これまでにも何度か紹介してきました山口県萩の町。
ここにはまだまだ紹介しきれないほどの見どころがあります。
今回紹介するにあたって欠かせない人物が“伊藤博文”と”吉田松陰”です。
幕末から明治に渡って時代の変革期に名を遺した人物を多数輩出している萩の地には、伊藤博文が暮らしていた旧宅や別宅、吉田松陰が生誕した地、そして名だたる人物たちが眠る墓所などがあります。
今回はこれらの場所をピックアップし、紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
山口県萩市に関する記事です。




伊藤博文旧宅

伊藤博文の旧邸は、以前紹介した松下村塾跡のある松陰神社から南に100mほどのところにあります。
木造で萱葺き屋根を持つ平屋建ての小さな居宅が伊藤博文旧宅です。
安政元年(1854)に博文の父林十蔵が伊藤直右衛門の養子となり、博文を含めて一家で伊藤家のこの居宅に居住することになったのだそうです。

敷地内には伊藤博文の立像も立っていました。
伊藤博文別邸
次はその隣にある伊藤博文別邸です。
こちらの写真は車中から撮影したため、多少見づらくなっています。


旧宅の隣には、対照的な立派な建物がある建てられています。
こちらは伊藤博文の別邸であり、博文が晩年を過ごした邸宅です。
もともとは東京大井町に建てられていた邸宅なのだそうですが、明治40年(1907)に萩のこの場所に移築されました。
ただし、すべてが移築されているのではなく、萩に現在残っているのは一部なのだそうです。
東京にあったときは、それはそれは広大な邸宅だったそうですよ。
内部は樹齢約1000年の吉野杉を使った大広間の鏡天井や、離れ座敷の節天井など、かなり贅沢な装飾になっているようであり、隣にある旧宅と比較することで、晩年の伊藤博文がどれだけ力をもっていたかがわかるような気がしました。
吉田松陰誕生の地
伊藤博文の旧宅・別邸から東に500mほど行った小高い丘の上には、吉田松陰誕生の地があります。



吉田松陰誕生の地は、吉田松陰の実家であった萩藩士 杉家(家禄26石)の旧宅地です。
城下町が一望できる団子岩と呼ばれる高台の上にあります。
吉田松陰は、天保元年(1830) の8月4日にここに生まれ、 嘉永元年(1848)に杉家が転居するまで居住していた場所です。
松陰が19歳までの人間としての形成期を過ごし、ここでは、主に農耕に従事したり合間に漢籍(中国で著された書籍)の素読などを父であった杉百合之介から受けました。



旧宅の間取りは非常に狭く簡素な作りです。
杉家が転居した後は、誰が住むでもなく荒れ果てていたのですが、約70年後の大正11年に整備され、当時の間取りを示している敷石も復元されました。

誕生地そばに、吉田松陰・金子重輔の銅像があります。
若い二人が海外への密航を企て、下田の海岸でペリー艦隊を眺めている様子を表しています。
吉田松陰の墓及び墓所

吉田松陰の生誕地のすぐそばには、吉田松陰とその家族、そして門下生が眠る墓所があります。
吉田松陰の墓をはじめ吉田家当主の墓や杉家の墓、門下生であった高杉晋作、久坂玄瑞の墓などがあります。
吉田松陰が亡くなった後、杉家では百ヵ忌が営まれ、この墓所に故人の遺髪が埋葬され、墓碑が建立されました。



いかがだったでしょうか。
これまでに紹介してきた萩城下町の様子や、松下村塾と松陰神社、萩反射炉の記事などと合わせて読んでいただけると、いかにこの小さなエリアの中に、歴史に名を遺す人々の足跡が見られるかがわかるかと思います。
じっくり見るのには1日では足りない町ですね。