226【島根紀行】地元の人々の力で解体を免れた、近世平山城の現存天守『松江城』

日本のわきみち(JAPAN)
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今回は現存天守松江城について紹介していきたいと思います。
松江城は、天守が荒廃した状態で明治時代を迎え、更には廃城令によって取り壊される寸前の状態になります。
しかし、松江城を後世のために残そうと、多くの人々の尽力により、松江城の天守は解体を免れます
その後は、何度も修復を繰り返しますが、現在もその荘厳な姿を残し続けています。

松江城は特徴のある構造の天守であり、一般的に中心に用いられる心柱がなく、その代わりに二階を通して用いられる通し柱を多用することによって、上層部の荷重を分散して、建物全体で支える珍しい構成の天守となっています。
そのため、松江城は国宝にも指定されているのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 天守の中は当時の職人たちの工夫が盛りだくさん。ないならないで、工夫すれば同等以上の実践型天守が造れるわけなのです。

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松江城

国宝 松江城は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし、慶長16年(1611)に松江開府の祖、堀尾吉晴公と孫の2代藩主忠晴によって築かれました。
天守は標高28mの位置に建てられ、前面に附櫓を設け、最上階から四方を見渡せる複合式望楼型天守です。

堀尾氏はもともと、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で武功をたてたことによって、同年に出雲・隠岐領国24万石を与えられ、月山富田城に入城しました。
しかし、月山富田城は廻りを高い山に囲まれた、戦国期の城郭の特徴を持っており、江戸時代以降の近代戦には不向きであったことと、広大な城下町を形成する余裕のなかったことから、現在の松江城の地に移ってきました。
そこから松江城は、松江藩歴代藩主の居城として使われていきます

初代藩主は堀尾吉晴の子の忠氏であり、その子であった二代藩主忠晴は子に恵まれず、堀尾家は断絶します。
その後、京極氏が入りますが一代で終わりますが、外様に囲まれた西国監視のため、幕府は幕府は、徳川家康の孫である松平直政を入城させます。
それ以後は233年もの間、松平家によって明治維新まで10代にわたり出雲国は支配されます。

松江城は明治6年に陸軍省の所管となり、明治政府の廃城令によって明治8年5月には廃城が決まりました。
明治8年(1875)に櫓や多門など多くの建物は壊されました
しかし、天守だけは旧藩士や豪農など多くの人々の働きによって解体を免れ、保存されることになりました。

ただ、松江城天守は解体・処分の危機は乗り越えたものの、管理が不十分なため荒廃が進んでしまいます。
その様子を見るに見かねた人々によって明治21年(1888)には部分的な修繕が行われました。
その後、明治25年(1892)の暴風雨により天守は大きな被害を受けますが、多くの市民による寄付によって明治27年(1894)に大修理が行われました。
その後に、昭和の大修理も行われるなど、創建以降、何度も補修や修理が行われました。

松江城天守は、昭和10年(1935)に当時の国宝保存法により国宝の指定を受けます。
また昭和25年(1950)には重要文化財となり、平成24年に祈祷札が発見されたことで築城年が明らかになったことにより、平成27年に改めて国宝に指定されました。

アクセス

JR松江駅下車後、バスで約10分もしくは、
一畑電車松江しんじ湖温泉駅下車後、バスで約5分で到着します。

松江城に行ってみた

それでは、実際に松江城に行ってみましょう。

まず、駐車場のそばには、松江城開府の祖である堀尾吉晴公の像が建てられています。

馬溜

城の敷地内に入ると、まずは大手門前が大きな枡形という形態になっています。
ここは馬溜と呼ばれる一辺が46mほどの正方形の形の平地です。
広い平地のため、敵が進入しても隠れることができず、周囲を囲った大手門や石垣上の狭間から狙い撃ち、一網打尽にすることができる場所になっています。
また、自軍が出撃の際に、ここに城兵を待機させ隊形を整えるという機能も果たしていました。

発掘調査により江戸時代のものと思われる2か所の井戸や、地面の下には水路などが見つかっています。

太鼓櫓

馬溜を抜けると、向かって左手の石垣上に太鼓櫓があります。
その名の通り、時刻などを伝える太鼓が置かれていた櫓でした。

三ノ門

三ノ門跡を越えてさらに進んでいきましょう。

二之丸

写真のような井戸がありますが、このあたりが二之丸です。
本丸南側の一段低い平地となっており、江戸時代には二代藩主綱隆の時代まで藩主の居宅であった御書院や、それを囲むようないくつかの櫓がありました。
現在の二之丸には、西側に松江神社興雲閣があります。

松江神社

明治の廃城令で、敷地内に建てられていた御殿など取り壊された後の、明治31年に松江神社が創建されました。

松江神社は、松江の有志により松平直政公を御祭神として明治10年(1788)に創建された楽山神社をそのルーツとしています。
明治31年(1898)には、朝酌村にあった東照宮の御神霊を合祀し、翌年に現在地に遷座して、松江神社とその名を改めました。
昭和6年(1931)には、7代藩主松平治郷公と、堀尾義晴公の御神霊を配祀し、今日に至っています。

興雲閣

こちらは明治36年建てられた興雲閣です。
後の大正天皇が皇太時代に御座所となりました。

興雲閣は、元々は明治36年(1903)に松江市によって松江市工芸品陳列所として建てられた建物です。
明治天皇の行在所に使用する目的で作られましたが、実現しませんでした。
しかしその後、明治40年(1907)に後の大正天皇である皇太子喜仁親王の山陰道行啓に御座所となりました。
平成23年(2011)までは松江郷土館として活用されていましたが、現在は、保存修理を経て建物そのもののもつ歴史と魅力を広めるため、一般に公開されています。

明治40年(1907)に、のちの大正天皇である皇太子嘉仁親王によって、御座所や御寝所として使われた部屋です。
建具とシャンデリアの本体は現存するものを修復して展示していますが、カーテンボックス、カーテン、じゅうたん、照明のガラスシェード、机と椅子は当時のものが残されていないため、写真などの資料をもとに復元しています。

二ノ門

二ノ門跡を越え更に天守に向けて進んでいきます。

一ノ門

二之丸上段から本丸へ向かう登城路に一ノ門があります。
Lの字になっており、進入しにくい構造になっていました。

本丸 天守

天守が見えてきました。
廃城令を免れ、荒れ果てていた天守ではありましたが、人々の手によって修繕され、現在までその姿を残すことができています。
現存十二天守の一つであり、国宝でもある天守です。

その構造は非常に特徴的であり、中心に心柱となる大きな柱がなく、二階分を貫く通し柱を各階に交互に配置することによって、長大な部材を用いずに天守を支える構造となっています。
建築当時、なかなか大きな柱となる木材が手に入らなかったため、このような構造となっているのだそうです。
互入式通し柱と呼ばれるこの構法を用いることによって、上階の荷重を下階の柱が直接受けず、横方向にずらして分散させながら下に伝えることができます。
松江城ではこのような先駆的な技法を駆使して城郭建築の発展に寄与していることからも価値の高い建造物であると考えられています。

天守(附櫓・地階)

地階は石垣に囲まれており、籠城戦に備えた物資などを保管していました。
領内から納められた塩が蓄えられていたことから、別名塩蔵と呼ばれており、昭和の解体修理工事の際には生産地ごとの荷札や、蔵の中での管理用と考えられる塩札も40枚発見されれいます。

松江城は非常に珍しく、天守内の地下に井戸が設けられた、実践を強く意識して周到に備えられていた造りとなっています。
天守内に井戸が現存しているのは、国内では松江城のみなのだそうです。
深さは24mあったのだそうですが、現在は崩落防止のため、半分は埋められています。

松江城の築城年が記された祈祷札のレプリカが展示されています。

2枚の祈祷札は、昭和12年(1937)に天守内で確認されて以降、その所在が分からなくなっていました。しかし、平成24年(2012)に城内の松江神社で再発見されました。
調査を経て、祈祷札と通し柱に残る釘穴の位置が一致したことから、地階の2本の通し柱に打ち付けられていたことが明らかとなっています。

この発見により、松江城天守の完成時期が慶長16年であることがわかり、平成27年(2015)の国宝指定につながったのだそうです。

昭和25~30年(1950~55)の解体修理工事で再度利用できなかった部材のうち、旧鯱や墨書の残る部材などの資料性の高いものは地階において保存展示されています。
こちらの旧鯱は、かつて天守の上にあった木製の鯱であり、老朽化に伴って新しいものに付け替えられました。

天守(一階)

松江城の地階から4階までの柱の中には、柱のまわりに包板と呼ばれる板を張って、鎹(かすがい)で固定され、されに鉄輪で締められている柱があります。
包板は築城時に施されたのではなく、後年に天守が修復された際に順次加えられていったたものではないかと考えられています。
包板は、現存天守では松江城だけに見られる技法なのだそうです。

包板の施された柱は、柱総数の308本中103本に施されているのですが、おそらく木材の調達が難しかった当時に、あまり質の良くない粗悪材を使わざるを得なかったことや、割れ隠しなど、体裁を整える必要があったのではないかと考えられています。
また、それだけではなく、補強効果も期待されていたのではないかと考えられています。

地階から1階にかけて使われている2本の通し柱は、包板を持たない松江城天守最大柱であり、地階にある祈祷札もこの柱のに打ち付けられていました。
祈祷札がこの柱に打ち付けられていたことからも、天守の中でも最も重要視されていたことが分かります。

石落としは、天守ではおなじみの、石垣から登ってくる敵を、落石や熱湯、鉄砲などで攻撃するために設けられた穴です。
松江城では、2階の四隅と東・西・北面の中央に設けており、外部からは屋根の軒に隠れ見つけにくい特徴的な構造になっています。

解体修理工事にて、に取り替えられ不要となった古材の中には、松江城を築城した堀尾氏の家紋である分銅文と「富」の字の刻印をもつ部材があります。
これらは、いかだを組んで運搬された痕跡もあるなど、堀尾氏が松江城築城の際に、それまで居城としていた月山富田城から運ばれてきたのではないかと考えられている材木です。

展示されている部材は、元々は天守の1階の床梁を支えていたそうですが、現在は置き換えられ、展示されています。

天守(二階)

松江城建築の際に、建物を組み立てるために付けられた符号である番付が残っています。
番付とは、木造建築の建物を効率よく組み立てるために、部材につける符号のことです。

松江城天守の番付には彫込で記されたものと、墨書で記されたものがあり、彫込で書かれた番付は現在は、地階から2階の柱の根元などに全部で9カ所確認することができます。

松平直政が、大阪冬の陣玉造門の攻防戦に初陣した際の像が展示されています。

天守(三階)

こちらは潜戸(くぐらど)とよばれる小さな階段につながった戸があります。
ここを通ることで、城内部から屋根に通じているのだそうです。

天守(四階)

松江城は心柱がない構造のため、通し柱を使って組まれているように、建物の中心に重さが集中しないような工夫が施されています。

また上の写真のように、梁の上に柱を建てるなどの構造も利用して、上階の荷重を下階の柱が直接受けずに、梁を通して横方向にずらしながら下に伝える構造とすることで、負荷が分散できるようにされています。
4階の四隅の梁の上からは、5階を支える隅柱が立ち上がっています。

4階には、西側大破風の内側に藩主用の箱便所があったとされています。
天守内に便所が設けられていたのは珍しいのだそうです。

次はいよいよ最上階の5階です。

天守(五階)

松江城天守は、最上階から四方を見渡せる複合式望楼型天守です。
どの方角からも松江の街をよく見降ろすことができました。

いかがだったでしょうか。
実は松江城には、今回紹介したほかにもまだまだ見どころのたくさんある天守となっています。
実際、通し柱も、階段脇から二階を貫いている様子を実際に確認できる箇所もあります。
そんな現存天守だからこそ見られる、実践型平山城の様々な構法を目の当たりにして、いかに松江城が歴史の中で活かされ続けてきたのかに思いをめぐらせるのもいいかもしれませんね。