273【福井紀行】北陸地方に唯一残る現存天守『丸岡城』

百名城/続・百名城(Castle)
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今回は北陸に唯一残る現存天守、福井県の丸岡城について紹介していきたいと思います。
一見すると小さくコンパクトな天守ではありますが、現存天守の風格漂う、見に来た人々が大満足できる天守です。
その造りをじっくりと眺めてみると、豪雪地帯である北陸ならではの工夫が施された、当時の建築手法がよく伝わる天守となっているのです。

そんな丸岡城を、過去福井県を襲った大地震によって、丸岡城は一度倒壊してしまいます。
しかし、倒壊した部材の大部分を用いて天守は再建され、現在もなおその姿を保ち続けています。

今回はそんな現存天守丸岡城に訪れて見ましょう。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 北陸地域ならではの工夫が施された現存天守丸岡城を見に行ってみよう。

福井県に関する記事です。

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丸岡城

丸岡城は、福井県坂井市にある城であり、現在も天守が残っています。
外観二層、内部三層の石瓦の望楼型天守です。
別名霞ヶ城と呼ばれるこの城は、北陸地域で唯一残る現存天守の一つです。

その建築年は現存天守の中でも最古のものではないかといわれていたのですが、2019年提出された報告によって、江戸時代の寛永年間(1624年-1644年)に建造されたということが明らかになりました。

織田信長は天正三年(1575)に一向一揆の拠点であった豊原を攻略し、柴田勝家を越前の守護職としておきます。
勝家によってこの豊原に甥の勝豊を置きます。
丸岡城のルーツは、織田信長の家臣であった柴田勝家の甥の勝豊によって丸岡町の東にある豊原に築城された城であるといわれています。
しかし、その時の城は、城とはいっても一時しのぎの砦のようなものだったと考えられます。
その後天正4年(1576)に勝豊が豊原から丸岡の地に城を移し、新たに築城し、城下町づくりを始めました。

その勝豊は天正10年(1582)に長浜城主となりますが、関ヶ原合戦後結城秀康が越前国主として福井城に入り、丸岡城主には秀康の家老であった今村盛次になりました。
結城秀康の子、松平忠直の時代になると、家老の本多富正と今村盛次との間での争いがきっかけとなり、盛次は改易となり、慶長18年(1613)に本多重次の子であった成重が城主となり、以後4代続くこととなります。
城郭や城下町は、本多家の時代、成重から3代重昭の間に完成したとされています。
現在の城郭はこのころ完成したとされており、それまであった天守を改築したのではないかと考えられています。
内堀と河川を利用した外堀、それらが侍屋敷や寺社、民家を区分けしていました。
元禄9年(1696)には、有馬清純が城主となり、以後は8代にわたり老中、若年寄など数々の幕府要職をつとめました。

明治維新を迎え、廃城令によって天守以外は全て解体され、天守も一時期は民間の手に渡ります。
しかし、丸岡町によって明治34年(1901)に天守が買い戻され、城跡が公園として整備され、町の公会堂としても活用されることとなります。
昭和9年(1934)には国宝に指定されますが、昭和23年(1948)に福井県を襲った福井大地震によって倒壊します。
その後、昭和30年(1955)に倒壊時に出た部材の7~8割を用いて天守が再建されました。

アクセス

JR丸岡駅から東に2.5kmほどの場所にあります。
駅からはバスに乗り、丸岡城前にて下車します。

丸岡城に行ってみた

それでは、丸岡城に行ってみましょう。

駐車場からは石垣に沿った階段を上がっていきます。

丸岡城天守

現存天守であるため、非常に観光客は多いと思われます。
しばらく歩くと天守が見えてきました。

天守下にある石製の鯱(しゃち)は、もともとは木彫で銅板張りであったものを、昭和15年~17年の修理の際に、石製の鯱に改められました。
戦時下であったため元々のように銅板で造ることが難しかったこともあったため、天守閣の石瓦と同質の石材でつくりかえられたのだそうです。
しかし、この石製の鯱も福井大震災の際に落下し、現在のこの様な形で残っています。
現在天守閣の上にのっている鯱は、昭和27~30年の修復時に、もとの木彫銅板張りに復元されています。

様々な角度から天守を眺めてみました。
この石垣も現存しているものです。

それでは天守に上ってみましょう。

かなりの急坂です。
天守の内部も急な階段ばかりなので、見て回るのが少し大変かもしれません。

天守台と天守の間をよく見てみると、サイズがあっていないことが分かります。
そのため、その隙間の部分に腰屋根を掛けることによって、冬の豪雪時につもった雪による水が、天守と天守台の間に入り込まないような工夫がなされています。

ここからが丸岡城内部です。

内部の階段はこの角度です。
観光者用に補助縄が設けられていますが、昇り降りは注意が必要です。

丸岡城では城郭建築では珍しい石瓦が用いられています。
この地域が豪雪地域だったため、一般的に用いられる土製の瓦では寒暖差によって割れてしまうため、寒暖差があっても強い石瓦が用いられているのだそうです。
しかし、そのため城全体の重量は相当な重さになっているのだそうです。

往時の丸岡城の様子を表した模型です。
現在、ここにはある内堀は埋められてしまいましたが、復元しようという話が出ているのだそうです。

福井大地震後の丸岡城の様子です。
この状態から数年かけて、7~8割は現存する部材を用いて再建できたことは奇跡でしょう。

最上階には梁がむき出しになった中に、曲がった大木が組み合わされている様を見ることができます。

人柱お静慰霊碑

天守の前には、人柱お静の慰霊碑があります。

柴田勝豊が丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れていました。
そのため、人柱を入れるように進言するものがあり、人柱として選ばれたのが、二人の子をかかえて苦しい暮しをしていた片目のお静でした。
お静は子の一人を侍に取りたててもらうことを約束に、天守閣の中柱の下に埋められました。
その後、天守閣は立派に完成したものの、勝豊が移封されたことに伴って、お静の約束は守られませんでした。
お静の霊はこれを恨み、毎年、春雨によって堀があふれるということが起こっていました。
そのため、人々は小さな墓をたて霊をなぐさめた伝説がこの慰霊碑の由来となっています。

牛ケ島石棺

丸岡城牛ケ島の東方にあった御野山古墳から出土したといわれている牛ケ島石棺が展示されています。
今から約1600年前の古墳時代のものと考えられていますが、橋として転用されていたのだそうです。
昭和45年(1970)に個々の場所に移されました。

大蛇の井戸

こちらは井戸が残されています。
豊原がもともと一向一揆の最後の拠点であったため、この地に城を築城した後もしばしば一向宗の残党が攻撃を仕掛けてくることがあったのだそうです。
その際に、この井戸の中から大蛇が現れ、城の周りに霞をかけることで城の危機を救ったと言い伝えられています。
そのため、丸岡城が霞ヶ城の別名を持つ所以になっています。

いかがだったでしょうか。
激しい豪雪地帯の北陸。
その厳しい土地にあっても、天守を維持する様々な工夫によって、今もなおその荘厳な姿を残している丸岡城。
現存天守独特の歴史を感じる雰囲気は、ここでしか味わうことができない貴重なものなのです。