234【岡山紀行】現代まで残っていれば…と悔やまれる漆黒のフォルム『岡山城』

百名城/続・百名城(Castle)
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岡山県の百名城も数多く紹介してきましたが、今回はいよいよ中心地にある岡山城です。
見た目が漆黒の特徴ある天守であり、一度見ると印象に残る城です。

そんな岡山城ですが、関ヶ原の戦いで勝敗を決した歴史的な裏切り者、小早川秀秋の居城だった城なのです。
岡山城はその背後に巨大な日本提案である岡山後楽園を有するなど、この岡山の地が岡山城の城下町としていかに発展していったのかがよくわかります。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 岡山を代表する巨大な城郭である岡山城。戦前までは現存していたということが今となっては悔やまれるほどの名城っぷりです。

岡山にある日本百名城・続日本百名城についての記事です。

156【岡山紀行】現存天主唯一の山城『備中松山城』は、山上にあったからこそ解体を免れた
現在日本に残っている現存天守12か所のうち、唯一の山城が備中松山城です。備中松山城は数々の幸運が重なり、解体されずに現在までその天守を残しています。そして、その偶然な幸運があったからこそ、日本で唯一『天空に浮かぶ現存天守』を見ることができる場所になったのです。
125【岡山紀行】戦国の壮大な奇策 水攻めで攻め落とされた『備中高松城』
岡山県にある備中高松城は、低湿地に築かれた難攻不落の沼城でした。そんな、攻略が難しい城を落とすために考えられた作戦が水攻めでした。壮大な作戦が実際に行われたこの地は、今もなおその出来事が語り継がれている地です。戦国期の武将の思いがぶつかるこの地を訪れてみました。
118【岡山紀行】戦国期の城とは一味違う、大和朝廷に築かれた古代の城『鬼ノ城』
これまでに紹介してきた百名城とは一味違う、大和朝廷によって築かれたとされる古代日本の城跡が岡山県にあります。今回の記事で紹介する『鬼ノ城』は、戦国期や江戸時代に見られるような城のつくりとは異なり、あまり残されていない記録から調査・研究を経て、復元が進められている城跡です。

戦前まで天守が現存していたお城ピックアップ記事です。

184【ピックアップ】日本百名城・続日本百名城 戦前まで天守が現存していたお城ピックアップ6選
日本百名城・続日本百名城で、今回は戦前まで天守が現存していた括りで紹介していきたいと思います。戦前まで天守が残っていた城は、全部で8か所あるのですが、そのうち6か所をピックアップして紹介していきたいと思います。

岡山城

岡山城は、備前の国邑久(おく)に興った宇喜田直家が、岡山の地にいた金光宗高を滅ぼして天正元年(1573)に入城しました。
直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、現在の岡山の市街地のもとをつくり、岡山繁栄の基礎をつくりました。

その後、直家の子であった宇喜田秀家によって慶長2年(1597)に3層6階の天守閣が築城され、江戸時代には岡山藩の藩庁が置かれました。
秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受けて、その所領が備前だけではなく美作と高梁川以東をも加えることになり、57万石をこえる大領主となりました。
しかし、宇喜田秀家は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島へ流されます。

その後、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に鞍替えした小早川秀秋が筑前の国・名島から入城しますが、わずか2年余りで急死したため、小早川家は断絶したため、姫路城主池田輝政の子、池田忠継が入ります。
以後は池田家31万5千石の時代が明治維新まで続きますが、明治の廃城令によって廃城となります。

城跡は大半が市街地となって、本丸も学校用地に転用されました。
しかし、昭和20年の岡山空襲によって天守と石山門が消失
残されたのは月見櫓と西手櫓のみとなりました。

昭和29年には本丸跡の学校が移転し、烏城公園として整備されました。
昭和41年には天守閣が復元され観光施設となりました。

後楽園

岡山城の北にある後楽園は、岡山藩池田家の4代目藩主であった池田綱政によって貞享4年(1687)につくられれた庭園です。
石川県金沢市の兼六園と、茨城県水戸市の偕楽園とともに三名園として知られています。

アクセス

岡電東山線の城下駅下車、東へ徒歩300mで到着します。

岡山城に行ってみた

それでは岡山城へ行ってみましょう。

岡山城の城域に入っていきましょう。
内下馬橋を通り広い内堀を渡っていきます。

岡山城の建設当時、大名たちが築城するにあたっては、自分たちの勢威を誇る目的で石垣に巨石を集めて築くことが流行していました。
岡山城の大石は城域に入ってすぐのあたりに多く使われており、主にそれらの石は瀬戸内海に浮かぶ犬嶋などから運び込まれたそうです。

上の写真の石垣には金属の板が埋め込まれています。
これは、地上から2.9m付近にはめ込まれた銅板であり、昭和9年(1934)に岡山を襲った室戸台風による水害の際の最高水位を示しているのだそうです。

橋を渡ると広い下の段を通っていきます。

階段を渡り、表書院のあった中の段へ向かいます。

鉄門跡

この写真のあたりが鉄門跡の位置になります。

下の段の南側から藩庁であった表書院へ通じる櫓門がここにはありました。
木造ではありますが、全体が鉄板で覆われた門だったそうです。

大納戸櫓跡

大納戸櫓は、本丸の大手を守る櫓として、三重四階建ての城内最大の櫓が建てられていました。でした。
この建物は、元々は宇喜田直家が築いた亀山城の天守をこの場所に移築したものだそうです。
この櫓には主に、藩政のための書類や道具類が保管されていました。

不明門

不明門(あかずのもん)は、藩庁であった表書院の南端から、城主の住居であった本段へ上がるための石段の入り口に設けられた渡櫓門です。
天守閣のある本段全体の入り口に置かれた大形の城門であり、普段はほぼ門が閉ざされていたことから不明門と呼ばれていました。

明治の廃城後に取り壊されていますが、現在建っているものは昭和41年に鉄筋コンクリートで再建されたものです。

天守閣の礎石

天守閣の南側には天守閣の礎石が残されています。
これはもともとここにあったわけではなく、昭和41年に元の位置に天守閣が鉄筋コンクリートで再建されましたが、礎石のみが現在の位置に移され、元通りの配置をして残されています。

六十一雁木上門

六十一雁木上門は、本段東側から川手に通じる門であり、前方の石段がもともと61段あったらしいということから呼ばれています。

表書院跡

表書院は藩政が行われた建物です。
数棟の建物と、大小60を超える部屋があったそうです。
泉水のある中庭には、数寄屋(茶屋)が建っていました。

発掘調査によって建物の礎石や溝などが出土しましたが、現在それらの遺構は地下に保存されており、地表には建物の位置や間取りなどが表されています。

岡山城天守

本段の先には天守閣が見えてきました。

入場料は天守閣前で購入して入ります。

何度か訪れたことがあるのですが、弱虫ペダル押しのときがありました。
何のイベントだったのか?

これは在りし日の天守閣を写した古写真です。
右側の建物が岡山城であり、左側の建物がもともと亀山城の天守だったものを移築した大納戸櫓なのだそうです。

池田家の鉄砲十人組が使ったとされる火縄銃です。

さらに上階へ上がっていきます。

最上階に到着しました。
岡山城北にある後楽園も非常によく見えました。

岡山城築城時の石垣

表書院の台所跡地そばには、築城時の石垣が展示されています。
これは今から400年あまり前、豊臣秀吉のもとで大大名となった宇喜田秀家によって天正19年(1591)から慶長2年(1597)まで7年もの歳月をかけて岡山城が築城された当時の石垣であり、自然の石をほとんど加工せずに用いている特徴があります。

完成した岡山城は、高石垣で囲まれ、金箔押しの瓦を掲げた天守がそびえる、天下の名城でした。
しかし、江戸時代になると、城主たちによって増改築を行い、城構えが大幅に変貌していくなかで、地中に埋め込まれました。
具体的に、江戸時代の初めに城を改築する際に、この石垣を埋め込んで中の段を北に大きく広げ、表書院を建てたのでした。
現在公開されている石垣は平成5年に見つかった石垣の角の一部ですが、発掘された他の部分は再度埋め戻されています。

いかがだったでしょうか。
JR岡山駅からも非常にアクセスのよい岡山城。
これまで紹介してきた岡山県内の城の中でも最も訪問しやすい城ではないでしょうか。
今は大部分が市街地になってしまっていますが、天守だけではなく城の縄張もしっかりと見て回りたい城ですね。