270【沖縄紀行】沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴する平和祈念資料館を併設している『ひめゆりの塔』

九州・沖縄地方(Kyusyu/Okinawa)
この記事は約5分で読めます。

沖縄南部は太平洋戦争末期、最後の激戦地となり、アメリカからの多数の攻撃を受けたために多くの被害者が出た地域です。
そのため、平和祈念公園や、今回紹介しているひめゆりの塔など、戦争に関する跡がたくさん残されている地域です。

ひめゆりの塔は、沖縄戦の際に戦争に従事させられていた多くの学徒が最期を遂げたガマ(自然洞窟)に建てられています。
実際にその場に訪れてみると、沖縄の美しい自然の中に、もの悲しい雰囲気が漂っている場所です。
だからこそ、この場所で感じられる沖縄戦の悲しい歴史をしっかりと学び、今の沖縄の平和がその上にあることをしっかりと理解することが、大切なのではないでしょうか。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 沖縄戦最後の激戦地だった沖縄南部。そこに残る壕跡から今ある平和について考えてみよう。

沖縄の戦争と平和に関する記事です。

309【沖縄紀行】沖縄南端の美しい景色には、悲しい歴史がある『平和祈念公園』
沖縄南端の糸満市のあたりは沖縄戦跡国定公園とされており、数多くの慰霊施設や資料館などが残されています。今回紹介している平和祈念公園もその中の施設の一つであり、毎年沖縄で行われている沖縄全戦没者追悼式はこの場所で行われています。
293【沖縄紀行】沖縄戦の激戦、そして史跡の中でも、その雰囲気は…『旧海軍司令部壕』
沖縄と切っても切り離せないのが先の大戦での負の歴史の数々です。これまでも、いくつか記事を書いてきましたが、今回も沖縄戦の生々しさを今もなお伝え続けている戦争史跡です。今回紹介している旧海軍司令部壕は、戦時中に沖縄の那覇空港近くにある丘の中を掘って造られた壕です。
012 【沖縄紀行】基地と音楽の街コザを散策する
沖縄といえばビーチ?いやいやそれだけじゃないのが沖縄の深さ。沖縄の辿ってきた歴史と共に、新たな楽しみ方を紹介します。

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔は、太平洋戦争沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた、伊原第三外科壕に建つ慰霊碑です。
慰霊碑の名称はこの伊原第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんで名づけられています。

沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒297名は看護要員として南風原陸軍病院の勤務についていました。
戦闘が激しくなるにつれて負傷兵が激増し、壕は満員、分室も設けられるほどとなります。
日本軍の首里撤退がせまるにつれ人々は南に下り、病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務が続けられました。
そして第三外科が現在のひめゆりの塔の建つ壕に設けられました。

6月18日いよいよ米軍が迫ってきた中で、学徒たちは突然陸軍病院から解散を命ぜられます。
そして翌19日には、伊原第三外科壕は敵襲を受けます。
アメリカ軍によってガス弾が投げこまれて、壕内は地獄圖絵と化し、壕にいた96名のうち奇跡的に生き残ったのはひめゆり学徒隊の生徒が4名と軍医が1名のみでした。
その他の壕にいた職員生徒たちは、壕を脱出できた人々もいましたが、沖縄最南端の断崖に追いつめられて、多くは消息をたちます。
南風原陸軍病院に勤務した全看護要員の三分の二がこうして最後をとげました。

ひめゆりの塔はこのような凄惨な最期を遂げた人々の慰霊のため、真和志村民の協力により昭和21年4月7日に最初のひめゆりの塔が建てられました。
沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員16名、そして生徒200名の戦没者を合祀しています。

ひめゆりの塔から壕跡を挟んだ奥には納骨堂が建てられており、その奥には「ひめゆり平和祈念資料館」があります。
また、敷地内には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられています。

アクセス

公共交通機関ではバスのみがアクセス手段となります。
「ひめゆりの塔前」バス停で下車しましょう。

ひめゆりの塔に行ってみた

それではひめゆりの塔へ行ってみたいと思います。

ひめゆりの塔ひめゆり平和祈念資料館の敷地はこのようになっています。
中央にあるひめゆりの塔の前にある大きな口を開けたガマ(自然洞窟)が強く印象に残る場所です。

ひめゆりの塔

こちらの大きな口を開けたガマ(自然洞窟)が、伊原第三外科壕です。
この地に元々あったガマですが、沖縄戦の時に南風原町の沖縄陸軍病院第三外科に配属されていた軍医・看護婦・ひめゆり学徒が避難した場所です。
1945年6月19日の米軍の攻撃により、ガマに入っていた約100名のうち80名あまりが亡くなった場所です。
そのうち42名がひめゆり学徒と教師でした。

上の写真の右側に建てられている小さな慰霊碑が古いひめゆりの塔です。
終戦翌年の1946年に付近の収容所にいた真和志村民によって建立されました。

中央手前にあるのが、沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の教師・学徒戦没者の刻銘碑です。
こちらは終戦後間もない1947年に建てられたため、戦没者全員は刻まれてはいません。

奥に見える沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校のシンボルである百合のレリーフが模られた白く大きな慰霊碑が、1957年(戦後13年忌)に建立された新しいひめゆりの塔です。
裏にある納骨堂を覆う白壁には、学徒戦没者の名前が刻まれています。
さらに2009年には改修され、戦後64年の間に新たにわかった学徒戦没者も追記されました。
浦にある納骨堂には、伊原第三外科壕や伊原第一外科壕、荒崎海岸などから収集された遺骨が眠っています。

ひめゆりの塔のそばには、沖縄戦殉職医療人之碑と、陸軍病院第三外科職員之碑が建てられています。

敷地内には、沖縄戦とひめゆり学徒隊の解説が書かれた資料がありました。
沖縄戦が拡大していき、人々が沖縄南部に追い詰められていっている戦況の様子が語られていました。

1945年3月、米軍の上陸作戦開始とともに沖縄の男女学徒は戦場への動員が始まり、ひめゆり学徒隊は3月23日、南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。
4月1日の米軍上陸後の激しい戦闘により負傷兵が急増していき、5月下旬になると米軍の攻撃が日本軍司令部のある首里まで迫ってきます。
5月25日には軍の南部退命令によって、南部地域への撤退が始まります。
学徒たちも激しい砲弾の中、南部地域までたどり着きます。

ところが約1か月後の6月18日夜に、軍から突然ひめゆり学徒に「解散命令」が下されます。
突然外に放り出された学徒たちは、追い詰められていき場を失っていきます。
ひめゆり学徒たちはさらに南端にある海岸へと追い詰められていきます。
米軍による攻撃、海へ身投げをする人々、手相弾によって自決する人々。
そして多数の消息不明の学徒。
数えきれないほどの命がこの地で失われました。

ひめゆり平和祈念資料館

そして、ひめゆりの塔の奥には、この地で亡くなった方々の慰霊と平和への願いを発信する場として、ひめゆり平和祈念資料館があります。
1989年に開館したこの資料館では、写真や遺品、生き残った学徒の証言集などがあり、沖縄戦とひめゆり学徒の実相を伝えています。
特に最後の展示室には、犠牲になった方々の写真が飾られている部屋があります。
その部屋の資料を見たときの気持ちは、実際に行ってみなければわからないかもしれません。
今回写真の掲載はしていませんので、ぜひご自身で訪れて見てください。

いいかがだったでしょうか
深さ14mもある壕が発する、ここであった悲しい歴史を物語っている独特の雰囲気は、実際に行ってみなければ感じ取ることができないものでもあります。
どうしてもこの沖縄南部の地域は、こういった戦争に関する史跡が多い場所にはなりますが、沖縄に訪れた際には一度は行程に入れておきたいエリアです。