萩。そこにある萩城と萩城下町。この小さな町になぜこれだけたくさんの名所や歴史的な人物が関係しているのか。世界遺産にも登録されている萩城下町は、見て回れば回るほど興味がわいてくる城下町です。ぶらぶらと歩いて、そのたくさんの遺構を巡ってみましょう。

浜田城

浜田城は、浜田市の日本海松原湾に面した標高67mの独立型丘陵上に築かれた平山城です。
浜田城は平山城であるとともに、海城とも呼ばれ、海上交通の中継地として、海上交通を重視した城でした。
海上からは三重の天守を望むことができる形で築城されており、素晴らしい眺めであったといいます。

元和5年(1619)に伊勢松坂城主(三重県)であった古田重治が、大坂の陣の功によって5万5千余石のこの地に転封となり、城下町や藩政の基礎を築いきました。
翌年2月に築城に着工し、元和9年(1623)5月には城や城下町が整いました。
元和元年(1615)の一国一城令以降に新たに築城したのは、浜田城をはじめ、明石城、福山城などわずかしかありませんでした。

本丸は丘陵の頂上部にあり、約60m×50mの敷地内北西の隅に三重の天守が建てられており、これが実質的には浜田城の天守の役割を担っていました。
本丸から南に向かって、城山の中腹に二丸、山麓に三丸があり、周辺は石垣で固めらら、三丸から山頂の本丸までの石垣のすべてには塀を廻らせられていました。

浜田城の城主は、
・古田家(2代)
・松平周防守家(5代)
・本多家(3代)
・松平周防守家(4代)
・松平右近将監家(4代)
と合計18代250年の間にめまぐるしく城主が入れ替わりました。

そんな浜田城でしたが、慶応2年(1866)に第二次長州征伐 石洲口の戦いで大村益次郎率いる長州勢に幕府軍が大敗を期したため、城主であった松平武聡は退城し、浜田城は浜田の町と共には焼き払われ、灰燼に帰しました。
松平武聡は松江城に逃れ、後に美作国内に鶴田藩を興し、明治初期まで存在していました。
こして、浜田城は近世城郭としての歴史を終え、浜田藩はその後長州藩によって占領されることとなります。

アクセス

JR浜田駅から徒歩20分もしくは、バス停「城山公園前」下車後徒歩5分で到着します。

浜田城に行ってみた

それでは浜田城に行ってみましょう。

今回は、濱田護国神社側から入るのではなく、城跡の西側を道なりに入っていくこととしました。
後々分かったのですが、このルートで入ると山道を通常より長く歩かなければならないため、どちらかというとハイキングルートでした。

600~700mほど山道を進んでいきます。

だんだんと石垣が見えてきました。

終盤です。
もうすぐ本丸に到着します。

本丸

この階段を登ると本丸です。
本丸は約2700㎡あり、その周囲には高い石垣が築かれたとともに塀が廻らせられていました。
塀には狭間が79箇所あり、鉄砲や弓矢で外から襲い掛かってくる敵に対して射かけることができるようになっていました。

本丸への出入り口は一ノ門ただ一つだけでした。
本丸内の建物は、門の右横に接していた六間長屋と呼ばれる倉庫のような建物、弾丸を収納していた玉蔵、さらに本丸左奥には三重の天守がありました。

外の浦の湊

正面に見える深く入り組んだ入り江が外ノ浦です。
この入江は、天然の地形を利用した風待港で、江戸時代の西廻り航路が整備された1672年以降、瀬戸内方面と北陸方面とを結ぶ中継地点として、諸国の廻船が多く入港する浜田藩最大の物流拠点でした。
停泊場所位立ち並んでいた廻船問屋には、米・塩・砂糖・種油などが荷揚げされ、麻糸の原料や干鰯・銑鉄・半紙・塩鯖・焼き物などの地元の特産品が積出しされていました。

三重櫓(浜田城天守)

天守は本丸の北の隅に建てられていました。
天守は三重櫓として建てられていたのですが、実質的な浜田城の天守であり、高さが約15mありました。

二ノ門

正面の石垣と通路を挟んだ左側の石垣(現在は土塁となっている)との間に二ノ門がありました。

二ノ門の造りは、階下には門があり、その上には長屋を載せた櫓門でした。
この門をくぐった先には高い石垣で方形に囲まれた空間があり、敵の侵入があったとしても、直進することができず進路を阻む枡形虎口構造となっています。
浜田城では本丸正面に位置する二ノ門にだけこのような構造を採用しており、城郭の中でもかなり重要な門であったと考えられています。

三丸と出丸石垣

ここは出丸と呼ばれる曲輪の石垣があったところが明治期に撤去され、階段が整備されたために石垣の裏込め石が露出しています。
そのため当時は、正面には高い石垣があったために直進できず、背後にある二ノ門へ向かうルートしか城内に入るルートはありませんでした。

また背後にある階段を登ると三丸と呼ばれる曲輪であり、三丸から山頂の本丸までの石垣のすべてには塀を廻らせ、三丸から山麓の中ノ門までは塀は設けられておらず、周囲からよく見える山頂部周辺の身に塀を廻らせて、あえて周辺からその姿が見えるようにしていたのだそうです。

出丸

浜田城の出丸は、本丸、二丸、三丸と呼ばれていた曲輪から、西側にだけ突き出した形で配置されています。

浜田県庁の門

一通り廻り、大きめの階段を下っていきます。

するとその先に大きな門が見えてきました。
この門は、元々は津和野城の門だったのですが、明治3年の浜田県設置に伴い、県庁舎として明治4年に門を含む大広間などの建物が現在の浜田局の地に移されています。
したがって、浜田城に元来あった門ではなく、置かれている場所も本来は門のない位置に置かれているのだそうです。

しかし、この門は、浜田県が島根県に合併されたのちも、役所などの正門として役割を担い、昭和41年の浜田合同庁舎移転まで活用されていました。
その後、昭和42年に島根県から浜田市に譲渡・移築され、現在に至っています。

そして、おそらく城目的ではほとんどの人がこちらから登城を開始するであろうスタート地点に、一周まわって到着しました。

濱田護國神社

ほとんどの方は、この濱田護国神社から城巡りを開始することになるでしょう。
こちらは、明治維新後の国難に殉じた戦没者である約2万3千柱を祀る護國神社です。

濱田護國神社の社務所に続日本百名城スタンプがありますので、お忘れのないよう。

いかがだったでしょうか。
島根県というと、松江城や津和野城、石見銀山などいろいろと見どころも多いですが、それらのちょうど中間に位置するこの浜田城も、歴史の要所としてこの地に存在した名城です。
ぜひ島根観光の折には、浜田の地にまで足を延ばしてみませんか。