世界には歴史を物語る遺跡や史跡が数多くあります。
どれもそれまでのその国や地域が積み重ねてきた歴史が残されており、それをある程度は自由にめぐることができることは、現代に生きるものとしては非常に恵まれた時代に生を受けたものだと思います。
何百年も何千年も前の物なのに、現代の人間ですら、機会もなしに人の手だけで造ることが難しいものなどに遭遇した時は、そこで働いていた多くの人々の生き生きとした姿が頭に浮かぶものです。
このように、世界には輝かしい歴史を現代の我々に伝えてくれる遺跡や史跡が多数ある一方で、それとは異なった理由でその姿かたちを現代まで残そうと尽力されているものもあるのです。
俗にいう”負の遺産“と呼ばれるものです。
人類の歴史は、輝かしい成功体験の積み重ねだけでここまでやってきたのではありません。
人類が平和且つ、共存して生きていく世界を創るためには、成功体験の何十~何百~何千倍もの失敗や過ちも乗り越えてきているのです。
平和な世の中をつくるために、歴史上では多くの血が流されてきました。
人々が安定した住まいや建造物を造るためには、数々の失敗や、戦乱などを乗り越えてきました。
そういった失敗や過ちを過去から学び、現代の私たちに託されたバトンを次の世代へつないでいかなければならないのです。
そういった意味で、そういった人類の負の歴史の側面を持った”負の遺産”は、新たな未来を創っていくためのカギでもあるのです。
というわけで、今回のわきみちは、
負の遺産
“負の遺産“とは、これまでの人類史の中で、人類が犯した過ちや悲惨な出来事を伝え、そこで起こった悲劇を、これから歩んでいく未来には二度と起こさないため、人類すべてに対する戒めとなる遺跡や史跡を指しています。
ユネスコの世界遺産でも、明確に定義はされているわけではありませんが、”負の世界遺産”として、同様の括りとしてとらえられている物件が登録されています。
今回の記事では、当ブログで紹介している、人類の”負の遺産”と考えられる物件をピックアップしました。
当ブログで紹介してきた負の遺産
キリングフィールド(カンボジア)

キリング・フィールドは、ポル・ポト政権下の1976~1978年の間に、カンボジア自国民による大量虐殺が行われた刑場跡のことであり、カンボジア全土でも100か所以上も見つかっているのだそうです。
その中でも最も有名な場所が、この記事で紹介している首都プノンペンにある『チュンエク キリング・フィールド』です。

トゥール・スレン虐殺犯罪博物館

トゥール・スレン虐殺犯罪博物館は、もともとは高校だったさびれた建物。
ここでは、ポルポト率いるクメール・ルージュが収容施設として使用し、この場で2万人ほどの収容者が虐殺されたとのこと。
政治犯収容所S21とも呼ばれたこの施設は、チュンエク キリング・フィールドの北10kmほどのところに位置しており、S21から人々がこちらに送り込まれ、処刑されていったのだということです。
凄惨な虐殺が行われていたこの現場は、プノンペンを制圧したベトナム軍によって発見されます。しかし、すでにそのときクメール・ルージュが撤退した後だったこの施設には、虐殺で殺された14名の腐乱死体がそのまま放置されていたのだそうです。

ベトナム戦争証跡博物館

20年も続き、ベトナム各地に深い傷跡を残した1955年~1975年まで続いた第二次インドシナ戦争ともいわれるベトナム戦争。
南北に分かれていたベトナムが、ベトナム統治を巡って繰り広げられ、1955年から1975年までの20年にもわたり、数百万人もの死者が出た戦争です。
この戦争は、冷戦時代に行われ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)を支援するソビエト連邦と、南ベトナム(ベトナム共和国)を支援するアメリカ合衆国との代理戦争でもありました。
ベトナム戦争はそれまでの戦争とは異なり、当時その様子は、多数のジャーナリストによって世界中に報道された戦争でした。
そのため、戦争という名目のもとに、あらゆる戦争の非人道的な部分がクローズアップされる結果となったのです。
そういった、ベトナム戦争の現実を見る人に伝える数多くの資料が展示されているのがこのベトナム戦争証跡博物館なのです。

シドアルジョ泥火山

2006年5月、シドアルジョ県の南部にあった天然ガスの採掘場にて、現場から大量の水蒸気が吹き上がり、それと共に、高温の泥と有毒ガスが噴出を始め、シドアルジョ泥火山となりました。
大量の泥だ絶え間なく噴出し、最大で18万立方メートル/日もの泥が噴出し続けており、2020年の現在になっても、まだ噴出は止まっておらず、専門家の予測ではまだ15年以上この状態が続くのではないかと言われています。
この泥火山の被害は甚大であり、この泥の層の下には15もの村が沈んでいるのです。
そして、この災害によって75,000人以上の人々が住む場所を追われたのです。
現在はこの噴出し続ける泥の流出を防ぐために、周辺は堤防が築かれていますが、噴出の勢いが強く、堤防の構築と決壊、たまった貯水の排出などのために、大規模な土木工事によって大きな被害が周辺に広がらないように日夜対策が行われています。

ゴレ島(ユネスコ世界遺産)

ゴレ島は、1989年に最初に登録された12件の世界遺産のうちの一つであり、負の世界遺産としても初めて登録された場所です。
アフリカ西岸のセネガルの首都である、かつての有名なパリ・ダカールラリーの終着点としても有名なダカールから沖合3kmにある小島です。
ここは、オランダやイギリスの侵出や、フランス領による植民地支配がはじまるなど、ヨーロッパの国々に統治される植民地時代を迎えますが、その中で、かの悪名高き奴隷貿易であった三角貿易が行われたのです。
そんな奴隷貿易の中心となった奴隷の家が今は観光地として残されています。
そして、この地から行われていた奴隷貿易という人類の負の歴史を今もなお伝え続けています。

ハヌマンドカ(ユネスコ世界遺産)

ハヌマンドカは、17世紀頃に建てられた王家一族の住居でした。
ネワール文化による建築様式である木造で煉瓦を用いた屋根や梁が美しい特徴を持つ王宮である一方で、西洋で見られるようなバルコニーを持つ白い建物の異なった様式を併せ持った建築になっています。
ところが、2015年4月、ネパールを大地震が襲います。
地震の被害は甚大であり、ネパールだけでも死者が8000人を超える大惨事となりました。
このハヌマンドカも甚大なる被害を受けました。
2017年段階では、地震の被害によって屋根が大きく損壊したため、つっかえ棒で支えられた箇所が多数あり、修復のための足場があちらこちらに組まれており、自然災害の恐ろしさを今もなお私たちに伝え続けてくれています。

旧生駒トンネル

かつて1964年まで大阪と奈良とを結んでいた、現在は使われていない旧生駒トンネルです。
(内部で新線の一部として使われているところはあります。)
車両規格の関係で使われなくなったということなのですが、こちらのトンネルの建設や運用にあたっては忘れてはならないことがあります。
それは、映画『パッチギ』で一部セリフにあったように、建設にあたって朝鮮半島からので稼ぐ労働者が関わっていた点や、大正時代の建設時に起きた落盤事故、戦後に起きたブレーキ故障による追突事故など、歴史的に学び、今日に活かしていかなけらばならないことが多くあるのです。

ザンジバル島のストーンタウン(ユネスコ世界遺産)

このサンジバル島ストーン・タウンは奴隷貿易の中心であったこともあり、旧奴隷市場が残されています。
元々はアラブ商人たちによって始められた旧奴隷市場には、東アフリカ全域から集められた奴隷がここで売買されていたのでした。
実際にストーン・タウンでは1873年に奴隷市場が閉鎖されるまで行われ続けていたのでした。
現在、奴隷市場だった場所の北半分にはアングリカン大聖堂が建てられています。
その南には旧奴隷市場が残されており、奴隷たちが収容されていた部屋がそのまま残されています。
また、実際に奴隷たちの首につけられていた鎖につながれた5人の奴隷の石像が立てられており、ここが元は奴隷市場であったことを物語っています。

ミーソン聖域(ユネスコ世界遺産)

ミーソン聖域は、ベトナムの中部から南部にあったチャンパ王国時代のヒンドゥー教シヴァ信仰の聖地です。
4世紀末に建てられたとされているリンガ寺院から、13世紀頃までに建てられたレンガ造りの遺跡等が多数残されています。
このミーソン聖域は、ベトナム戦争のアメリカ空軍・B-52の爆撃によって大半の遺跡が破壊されています。
今もなお、破壊された展示物や建築物、爆弾によってできたクレーターが遺跡のすぐそばにあったりするところからも、戦闘の激しさもうかがうことができる遺跡なのです。

泰緬鉄道

泰緬鉄道(旧泰緬鉄道)は、第二次世界大戦中に日本軍によって、タイからビルマへの物資や人員輸送を目的として建設された鉄道路線です。
日本軍がこの泰緬鉄道を建設するにあたっては、劣悪な生活環境と、過酷な建築労働のため、捕虜や周辺地域の労働者など40万人近くが従事し、そのうちの10万人ほどがこの最中に亡くなったとされています。
そのため、「死の鉄道(Death Railway)」の名でもよく知られています。

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔は、太平洋戦争沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた、伊原第三外科壕に建つ慰霊碑です。
慰霊碑の名称はこの伊原第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんで名づけられています。
沖縄戦末期、アメリカ軍の奇襲を受けた伊原第三外科壕では、壕にいた96名のうち奇跡的に生き残ったのはひめゆり学徒隊の生徒が4名と軍医が1名のみでした。
その他の壕にいた職員生徒たちは、壕を脱出できた人々もいましたが、沖縄最南端の断崖に追いつめられて、多くは消息をたちました
ひめゆりの塔はこのような凄惨な最期を遂げた人々の慰霊のため、建てられました。
また、敷地内には「ひめゆり平和祈念資料館」があり、ここで起きた出来事を後世に伝える資料が展示されています。

いかがだったでしょうか。
今回は”負の遺産”に焦点を当て、当ブログで紹介している記事を集約してみました。
どこも、晴れやかな気分になる場所ではありませんが、どこも強烈な印象を私たちに残し、私たちに考えるきっかけを与えてくれます。
これらの中でどこか一つでも気になったところがあれば、これからの未来を考えるきっかけの一つになれば、と思います。