262【奈良紀行】大和の地にあり、大阪や京都へも近く、軍事や政治の要衝だった『郡山城』

百名城/続・百名城(Castle)
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奈良県は、長く歴史の中心にあって、当時の有力な武将たちによって様々な歴史を動かすようなできごとが繰り広げられてきた地であります。
そして、この奈良には、豊臣秀吉の治政の時代、その弟豊臣秀長が城主として大和・紀伊・和泉100万石の中心であった郡山城があります。
豊臣の近親が納めていたこともあり、豊臣方の有力な城でありました。

ところが関ヶ原の戦いを境に、豊臣方の権威は失墜していきます。
郡山城も例外ではなく、近畿圏の中心であった郡山城はそのすべてが取り壊されてしまいます。

その後は、領地の大きさはずいぶん小さくはなりましたが、郡山藩の藩庁として、江戸の時代も有力な城主を有して、この地を治め続けます。
残念ながら、明治維新による廃城令によって、郡山城の建物はすべて取り壊されますが、人々の強い願いによって、復元や城域の修繕など、気軽に訪れることができる城跡として、地域の人々に親しまれているのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 歴史は勝者が作っていく。しかし、敗者たちが積み重ねてきたことがあってこその歴史でもあり、そこにもまたドラマがあるのです。

奈良県の日本百名城・続日本百名城の記事です。

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郡山城

郡山城は、筒井順慶が織田信長の後援によって、松永久秀を破り、大和統一の偉業をなし遂げたのち、天正8年(1580)に筒井順慶が縄張りを行い、一国一城令に基づいて拡張をすすめ、天正11年(1583)に天守閣が完成しました。
後に、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が入り、豊臣家による支配がはじまります。
現在残っている郡山城の縄張りは、秀長の時代のものといわれています。
文禄5年(1596)には、五奉行のひとりであった増田長盛が入り、城下町の完成しました。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにて西軍が敗北すると、郡山城は徳川方に接収され、取り壊しとなりました。
その建物のほとんどは伏見城に移されたのだそうです。

その後、郡山城に配された城主によって、荒れ果てていた城郭の修築が行われることとなります。
元和4年(1618)には、大坂の陣後の大坂を立て直した、大坂城主の松平忠明が郡山城に入ります。
郡山城の諸門は以前移築していた伏見城から再び郡山城に移され、近世の郡山城がここに整備されました。
享保9年(1724)以降は幕末まで柳沢氏の居城として栄えましたが、明治維新後に廃城となり、すべての建物が取り壊されますが、市民による郡山城の復興の声の高まりから、追手門の復元などが進められてきました。

アクセス

近鉄郡山駅から徒歩7分、もしくはR郡山駅から徒歩15分と、非常にアクセスのよい城跡です。

郡山城へ行ってみた

追手向櫓

追手向櫓は対面にある追手門を守るために建てられた櫓です。
1987年に復元されたものです。

追手東隅櫓

追手東隅櫓も追手門を守備する櫓でした。
こちらもまた、1984年に復元されました。

追手門

追手門(梅林門)は豊臣秀長の時代に築かれたといわれている門です。
豊臣方の手を離れたとき、伏見城に移築された建造物の一つです。
その後、この地に再び移築されることになり移されましたが、明治政府の廃城令によって取り壊されています。
その後、築城400年記念の1980年に復元されました。

追手門を抜けると、空堀の向こうに天守台が見えました。

堀を越え、対岸の本丸跡へ向かいます。

柳澤神社

現在、本丸跡には柳澤神社があります。
柳澤氏の初代藩主であった柳沢吉里の父、柳沢吉保を祀る神社で、明治13年(1880)に創建されました。
元々は、現在の郡山城跡のすぐ南にある二の丸跡(現奈良県立郡山高校)に社殿が建てられていましたが、2年後の明治15年(1882)に現在の本丸跡の場所に移されました。

天守台

郡山城の天守については、長らくその存在が確認できずにいたそうなのですが、平成26年の発掘調査で礎石が発見されたことから実在していたことがはっきりと確認されました。
後述している『さかさ地蔵』にみられるように、石仏や石塔なども転用された石垣になっています。

この天守は関ヶ原の戦い後に解体されて以後は再建されなかったようです。
写真にもあるように、現在の天守には天守台上に上がるための明治時代に付けられた階段がつけられています。

さかさ地蔵

郡山城天守台の石垣には。転用石と呼ばれる石仏、墓石などが使われています。
郡山城の築城に際して、築城のための石不足に直面します。
その時に、多くの寺にあった庭石や礎石、石仏、墓石、地蔵などが接収され、石垣に使われたのです。
この写真のさかさ地蔵もその一つで、石造りの左手に宝珠、右手に錫杖を持った約90cmの地蔵菩薩像が逆さに積み込まれています。

いかがだったでしょうか。
一度は敗者の城として取り壊されて荒廃したり、廃城令によって取り壊されるなど、歴史の中心である近畿圏内にあるがため、怒涛のような歴史を積み重ねてきている郡山城ですが、地域の人々から愛され、非常に見学のしやすい城として才日され続けています。
ここに金匱の中心があった時代に思いをはせながら、のんびりと巡ってみてもいいですね。