239【愛媛紀行】平山城だけどキツイ登りをロープウェイ・リフトで楽々アクセス!現存天守『伊予松山城』

百名城/続・百名城(Castle)
この記事は約5分で読めます。

今回は現存天守の一つ、愛媛県の伊予松山城について紹介していきます。
本来は松山城なのですが、各地にも松山城があるため、区別するために伊予松山城と呼ばれることが多いのだそうです。
現存天守は現在十二残っているのですが、その内4か所は四国3県にあり、とにかく四国にたくさん残っています。
これだけ四国地方に残っている理由としては、戦争時の空襲の被害が少なかったこともあるのでしょう。

伊予松山城は現存する天守だけではなく、本丸と二之丸をつなぐ登り石垣、東と北の山麓に配置された郭など、堅牢な城構が良好に残されている城跡なのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 築150年以上の現存天守と、本丸の数多くの重要文化財を見に行ってみよう。

伊予松山城以前に250年間、伊予国の中心だった湯築城の記事です。

463【愛媛紀行】万葉集にも見られる、古代から知られた伝統ある温泉『道後温泉』
今回紹介している道後温泉は、日本に数ある温泉地の中でも明治・大正の雰囲気を今もなお残し続ける、稀有な温泉地ではないでしょうか。その中でも道後温泉の中心にある道後温泉本館は、その建物が重要文化財でありながら、今もなお公衆浴場としての役割を果たしている建物なのです。
106【愛媛紀行】坊ちゃん列車 道後温泉 え~っとあと、百名城??『湯築城』
愛媛県の有名な温泉地『道後温泉』。道後温泉本館を中心として、日本でも最古の歴史のある温泉地として有名ですよね。なんと、その道後温泉のすぐそばに、日本百名城に登録されている『湯築城』があるのです。現在は土塁や堀を残すのみですが、道後温泉と共に訪れてみるのはいかがでしょうか。

伊予松山城

伊予松山城は、松山平野にある勝山(132m)に築かれた平山城です。
勝山城や金亀城とも呼ばれています。

山頂に本丸があり、南西の山麓に二之丸や三之丸があり、それらをつなぐ南北2本の登り石垣で有名です。
東と北の山麓にはそれぞれ郭が配置されるなど、非常に堅牢な城郭が現在もなお良好な状態で残されており、本丸の建造物の多くは重要文化財に指定されている希少な城跡です。

伊予松山城は、関ヶ原の戦い後にこの地を与えられた賤ケ岳七本槍で有名な加藤嘉明が慶長8年(1603)に築城しました。
築城にあたっての資材などは、正木城(松前城)や湯築城などから選ばれたものも多かったようです。
この築城に合わせて、勝山の南を流れていた湯山川(現、石手川)の付け替えや、城下町の整備など大掛かりな街づくりが行われ、この頃に城下を松山と命名し、城の名前を松山城としました。
寛永4年(1627)には加藤嘉明が会津へ転封されますが、その後に蒲生忠知が入城します。
加藤嘉明が転封になった後、嘉永4年(1627)頃に26年かけた城全体が完成したとされています。
蒲生忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年(1635)に松平定行が松山藩に入ります。
以後、明治維新を迎えるまで松山城はずっと松平家の居城となりました。

元々五重であった松山城の天守は、松平定行によって三重に改築されましたが、天明4年(1784)正月に落雷によって消失したため、安政元年(1854)に再建され、現存している三重三層地下一階附の天守として残っています。

現存天守については以下の記事をご参照ください。

184【ピックアップ】日本百名城・続日本百名城 戦前まで天守が現存していたお城ピックアップ6選
日本百名城・続日本百名城で、今回は戦前まで天守が現存していた括りで紹介していきたいと思います。戦前まで天守が残っていた城は、全部で8か所あるのですが、そのうち6か所をピックアップして紹介していきたいと思います。

アクセス

イポ

伊予松山城へ行ってみた

それでは伊予松山城へ行ってみましょう。

伊予松山城は平山城ではありますが、急な坂道を登っていく必要があるため、登城にあたっては、ロープウェイもしくは、個人乗りのリフトを使って山頂まで向かうことができます。

筒井門

筒井門は本丸の大手にある重要な櫓門であり、隣にある隠門と対になっています。
慶長期の築城に際して、正木城から移築されたと伝えられている城内でも最古の建物の一つです。
昭和24年(1949)2月に放火によって焼失しましたが、昭和46年3月に復元されました。

筒井門の右隣には、石垣の陰に隠された隠門があります。
埋門形式の櫓門であり、筒井門に迫ってくる敵兵を側面から攻撃する役割を担っています。
筒井門同様に慶長期の築城時に建てられたと考えられています。

太鼓門

太鼓門は、本丸大手の正門である櫓門です。
こちらも築城時に建てられたと考えられています。
昭和20年(1945)7月に戦災で焼失しましたが、昭和47年(1972)2月に復元されました。
太鼓門の両側の石垣には、戦災による剥離が残されているのだそうです。

井戸

太鼓門を抜けると、向かってすぐ右側に井戸があります。
この井戸は、もともとは築城時に谷だった場所を埋め立てる、石を積み上げて造った深さ44.2mもある井戸であると伝えられています。
こちらも昭和20年(1945)7月の戦災で焼失しましたが、昭和27年(1952)3月に城内の遺物の中で初めて再建されました。
こちらの井戸には4つの伝承が残されているそうなのですが、どれも真実ではないことが分かっています。
・井戸の底がない
・井戸から天守と二之丸への抜け穴がある
・大こうもりが棲んでいる
・大判小判が投げ込まれている

などの伝承が残されていましたが、いずれも真実ではないことが分かっています。

本壇・天守

それでは天守のある本壇に向かって行きましょう。

ここを抜けると本壇に入ります。

松山城の本壇は、天守を中心とする城郭建造物群が立ち並んでいます

この本壇入り口からは、一ノ門、二ノ門、三ノ門、筋鉄門が設けられています。
それぞれには塀と櫓を伴っており、数多くの様によって天守を防衛する厳重な施設となっています。
本壇内は、天守、小天守、北隅櫓、南隅櫓が天守広場を取り囲んでおり、それぞれが渡櫓で連結されています。

筋鉄門

一ノ門、二ノ門、三ノ門を抜けると筋鉄門にやってきました。

ここを抜けるといよいよ天守に到着です。

天守内部

慶長年間にこの地に初めて加藤嘉明によって創建されたときは、天守は五層構造でした。
しかし、天明4年(1784)に雷による火災のために焼失します。
その後、安政元年(1854)に天守閣の復興が行われ、現存している三重三層地下一階附の天守として再建されました。

いかがだったでしょうか。
天守までの道のりを見てもわかる通り、とても堅牢に作られた城郭であるため、実際に伊予松山城を訪れる際は、どうやってこの城を攻め落とすのだろうか、といったことをイメージしながら天守に向けて歩いていくと、また城巡りの醍醐味を味わうことができるかもしれません。