255【インドネシア紀行】アッラーに家畜を捧げ、共に生きていることを再確認できるイスラム教の祭礼『犠牲祭(イード・アル=アドハー)』

インドネシア(Indonesia)
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国や宗教が変われば、自分たちが知らないような習慣や風習、行事などがありますよね
日本に住んでいて、日本の中だけしか知らないと、なかなかそういった場面に遭遇することはありませんが、世界に出てみると自分たちの知らない場面にたくさん出くわしますね。

特に世界三大宗教の一つであるイスラム教は、日本国内ではなかなかマイナーであるため、その生活習慣は非常に興味深いわけであります。
毎日5回必ず行われるお祈りや、ラマダンという断食の習慣。
女性はヒジャブをかぶり、人々は豚肉を口にしない、など。
日常的にも私たちが経験したことがないような習慣がありますが、毎年行われる行事にも非常に特徴があるのです。

今回紹介している『犠牲祭(イード・アル=アドハー)』もそのような行事の中の一つです。
日本語にすると”犠牲”という言葉に少々抵抗がありますよね。
実際今回の記事では写真をたくさん掲載していますが、”犠牲”という言葉を象徴しているように見えます。
しかし、実はこのイード・アル=アドハーの本来の役割は、人々とのつながりをより強くし、お互いが思いやれるような共同体のための祭りでもあるのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 目を背けてしまうような光景が繰り広げられるが、犠牲祭を通して命の大切さや、人間の原罪、人と人とのつながりを強めていくのです。

インドネシアの串焼き肉サテ・カンビンの記事です。

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犠牲祭(イード・アル=アドハー)

イード・アル=アドハーは日本語では犠牲祭と訳されている、イスラム教の宗教的行事です。
ヒジュラ暦の12月10日から4日間にわたって行われますが、ヒジュラ暦は現行のグレゴリオ暦とは約11日間の誤差があるため、毎年その実施が少しずつ早くなります。

イード・アル=アドハーの由来は、予言者のひとりであったアブラハムが神アッラーへ従順を表す行為として、自らの息子イスマエルを犠牲として捧げようとします。
しかし、アブラハムが息子を犠牲にする前にその代わりとして、アッラーは子羊を犠牲にしたというイスラム教の聖典コーランの逸話にちなんだものです。
このことから、犠牲祭では動物が儀式的に犠牲とされています

犠牲祭では、それぞれの町内会で経済的に裕福な者が牛やヤギを買い、その動物たちを地域の物たち総出で屠畜します。
肉となった家畜は、その3分の1は犠牲をささげた家族に消費され、残りは町内会の人々や貧しい人々に分配されます。

犠牲祭の日には、初日と最終日に集団で礼拝が行われるます。
そして、人々が動物たちの解体会場に集まり、次々と動物たちが連れてこられ、屠殺されていきます。
屠殺された動物は、地域の人々が協力して解体されていき、肉となって人々に分配できるように小分けにされていきます。
その様子は、本当に地域総出で行われる行事であり、お祭りの様相です。

イスラム社会では、イスラム教徒として従順にこの行事を遂行することで、アッラーの教えにしたがう信仰心を示すことはもちろん、イード・アル=アドハーにはそれ以外の意味合いも込められています。
それは、経済的に富める者が、貧しいものを助ける。
人々が協力して、犠牲祭を遂行していく。
これらを通して、人々が助け合いながら生きているという、イスラム教の教えを体現しているのです。

また、それ以外にも、犠牲祭では力のある若い男性が大きな家畜たちを次々と屠殺していき、その様子を町内会の子どもたちが興味津々に眺めています。
そういった様子を目の当たりにさせることで、自分たちが食べている物が元は命あるものであったことへの気づきと、その感謝の気持ちをもたなければいけないという倫理的な側面もあります。

そして最後に、その様子を見ていた子どもたちは、何年後かにはその役割を担っていくこととなります。
つまり、これまで長い年月培われてきた伝統文化の継承の意味もあるわけです。

このようにイード・アル=アドハーは、伝統・共生・教育などの様々な観点から、イスラム社会においては不可欠な行事となっているのです。

犠牲祭(イード・アル=アドハー)を見に行ってみた

それでは実際のイード・アル=アドハーの様子を見に行ってみましょう。
(※今回は、実際のイード・アル=アドハーの写真を数多く掲載しております。モザイク処理はしていますが、この先をご覧の場合は、自己判断の上で読み進めていただけますよう、よろしくお願いします。)

こちらはヤギの屠殺の様子です。
地面に、放血用の溝が掘られており、その上にヤギが連れてこられます。
3~4人の男性によって押さえつけられ、身動きが取れない状態にして、首に刃物を入れて放血させます。

その様子を見る子どもたちの姿が印象的ですね。

屠殺されたあとのヤギです。
首が切断されており、この後肉として処理されていきます。

屠殺されたヤギは、足をつるされ、捌かれていきます。
ここでは、皮を剥ぎ、内臓が取り出されます。

ヤギたちはすっかり皮が剥ぎ取られています。
この作業はかなり力の必要な作業のようで、たくさんの若い男性たちによって次々と作業が行われていました。

対面にある解体場では、一頭の牛が連れてこられました。

連れてこられた牛は、その場に寝転がされて、足と首にロープをかけて柱につながれて身動きが取れないようにされます。

身動きが取れなくなった牛の首に刃物がいれらると、大量の血が噴き出します。

さらに刃物は奥まで入れられ、胴体と首が切り離されます。

牛はこの場で皮を剥いで解体されていきます。

内臓も取り出され、洗浄されていきます。

すでにこの場では何頭も牛が屠畜されいるため、写真の後ろの方には切り落とされた牛の首が並べられています。

こちらは取り出された内臓です。
さすが牛一頭のため、かなりの大きさです。
内臓はこの後、別の場所に運ばれて洗浄され、その後は町内会で分配されるそうです。

その後の肉は、町内会の女性や子どもたちが待っているシートの上に移され、全員総出で切り分けと分配作業が行われていました。

個の様子を見ていると、本当に人々の生活に根差して受けつがれてきた行事なのだということがよくわかりますね。
今晩はみなさんごちそうなのでしょう。

いかがだったでしょうか。
実際、日本人である私たちがこの様子を見に行くと、気分が悪くなる人々もいたのは事実です。
しかし、私たちの日常では、この光景が隠されているだけであって、ないわけではないのです。
命をいただく。
言葉ではわかっていても、本当にそのことが私たちの生活では実践できているのでしょうか?
見たくないものは見ない、知りたくないものは知らなくていい。
はたして、それで本当に私たちは大切なものを理解することはできるのでしょうか。
しっかりと自分たちが多くの命によって生かされていることに向き合うことこそ、真の共生社会を創っていく上では大切なことではないのではないか、そんなことを考えさせられた一日でした。