239【愛媛紀行】平山城だけどキツイ登りをロープウェイ・リフトで楽々アクセス!現存天守『伊予松山城』

百名城/続・百名城(Castle)
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今回は現存天守の一つ、愛媛県の伊予松山城について紹介していきます。
本来は松山城なのですが、各地にも松山城があるため、区別するために伊予松山城と呼ばれることが多いのだそうです。
現存天守は現在十二残っているのですが、その内4か所は四国3県にあり、とにかく四国にたくさん残っています。
これだけ四国地方に残っている理由としては、戦争時の空襲の被害が少なかったこともあるのでしょう。

伊予松山城は現存する天守だけではなく、本丸と二之丸をつなぐ登り石垣、東と北の山麓に配置された郭など、堅牢な城構が良好に残されている城跡なのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 築150年以上の現存天守と、本丸の数多くの重要文化財を見に行ってみよう。

愛媛県の記事です。

1119【愛媛紀行】三方を山に、海はリアス式海岸。日本でも有数の良港が広がる『宇和島の町』
前回大洲市については紹介しましたので、今回はもう一つの城下町である宇和島市についてです。さて、宇和"島"市なのですが、なるほどー島なのかー・・・。と思ってしまうかもしれませんが、宇和島市は"島"ではないのですよね。さて、ではなぜ宇和島市は”島”なのでしょうか。そういった謎もありながら、様々な名所や名産などもある宇和島について今回は紹介していきたいと思います。
1107【愛媛紀行】伊予の小京都として名高い。一人でも家族でも楽しめる『大洲の町』
愛媛県の城を巡るとなると、これら以外の町も名前が挙がってきます。それが、宇和島と今回紹介する大洲ではないでしょうか。これらの町は日本百名城にも選定されている城をもつ町であり、城めぐりをするのであれば必ずと言っていいほど訪れることになる町なのです。
1106【愛媛紀行】瀬戸内海を縦横無尽に支配した海賊、村上水軍の城『能島城』
今回紹介している愛媛県にある能島城は、200ある城の中でも非常に特徴ある城なのです。なにせこの能島城、能島という小島1つが丸々と能島城となっているのです。城の分類としては水軍城と呼ばれます。ここでいう水軍というのは、かつて瀬戸内海を牛耳っていた村上水軍(村上海賊)の一派である能島水軍が設けた水軍城だったのです。
1098【愛媛紀行】藤堂高虎の名城の一つ。現存中に天守の一つである『宇和島城』
宇和島城は愛媛県宇和島市にあります。この城は、築城の名手としても有名いな藤堂高虎氏の手によるもの。四国西南地域の中心であった宇和島に設けられたこの城は、宇和島湾のリアス式海岸地帯に面して作られ、三大海城とも呼ばれるようにその堀に海水が引かれたりする特徴をもつ城です。
1096【愛媛紀行】藤堂高虎によって築かれた愛媛の名城である『今治城』
日本に存在した海賊とは、海で生き、その地域の海上の交易や秩序を保証し、安全に活動するために依頼してきた客を警固したりといった活動が主でした。その村上海賊が活躍したのが、愛媛県の北の瀬戸内海。尾道と今治をつなぐ芸予諸島と呼ばれる地域です。そして、この地域を愛媛側から望む場所にあるのが今回紹介している今治城です。
1093【愛媛紀行】谷の地形を利用し、馬蹄形に曲輪が設けられていた特徴的な城『河後森(かごもり)城』
場所は愛媛県の北宇和郡。その城の名前は河後森(かごもり)城といいます。この城は、鎌倉時代に築城されたという山城。その後、江戸時代の一国一城令まで機能し続け、廃城となった城でした。その規模としては、愛媛県に残る中世の山城の中では最大のもの。まるで馬の蹄鉄のようなU字型をした山と谷の地形を巧みに用いて造られた河後森城は、自然の要害を最大限に活かした鉄壁の山城なのでした。
1085【愛媛紀行】道後温泉のすぐ近く。様々な人々が集まり、夜更けまで賑わうゲストハウス『ふじや』
道後温泉は楽しみたいけど、宿泊は安く抑えたい。ぜひともそんなお宿を探してみたいですよね。ありました。それも道後温泉の超近く。そのお宿を『ふじや』といいます。愛媛だけど”ふじ”?まあそんなことはどうでもいいですが、このゲストハウスのふじやですが、一般家屋を一軒まるまるゲストハウスにした建物です。
1084【愛媛紀行】主に、今治市の慢性的な水不足を補うために多目的ダム『玉川ダム』
前回愛媛県のダムということで石手川ダムというところを紹介しました。石手川ダムは、松山市の中心部に近いダムということで、慢性的に水不足になりがちな松山市に対して安定した水資源の供給を目的として造られたダムだということは紹介しました。今回はその石手川ダムから北東に行ったところにある玉川ダムというダムです。
1083【愛媛紀行】明治維新でそのほとんどが破却されたものの、豊富な資料を音に天守が正確に復元された『大洲城』
今回紹介している大洲城は愛媛県大洲市にある城です。実はこの城の天守は明治に各地で廃城が行われた際には生き残ることができていたのです。しかし、残念なことに、明治の中期に建物の老朽化が原因で解体されるに至ってしまったのです。
1075【愛媛紀行】大三島の農業用水や生活用水すべてを支える『台(うてな)ダム』
台ダムがあるのは、愛媛県今治市。この市に属していますが、瀬戸内海に浮かぶ島、大三島にあるダムなのです。島にダムがあるというのもなかなか珍しいのかなあと思いますが、実際このダムが設けられている台本川なのですが、それほど長い川ではありません。全長3.7kmほどしかなく、はたしてここにダムが必要なのか?とも思われるのですが、全長が長い川というものはえてして危ない川になってしまうことがあるのです。
1073【愛媛紀行】全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社。瀬戸内海の大三島にある『大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)』
今回は、とある神社について紹介していきたいと思います。この神社なのですが、それがある場所は何と離島なのです。まあ、今は橋で結ばれているのですが、古くこの神社が創建されたころにはそのような橋はなかったわけで。その神社の名前を大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)と言います。
1072【愛媛紀行】道の駅に水族館!?河後森城跡ついでにふらっと立ち寄れる『道の駅 虹の森公園まつの』
魅力たっぷりの道の駅なのですが、今回紹介している道の駅は、『道の駅 虹の森公園まつの』という、愛媛県にある道の駅です。さて、この道の駅もなかなか他にはない特徴をもっている道の駅なのですが・・・!?今回はこの『道の駅 虹の森公園まつの』について紹介していきたいと思います。
1059【愛媛紀行】実は愛媛県松山市で最も高い建造物『石手川(いしてがわ)ダム』
松山市というと人口50万人以上を抱え、これは香川県の高松市よりお10万人ほど多い人口となっています。そのような雨が少ないという条件と、人口が多いという理由から、夏になるとよく水不足に見舞われていました。そこでそういった課題を解決するために考えられることといえば、ダムの建造ですよね。この松山市の上水道確保として建造されたのが同じく松山市にある石手川(いしてがわ)ダムなのです。
1057【愛媛紀行】司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の世界を存分に味わえる博物館『坂の上の雲ミュージアム』
坂の上の雲の世界をより多くの人に体験してもらいたい。そんな地元の思いから生まれたのが、2007年にオープンした『坂の上の雲ミュージアム』なのです。愛媛県松山市の中核施設として重要視されるこの坂の上の雲ミュージアムについて今回は紹介していきたいと思います。
463【愛媛紀行】万葉集にも見られる、古代から知られた伝統ある温泉『道後温泉』
今回紹介している道後温泉は、日本に数ある温泉地の中でも明治・大正の雰囲気を今もなお残し続ける、稀有な温泉地ではないでしょうか。その中でも道後温泉の中心にある道後温泉本館は、その建物が重要文化財でありながら、今もなお公衆浴場としての役割を果たしている建物なのです。
106【愛媛紀行】坊ちゃん列車 道後温泉 え~っとあと、百名城??『湯築城』
愛媛県の有名な温泉地『道後温泉』。道後温泉本館を中心として、日本でも最古の歴史のある温泉地として有名ですよね。なんと、その道後温泉のすぐそばに、日本百名城に登録されている『湯築城』があるのです。現在は土塁や堀を残すのみですが、道後温泉と共に訪れてみるのはいかがでしょうか。

伊予松山城

伊予松山城は、松山平野にある勝山(132m)に築かれた平山城です。
勝山城や金亀城とも呼ばれています。

山頂に本丸があり、南西の山麓に二之丸や三之丸があり、それらをつなぐ南北2本の登り石垣で有名です。
東と北の山麓にはそれぞれ郭が配置されるなど、非常に堅牢な城郭が現在もなお良好な状態で残されており、本丸の建造物の多くは重要文化財に指定されている希少な城跡です。

伊予松山城は、関ヶ原の戦い後にこの地を与えられた賤ケ岳七本槍で有名な加藤嘉明が慶長8年(1603)に築城しました。
築城にあたっての資材などは、正木城(松前城)や湯築城などから選ばれたものも多かったようです。
この築城に合わせて、勝山の南を流れていた湯山川(現、石手川)の付け替えや、城下町の整備など大掛かりな街づくりが行われ、この頃に城下を松山と命名し、城の名前を松山城としました。
寛永4年(1627)には加藤嘉明が会津へ転封されますが、その後に蒲生忠知が入城します。
加藤嘉明が転封になった後、嘉永4年(1627)頃に26年かけた城全体が完成したとされています。
蒲生忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年(1635)に松平定行が松山藩に入ります。
以後、明治維新を迎えるまで松山城はずっと松平家の居城となりました。

元々五重であった松山城の天守は、松平定行によって三重に改築されましたが、天明4年(1784)正月に落雷によって消失したため、安政元年(1854)に再建され、現存している三重三層地下一階附の天守として残っています。

現存天守については以下の記事をご参照ください。

184【ピックアップ】日本百名城・続日本百名城 戦前まで天守が現存していたお城ピックアップ6選
日本百名城・続日本百名城で、今回は戦前まで天守が現存していた括りで紹介していきたいと思います。戦前まで天守が残っていた城は、全部で8か所あるのですが、そのうち6か所をピックアップして紹介していきたいと思います。

アクセス

イポ

伊予松山城へ行ってみた

それでは伊予松山城へ行ってみましょう。

伊予松山城は平山城ではありますが、急な坂道を登っていく必要があるため、登城にあたっては、ロープウェイもしくは、個人乗りのリフトを使って山頂まで向かうことができます。

筒井門

筒井門は本丸の大手にある重要な櫓門であり、隣にある隠門と対になっています。
慶長期の築城に際して、正木城から移築されたと伝えられている城内でも最古の建物の一つです。
昭和24年(1949)2月に放火によって焼失しましたが、昭和46年3月に復元されました。

筒井門の右隣には、石垣の陰に隠された隠門があります。
埋門形式の櫓門であり、筒井門に迫ってくる敵兵を側面から攻撃する役割を担っています。
筒井門同様に慶長期の築城時に建てられたと考えられています。

太鼓門

太鼓門は、本丸大手の正門である櫓門です。
こちらも築城時に建てられたと考えられています。
昭和20年(1945)7月に戦災で焼失しましたが、昭和47年(1972)2月に復元されました。
太鼓門の両側の石垣には、戦災による剥離が残されているのだそうです。

井戸

太鼓門を抜けると、向かってすぐ右側に井戸があります。
この井戸は、もともとは築城時に谷だった場所を埋め立てる、石を積み上げて造った深さ44.2mもある井戸であると伝えられています。
こちらも昭和20年(1945)7月の戦災で焼失しましたが、昭和27年(1952)3月に城内の遺物の中で初めて再建されました。
こちらの井戸には4つの伝承が残されているそうなのですが、どれも真実ではないことが分かっています。
・井戸の底がない
・井戸から天守と二之丸への抜け穴がある
・大こうもりが棲んでいる
・大判小判が投げ込まれている

などの伝承が残されていましたが、いずれも真実ではないことが分かっています。

本壇・天守

それでは天守のある本壇に向かって行きましょう。

ここを抜けると本壇に入ります。

松山城の本壇は、天守を中心とする城郭建造物群が立ち並んでいます

この本壇入り口からは、一ノ門、二ノ門、三ノ門、筋鉄門が設けられています。
それぞれには塀と櫓を伴っており、数多くの様によって天守を防衛する厳重な施設となっています。
本壇内は、天守、小天守、北隅櫓、南隅櫓が天守広場を取り囲んでおり、それぞれが渡櫓で連結されています。

筋鉄門

一ノ門、二ノ門、三ノ門を抜けると筋鉄門にやってきました。

ここを抜けるといよいよ天守に到着です。

天守内部

慶長年間にこの地に初めて加藤嘉明によって創建されたときは、天守は五層構造でした。
しかし、天明4年(1784)に雷による火災のために焼失します。
その後、安政元年(1854)に天守閣の復興が行われ、現存している三重三層地下一階附の天守として再建されました。

いかがだったでしょうか。
天守までの道のりを見てもわかる通り、とても堅牢に作られた城郭であるため、実際に伊予松山城を訪れる際は、どうやってこの城を攻め落とすのだろうか、といったことをイメージしながら天守に向けて歩いていくと、また城巡りの醍醐味を味わうことができるかもしれません。