244【長野紀行】真田幸村の兄 真田信之から十代続いた江戸時代の真田氏の居城『松代城』

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真田幸村(信繁)といえば、徳川家康からも日本一の兵(ほのもといちのつわもの)と呼ばれたほどの武将であり、大坂の陣で散ったことでも非常に有名ですよね。
しかし、真田一族は関ヶ原の戦いを機に、2つに分かれて戦国の世を生き抜こうとしたのです。
真田幸村の父である真田昌幸には2人の息子がいました。
もう一人は、幸村の兄である真田信之です。

関ヶ原の戦いの際に、真田幸村は豊臣方に、真田信之は徳川方についたのでした。
結果としては、徳川方が勝利して後の世を作っていくことになるのですが、徳川方についた真田信之を祖とする真田家は、そこから脈々と受け継がれていくのです。

今回紹介している松代城は、そんな真田信之が真田家が長年治めていた上田の地から移封された場所です。
しかし、真田家一族はこの地に根を下ろし、明治維新まで10代にも続く真田家の地としたのでした。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 250年間の安定した治政が行われた松代の地。多くの遺構が残る全国的にも貴重な史跡を見に行こう。

真田氏に関する記事です。

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真田家と松代城

真田家

真田氏は、もともとは松代の地ではなく、現在の上田市真田町地域を拠点とした戦国時代の豪族でした。
真田信之・幸村の祖父である真田幸隆(1513~1574)の代に武田信玄に下り、その子・昌幸(1547~1611)も武田家滅亡後、知略を駆使しながら生き抜いていきます。

ところがそんな真田家を二分する歴史的な大事件が起こります。
それは天下二分の戦いであった関ヶ原の戦い(1600)でありの、昌幸の長男信之(1566~1658)は徳川方につき、昌幸と次男の幸村(信繁)は豊臣方につきました。
結果として徳川方が勝利した後、真田信之は沼田・上田・松代と領地を移しながらも、江戸時代江戸時代全期間を大名として生き残ることができました

そしてこの松代の地は、真田信之が元和8年(1622)に移封されて以降、明治維新まで約250年の間、真田氏10代にわたって松代藩10万石を領有し続けることになったのです。

松代城

松代城は、江戸時代を通して明治の廃城までの約250年間、松代藩藩主の真田家の居城でした。
北西側を流れる千曲川を自然要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けて二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を構えた構成になっていました。
しかしその築城については年代は不明です。
戦国時代である永禄3年(1560)頃、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との「川中島の戦い」の際に武田方の前進基地として築いた海津城がその始まりといわれています。
武田信玄や上杉景勝などにとっては、この海津城は北信濃を支配する上での軍事・政治的に重要な拠点なのでした。

1600年の関ヶ原の戦いの後、城主には森忠政が入ります。
この頃には、二の丸・三の丸の整備や、土塁を石垣に築きなおしたそうです。
元和8年(1622)には、上田城から真田信之が松代城に移封となり、松代藩政の拠点となりました。
それ以降、明治4年(1871)の廃藩置県までの約250年間、松代藩真田家の居城となりました。
江戸時代の半ばには、水害などによる被害によって、本丸御殿の機能が花の丸御殿に移るなどしましたが、明治に入り廃城となった後に建物が取り壊されました。

昭和56年(1981)に松代城は本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定され、平成16年(2004)は太鼓門、北不明門、堀、土塁などが復元されました。

アクセス

JR北陸新幹線長野駅バスで30分、松代駅下車です。

松代城へ行ってみた

それでは、松代城とその周辺の史跡を訪れてみましょう。

松代城

太鼓門

太鼓門は本丸の南側にある大手に位置する門です。
松代城には本丸に3ヶ所の櫓門がありましたが、その中で最も大きな門です。
内堀にかかる太鼓門前橋を渡ると、写真に見える表門があり、その奥にさらに櫓門がある2棟構成となっています。

松代城は、元々は土塁で囲まれた城だったのだそうですが、本丸の周囲や出入り口などの重要な部分については大小さまざまな自然石を巧みに積み上げた石垣に造り替えられました。

本丸跡

本丸内には、江戸時代中頃まで御殿があり、政庁や藩主の住居として使われていました。
御殿は享保2年(1717)の火災で焼失してしまったのですが、調査によって建物礎石や井戸跡、焼けた土壁などの痕跡が多数見つかりました。
その後は、度重なる水害の影響などにより、明和7(1770)に城の南西にある花の丸に御殿を移しました。

戌亥櫓台

戌亥隅櫓の石垣は松代城内でも古いものであるといわれており、当時の石工の技術力の高さを今も伝えています。
石垣の修理工事では、消失したり構造的に不安定な箇所については、可能な限りその特徴を活かし、当時と同じ構法で積みなおされています。

戌亥櫓台から城郭外を眺めたところです。

北不明門と海津城址の碑

北不明門は本丸の北側、城の裏口にある門です。
南側にある太鼓門と同様、内側にある石垣に渡らずに独立して建てられている櫓門と表側にある表門(桝形門)の2棟による構成となっています。

18世紀中ごろに千曲川が回収されたのですが、っそれ以前は河川敷に接していた門であったことから、水之手御門とも呼ばれていました。

北側より見た北不明門

敷地内外側から北不明門を眺めてみました。

東不明門前橋

本丸の東側には、東不明門と呼ばれた櫓門がありましたが現在はありません。
当時の門礎石が発見されていますが、史跡保護のために地表下30cmに埋設され、地表面にはその位置があったが示されています。

東不明門は通常時は使われていない門であったらしく、太鼓門前橋などが崩落してしまったときなどの通用門として使われていたようです。

上の写真は東不明門前橋ですが、現在復元されているこの橋脚がある内堀からは、折れた東不明門前橋のものと思われる橋脚が見つかっています。

真田宝物館

真田宝物館は、1966年(昭和41年)に真田家12代当主・幸治氏によって松代町に寄贈された数多くの真田氏の文化財が収蔵されている博物館です。

真田邸

新御殿、通称真田邸は、幕末の元治元年(1864)に松代藩9代藩主・真田幸教によって建てられました。
当初は幸教の義母である貞松院のために建てられた住居でしたが、やがて隠居した幸教の住居となり、明治以降は真田家の私邸となったことから、真田邸と呼ばれるようになりました。
その後、昭和41年には松代町(現長野市)に寄贈され、昭和56年(1981)には、松代城と合わせて国史跡に指定されています。

新御殿(主屋)は、表座敷や居間・湯殿など、他にも7棟の土蔵や、表門、往時の姿を残す庭園など、敷地全体が大きく変わらず江戸時代の大名邸宅の面影をよく残している、全国にもほとんど例がない貴重な文化財です。
御殿には35の主要な部屋があり、外部の人間が出入りする「表」の部分と、生活のための私的な「奥」の部分とに分かれ、用途に合わせたつくりになっています。

真田邸の庭園は、古写真や絵図と比較しても異なる点が多く、江戸時代の庭園の景観を消失していたところ、可能な限り往時の構造による復元になるように整備されました。

旧樋口家住宅

松代城南側のエリアは上級藩士が住む武家屋敷町でした。
その中でも藩の中心的存在だった樋口家の住宅が復元され残されています。

松代藩文武学校

真田邸西横には、松代藩文武学校があります。
文武学校は、松代藩の藩校として、8代藩主真田幸貫が水戸の弘道館を手本にして計画し、9代藩主幸政によって嘉永6年(1853)に完成し、安政2年(1855)に開校しました。

松代藩文武学校の特徴としては、当時の他藩の藩校には必ずと言っていいほど孔子廟が、ここでは儒教の教えを排除したために置かれていなかったという点です。

この学校での教育はその名の通り、藩士に対しの学問と武道の両道をめざした教育が行われます。
具体的には、漢学・国史といった学問と、剣槍術・柔術・弓術などの武道、それらに加えて西洋医学、西洋砲術を学ぶことができたなど、先進した気風がうかがえる藩校であり、数多くの人材を輩出しました。
明治に入り兵制士官学校を併設したものの、明治4年(1871)廃藩に伴い、閉校となり、その後は明治6年から松代学校の校舎として使用されました。
正庁(文学所、御役所)、東序、西序(序とは校舎という意味です)、剣術所、柔術所、弓術所、文庫蔵、番所、門及び櫓塀等の建物が残っており、昭和48年から5年をかけて保存修理と復元が行われたため、藩校当時の姿を今も残しています。

剣術所

東序

東序は軍学を主として教えられた校舎であり、砲術の理論学習はここで行われたのだそうです。

廃校後の松代学校時代は、はじめは普通教室として使われましたが、その後は図工準備室や家事室、ミシン室などに使われました。

文学所

文学所は正庁とも呼ばれた建物であり、この建物の東半分では学問の道場として使われていました。

訪問時は特別展としてひな人形の展示が行われていました。

西序

西序は漢方医学・西洋医学を主に教えていた建物だそうです。

弓術所

槍術所

槍術所は、嘉永6年(1853)文武学校で最初にできた建物です。
槍術だけではなく、砲術訓練もここで行われたのだそうです。

槍術所が完成して間もなく、藩主の居館(御殿)である花の丸御殿が焼失したために、ここを仮の御用部屋にあてたとも伝えられていますが、文学所が完成した後はそこへ移転され、花の丸御殿再建後は、文武学校から藩主の御用部屋は引っ越しました。
槍術所の建物は、明治5年(1872)に長国寺の庫裏が焼失した際に、これに転用されのだそうです。

柔術所



いかがだったでしょうか。
江戸時代に真田家によって整備された松代の街は、その面影が今もなお強く残る街でした。
攻防に長けた城ではなく、藩政を中心に考えた城郭の造りは、天下太平の時代を形に表した城郭ですね。
城跡だけではなく、周辺に多数残っている史跡をゆっくりとめぐってみてはいかがでしょうか。