219【大阪紀行】天下の台所から大大阪時代を経て、次はどこに向かって行くのか『大阪歴史博物館』

近畿地方(Kinki)
この記事は約10分で読めます。

西日本の中心都市大阪。
この大阪は、長く経済に中心地として、東の東京よりも人もお金も集まる時代もあったのです。
その歴史は古く、古代7世紀の大化の改新の時代の直後に都がおかれていたり、戦国時代には寺社を中心とした町が築かれていたなど、長い歴史が積み重ねられた町なのです。

そして、大阪といえば思い浮かぶ人物は、豊臣秀吉ではないでしょうか。
しかし、豊臣秀吉が今の大阪の町の基礎を造ったと考えられていますが、実はそうではないのです。
今の大阪の基礎は江戸時代に、江戸幕府の直轄領となり、幕府の手によって近代大阪の基礎が築き上げられていったのです。

その後は、大大阪時代と言われるように、日本の経済の中心であり、人も物のも集まる大都市へと成長していきました。

ところが近年、大阪はその舵取りが迷走しており、大大阪時代が過去の夢のようになってしまっています。
だからこそ、今こそしっかりと歴史に学び、大阪を再び前に進めていくためには何が必要なのかを、ここから考えることが必要なのかもしれませんね。
大阪の歴史をしっかりと学ぶことができる大阪歴史博物館が、大阪の中心にある大阪城を見つめる場所にあるのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 歴史の学習は、過去を学ぶことから未来を予想する力を身に付けること。今一度、博物館の役割を見つめなおし、前に進む力に結び付けていきませんか。

大阪の歴史の一つ、真田丸で有名な真田幸村の記事です。

008 【大阪紀行】三光神社の真田の抜け穴から大阪城への逆ルートを辿ろうとする
大阪にはかの有名な大坂の陣跡がいたるところに残されています。大河ドラマでも有名な真田丸。そして、その絡みで有名なとある神社を紹介します。
075【和歌山紀行】『真田丸』400年前、真田幸村が蟄居されていた九度山を巡る
1600年の関ヶ原の戦いで敗北した西軍。その西軍の中で活躍した真田幸村。関ヶ原の戦いの後に高野山 九度山に幽閉されることとなりますが、2016年の大河ドラマ『真田丸』を機に、その知名度は向上。そして九度山後も注目されることとなりました。

大阪歴史博物館

大阪歴史博物館は、大阪市中央区にある博物館です。
NHK大阪放送局の建物に隣接して建てられています。
以前は、大阪城のそばにある旧陸軍第四師団司令部庁舎(現ミライザ大阪城)にあった大阪市立博物館が前身となっています。
現在の難波宮跡公園の北西の場所には、2001年に移転して開館しました。

1階からエレベーターにのり10階まで上がり、そこから階下に降りながら見学をしていく構造になっています。
奈良時代の大阪「難波宮」のフロアから、安土桃山・江戸時代を経て、近代の大阪
6階には特別展示階があり、定期的に特別展が行われています。

また、館内には地下の難波宮遺構を見ることができ、ガイドツアーを通して見学をすることができます。

アクセス

大阪メトロ谷町線・中央線 谷町四丁目駅を地上に上がり、徒歩ですぐ到着します。

大阪歴史博物館へ行ってきた

それでは大阪歴史博物館ツアーに行ってみましょう。
歴史博物館に入ると、1階から10階まで直通のエレベーターに乗り、10階まで移動します。
そこから歴史博物館ツアーの開始です。

古代大坂

最初は奈良時代の大阪です。
この時代、大阪にあった難波宮が中心の展示となります。
難波宮の大極殿がこのフロアには再現されています。

歴史博物館は難波宮敷地内に建てられています。
また、博物館の南東には、発掘された難波宮跡の公園が整備されています。

奈良時代当時の難波宮の模型がありました。

難波宮は奈良の平城京から遷都され、また再度都が平城京に戻されたりなど、歴史の中心の一部を担っていた都なのです。
当時は今の大阪市とは異なり、現在では大阪市の中心にある難波宮のすぐそばまで海が入り込んでいました。
大阪市の高台である上町台地の先端に建てられていた歴史ある都なのです。

現在の大阪市は、長い間かつてはそのほとんどが海の底だったのです。
南から北に延びる上町台地だけが会場から顔を出している形だし、西を大阪湾、東を今は無き河内湾に囲まれていた土地でした。
そんな河内湾ですが、北東の淀川から流れされてきて堆積した土砂や、人の手による埋め立てを繰り返し、現在の大阪市のような大阪平野が誕生したのです。

この上町台地の先端の大阪平野の中でも高台にある場所に、難波宮をはじめ石山本願寺や大阪城、四天王寺といった歴史ある建造物が建てられたのです。

石山本願寺の時代の大坂

室町時代、戦国時代の大阪を治めていたのは石山本願寺の仏教勢力でした。
この石山本願寺の門前町であったのが大坂の地だったのです。
写真の僧は、この石山本願寺で力を誇っていた僧である顕如です。

大坂を天下統一の重要拠点として、この地を狙っていた織田信長と、石山本願寺との争いが10年以上にも及んだのです。
織田信長亡きあとは、豊臣秀吉によって天下統一は成し遂げられ、その栄華の中心地として大坂は反映していくこととなるのです。

豊臣秀吉の時代の大坂

大坂といえばやはりこの人物、豊臣秀吉ですね。
豊臣秀吉によって大坂の地が政治の中心地となり、発展していくこととなります。
その栄華の極みが、大阪城築城です。

しかし、現在見ることができる大阪城は豊臣秀吉時代の大阪城ではありません。
また、大阪城の石垣なども当時のものではないのです。
豊臣秀吉によって建てられた初代大阪城は、現在の天守の北東の位置に建てられていたらしく、規模は現在の物より小さく、黒色をの外観をしていました。

ところが、大坂の陣によって豊臣家が滅ぼされたのちに入った江戸幕府によって、豊臣時代の大阪城の痕跡は全て地面の下に埋められてしまいました。
そして、2代目の天守が現在の天守の位置に建造されました。

現在見ることができる天守は、昭和に建てられた鉄筋コンクリート造の3代目です。
その外観は、初代と2代目の要素を取り入れた創作物なのだそうです。
しかし、建造されてから90年が経とうとしている現在の天守は、これまでで最も長い期間現存する天守であり、鉄筋コンクリート造の古い建造物として、その価値が年々高まっています

大坂の町割りは豊臣秀吉の時代から始まりました。
大阪城を中心に堀で囲まれた縄張を作り、城から南の地に寺町を置きました。
さらに西側には町屋の地域を置き、続く江戸時代には後の商業の中心地となる船場が開発され、後の大坂発展の基盤となっていきました。

江戸時代の大坂

豊臣秀吉の時代に大坂の町が造られたと考えている人々は多いのですが、秀吉の作り上げた大坂の地は2度にわたった大坂の陣によって壊滅させられています

実際に現在の大坂につながる町づくりをしたのは、江戸時代に入り、まだ幕府の直轄領ではなく摂津大坂藩だったころに大坂城主であった松平忠明によるものでした。
忠明らによって戦災復興が為され、現在の大坂につながる基礎が出来上がったのでした。

江戸時代に入り、政治の中心地だった江戸とは異なり、経済の中心地として大坂は発展し、「天下の台所」と称されることとなります。

当時の大坂は、大坂城下に3つの町組から構成されており、大坂三郷と呼ばれていました。
北側から天満組、北組、南組と分けられていました。
それぞれの組から長である惣年寄が選出され、大坂町奉行所と町との中間組織となっていました。

大坂の八百八橋

大坂の地は水の都とも呼ばれるように、水運を中心にした町づくりが為されていました。
八百八橋と言われるほど、橋がたくさんありました。
現在でも、『今橋』『淀屋橋』『四ツ橋』などなど、たくさん〇〇橋とついた地名が受け継がれています。
当時の橋の総数は約200ほどあったそうなのですが、幕府によってかけられた公儀橋は12しかなかったそうなのです。
そのほとんどは、町で力のある商家などによって建てられた私設橋だったのです。
大坂では商人たちは商売で稼いだお金を、しっかりと大坂の発展のために使っていくことがステータスでもあったのです。
そのため、自分たちの店の前に名前を付けた橋を架け、古くなってきたら架け替えも行っていたのだそうです。
橋の架け替えは安いものではありませんが、商人たちはそれでも大坂のために投資をしたのでした。
もちろん、そのことで潰れてしまう人たちもいたそうなのですが、そのことが本来の『杭倒れ』の語源なのだそうです。
ここにも大坂の人々の気概が感じられますね。

産業都市大坂

産業マップからもわかるように、大阪からは多くの産業が生み出されました。

大阪には銅吹屋や銅問屋などの銅関連の業者もたくさん点在していました。

大坂近郊の様子

当時の大坂は、現在の大阪市中央区・西区・北区のエリアを中心に発展が遂げられていました。
周辺には村々が点在していましたが、『』と『平野』については、当時から有力な自治として存在し続けていました。

大坂の両替商

現在の淀屋橋~今橋、北浜のあたりには、現代での銀行に当たる両替商が多数存在していました。
このころには、日本でもっともお金が集まっている場所がこの一帯だったこともあるのです。

ところが江戸時代が終わるとともに多数の両替商は取り潰しになりました。
朝ドラの『あさがきた』は、このエリアを中心に、両替商を舞台にしたドラマでした。

道頓堀の開削事業

グリコの看板で有名な道頓堀
この道頓というのが人物名であるのはご存じですか?

大坂の陣前と、戦後、道頓堀の開削事業が行われました。
大阪城の西にあった東横堀川から木津川に流れる東西の水路が必要であったことから、人の手によって道頓堀川の開削事業が行われたのです。

道頓堀は成安道頓や安井道卜を中心に開削が進められました。
ところが大坂の陣が始まったことにより事業は中断。
しかも、成安道頓は大阪城の籠城戦の際に死去します。

残された安井道卜は、大坂城主の松平忠明の命で道頓堀の開削を再開し、完成に至ります。
そして、その川の名前に成安道頓の名をつけることを忠明から許可を得て、現在の道頓堀ができあがったのです。

そして道頓堀の一帯にはたくさんの芝居小屋が造られ、芝居町として大勢の人々でにぎわう繁華街となったのです。

大坂と地震

大坂と切手も切り離せないのが地震の被害です。
元々海抜が低い土地がほとんどであるため、過去の地震による津波被害が非常に多かったのが大坂の特徴でもあります。
特に上町大地から西側のエリアは、被害の大きかったエリアなのです。
そのため、過去の地震・津波の教訓をいつまでも忘れないように、碑が建てられたりもしているのです。

いくつかの大坂の地名にも、水の被害を連想させる地名があります。
地名を後世に残すことこと自体が、次の世代への警告になっているのです。
はたして、現在の大坂の行政やそこに住む人々は、そのメッセージをどこまで受け取ることができているでしょうか。

大坂と関わりのある偉人

大阪北浜に残る適塾でも有名な緒方洪庵は大坂に縁のある人物ですね。
疱瘡の予防として種痘を行い、広めるための除痘館を設立。
数多くの人々の命を救ってきたのです。
ドラマ『JIN』では武田鉄矢が演じていましたね。

もう一人は、ドラマ「あさがきた」でディーン藤岡が演じたことでも有名な五代友厚です。
薩摩出身の武士でしたが、後に実業家として、大阪経済界の重鎮の一人となります。
大阪経済を立て直市に奔走し、商工業の組織化、信用秩序の再構築などを行った人物です。
今もなお、北浜にある大阪取引所の前には彼の像がそびえたっています。

大大阪時代

大正から昭和初期にかけての大阪は「大大阪」と呼ばれていました。
当時の人口は約211万にもおよび、日本最大の都市でした。
世界的に見ても第6位の規模だったそうです。
市内を走る地下鉄建設や、周辺にも伸びる鉄道網や道路網も整備され、全国一の工業都市、経済都市となり、独自の文化も開花していきました。

昭和初期の区割りです。
今よりはかなり少ない区割りとなっていますが、この後も拡大していき、区割りは細分化していきました。

公設市場は庶民の台所でした。
多くの人々へ生活必需品を安定的に供給することで、人々の生活を潤していったのです。

また現在でも有名な心斎橋筋商店街は、多数の小売店で賑わう、東京の銀座とならぶほどの名店街でした。
モダンな人々が多数心斎橋筋商店街を歩いて楽しみ、そのことを当時は「心ぶら」と呼んだのだそうです。

大阪と戦争

そして時代は暗い時代に入っていきます。
大阪も、大阪大空襲など、たくさんの人々や家屋が戦争の被害に巻き込まれました。
特に大阪市は、その大部分が戦争の被害にあったのです。

大阪への空襲はトータルで50回を超えていたそうです。
また、原爆投下に向けた実験である模擬原爆のとうかによる被害もあったのでした。

いかがだったでしょうか。
古代から続いてきた大阪の歴史を一堂に学ぶことができる歴史博物館の内容をざっくりと紹介してきましたが、実際にこちらの博物館では、もっと詳しく大阪の成り立ちを知ることができます。
実際、大阪の地に住んでいる人の中でも『大阪は太閤(秀吉)さんがつくった』という人々がたくさんいます。
しかし、その歴史を学ぶと、単純に秀吉の力だけではなく、幕府や大阪の地に住む人々の力によって発展してきた町であることがよくわかります。
トップダウンではなく、ボトムアップの町大阪。
今、そのここに住む人々によって大阪という町を再び発展させていくことが必要な時が来ているのかもしれませんね。