276【三重紀行】ナイト〇クープにもとりあげられた、模擬天守をもつ『伊賀上野城』

百名城/続・百名城(Castle)
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三重県の伊賀というと何を思い浮かべますか?
十中八九頭の中にはアレが思い浮かんだのではないでしょうが。
そう、”忍者”が。
確かに伊賀では、今もなお、忍者を前面に押し出した町おこしが行われています。

この伊賀という場所ですが、京都や奈良と、伊勢を結ぶ街道の宿場町として栄えていた町です。
交通の要衝であるため、主変様々な地域の影響は受けつつも、独自の文化を築き上げてきました。
また、歴史的な資産を観光スポットととして活かし、大阪や京都などの都市圏からもそういったスポットを求めたり、自然の中での温泉やキャンプ、農業体験なども売りにした町づくりが行われています。

そんな伊賀では、この地に残る城も重要な観光資源なのです。
今回紹介している伊賀上野城もその一つであり、築城技術に長けた藤堂高虎の城がかつては建っていたということでも有名であります。
しかし、現在建っている天守は、その藤堂高虎のものではありません。
では、どのような紆余曲折があって、今日の天守につながっているのでしょうか。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 再建を繰り返してきた伊賀上野。そこには、この城を思い、行動に移してきた人々の足跡があるのです。

三重県に関する記事です。

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伊賀上野城

伊賀上野城は、三重県伊賀市、盆地になったこの地域の中心に立つ城です。
伊賀上野城を風疹として城下町が形成され、かつての宿場町名残を現代に伝えています。
現在の天守は、三層の優美な造りとなっており、別名白鳳城ともよばれ、地域の人々から親しまれている城なのです。

ところが、現在のこの天守は、昭和10年(1935)に再建された、いわゆる模擬天守なのです。
(模擬天守とは、天守の存在や様式が確認できていないか、特定に至らない状態で建てられたものをいいいます。)
では、それまでに伊賀上野城はどのような歴史をたどってきたのでしょうか。

初代天守:筒井定次の城

天正13年(1585)、当時は一つの国として存在していた伊賀の国を治める筒井定次が、元々は平楽寺・薬師寺のあった台地に三層の天守を築きました。
豊臣秀吉配下だった筒井定虎は、大坂の地を守る目的を持って、城郭や城の北側を中心とした城下町を開発していきます。
豊臣秀吉の没後、関ヶ原では東軍について戦った定次ではありましたが、数々の悪政が明らかとなり(これには陰謀論もあるそうです。もともとは豊臣家についていた大名だっただけに、いいがかりをつけられ危険視された可能背もあるそうです。)徳川家康によって慶長13年(1608)に改易されました。
その後、初代天守についてはしばらく残ってはいたものの、寛永10年(1633)頃に暴風雨で倒壊したと考えられています。

二代天守:藤堂高虎の城

定次が改易となったのち、宇和島・今治城主であった藤堂高虎が伊賀・伊勢・伊予など合わせて22万石を与えられ、城主として入ります。
高虎は定次の作った本丸を西に拡張していき、現在も残る有名な高さ約30メートル高石垣を築きます。
そして、定次時代とは反対に、大坂の豊臣方との戦いに備えるために築城していきます。
しかし、慶長17年(1612)に築城中で完成間近だった五層の大天守は、強大な暴風雨のため倒壊してしまいます。
その後、幕府は城普請を禁止したことにより、天守が再建されることはありませんでしたが、伊賀国の藩政はここで行われ続け、幕末まで続くこととなりました。

三代天守:川崎克の城

現在の天守は、地元出身の代議士だった川崎克氏が、昭和10年(1935)に私財を投じて藤堂天守時代の天守台に建てた模擬天守です。
築城にあたっては、耐震耐火のために鉄筋コンクリート様式にする案もあったのだそうですが、日本の伝統建築のよさを残していくためにも九蔵建築とすることにこだわって造られたのだそうです。
木造三層の大天守と二層の小天守からなる複合式天守であり、伊賀文化産業城という名称をもっています。
また、その優雅な姿から白鳳城とも呼ばれています。

アクセス

伊賀鉄道伊賀線の上野市駅下車、徒歩約8分で到着します。

伊賀上野城に行ってみた

それでは、伊賀上野城へ行ってみましょう。

天守が見えてきました。

天守奥には藤堂高虎が本丸の西に築いたということで有名な高石垣があります。
高さ約30mもあるこの高石垣は、大阪城の石垣と同じく日本一の高さを誇っています。

こちらが伊賀上野城の模擬天守です。
大天守と小天守とが連なる特徴的な外観ですね。

鯱が置かれていましたが、どこにあったものなのかはわかりませんでした。

入場料は大人が600円、小人が300円です。

小天守閣

小天守に入ると目の前には忍び井戸があります。
隠し通路があるかも!?ということで、ナイト〇クープで取りあげられていました。
結局、何もありませんでしたが…。

大天守一階

一階には刀などの展示物が置かれています。
それ以上に、観光地の顔出しパネルがたくさんあったことのほうがインパクトがありました。

高虎像(木彫)と鎧冑です。

大天守二階

二階には様々な各地の天守の写真が飾られていました。

大天守三階

三階にはまず、三代天守を建造した川崎克氏の像があります。

そして、最上階の格天井を見上げると46枚の1メートル四方の色紙 書画の色紙がはめ込まれ天井絵巻があります。
日本画家の横山大観はじめ著名な画家、書家、政治家などから寄贈されたものです。

大納戸蔵跡

初代 筒井定次の城があったとされている場所の北側にある大納戸蔵の跡です。

いかがだったでしょうか。
幾度となく建て替えらえれ、往時の姿を見ることができないのは残念なのですが、この地に住む人々の手によって、新たな城の歴史が刻みだされた痕跡をみることができることも、伊賀を知る一つの方法ではないでしょうか。
そして、訪れた際にはぜひ井戸をお忘れなく!