284【三重紀行】時は南北朝時代から伊勢神宮を抑える戦略的要衝『田丸城』

百名城/続・百名城(Castle)
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三重県にはいろいろな時代の城が残されています。
今回紹介している田丸城は、南北朝時代の城であり、野面積みの美しい石垣が残る城跡は、現在も桜の名所として市民の方々から親しまれています。

南朝のあった吉野と、外港として重要だった伊勢神宮の大湊とを結ぶ街道の要衝にあったこの城は、その戦略的な重要さから、幾度となく戦いに巻き込まれることとなります。
また、織田信長によって近世城郭に改築が施され、城主を変えながら、江戸時代を経て明治にいたるまでこの地を治め続ける城となります。

そのため、この成り立ちからもわかるように、南北朝時代の中世城郭と、戦国期の近世城郭とをあわせもつ遺構が残る城なのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 戦略的要衝にあった南北朝から戦国期の様相を併せ持つ城跡を見に行こう。

田丸城といえばここは外せない。伊勢神宮の記事です。

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三重にある百名城の記事です。

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田丸城

田丸城は、三重県にある平山城でした。
田丸城の立つこの地は、伊勢神宮を抑える戦略的要衝として幾度かの争奪戦が繰り広げられた場所にあります。
その創建は古く、室町時代の南北朝動乱期であった延元元年(1336)に、北朝と対立した後醍醐天皇を奈良の吉野に迎えようと伊勢に入った北畠親房・顕信親子が、この玉丸山に城塞を築いて、後の南朝の拠点としたことが始まりとされています。
南朝の置かれた吉野から伊勢神宮の外港であった大湊港に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては最重要路線でした。
そのため、その要衝にある玉丸城は、北朝・南朝の攻防の舞台となりましたが、康永元年(1342)には、足利尊氏によって落城させられます。

室町時代には、伊勢国司となった北畠氏は多気に館を構えますが(続日本百名城 多気北畠氏館)の支城として、伊勢志摩方面の支配拠点として活かされていきます。

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天正3年(1575)になると、織田信長の次男で信雄が北畠氏の支配を受け継ぎ、玉丸城に大改築を加えます。
三層の天守閣を持つ本丸をはじめ、二の丸・北の丸を設け、田丸城が誕生し、織田信長の伊勢支配の拠点となります。
しかしその後、天正8年(1580)に、この天守閣は焼失してしまいます。

江戸時代に入ると、この地域は田丸藩となり、元和5年(1619)には徳川御三家である紀州徳川家の納める所領となります。
そして、紀州藩主徳川頼宣の家老であった久野宗成が田丸城主として入り、久野家によってその後八代城代が勤められ、明治の時代を迎えます。

明治2年(1869)に廃城となり、明治4年には城内の建物は取り払われますが、昭和3年(1928)に町有となり、現在のように町民に開放されることに伴い、天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構は今も整備されて残されています。
また、別の場所へ移築されていた富士見門は再び城の敷地内に戻されています。
現在は、かつて城内であった場所に玉城町役場および玉城町立玉城中学校があります。

平成29年(2017)には、続日本100名城に選定されました。

アクセス

JR参宮線の田丸駅から徒歩10分で到着します。

田丸城へ行ってみた

それでは田丸城に行ってみましょう。
JR田丸駅からは徒歩10分もかからないのでアクセスは非常に楽です。
元々城の敷地だったところの半分は、現在中学校と町役場になっているため、学校から聞こえてくる声などとともに城跡が残る不思議な光景ですね。

当時の縄張りが表されているところです。
現在のお城広場は、代官役屋敷。
現在の玉城中学校は、大書院。
現在の町役場は、紀州藩士同心長屋があったのだそうです。

本丸周辺の重要拠点は石垣で、全体を土塁や濠で囲む堅牢な造りになっていますね。

富士見門(長屋門)

しばらく進んでいくと、小さな建物と小さな池が見えてきます。

こちらは富士見門(長屋門)であり、明治四年の廃城時に城内の建物は全て取り払われることとなりました。
その際、場内には8か所の門があったそうなのですが、元々は現在の玉城中学校庭から、二の丸に向かうところにあった門なのだそうです。
この富士見門は、明治初年に宮古の乙部氏邸に移されていたのだそうですが、昭和59年に町がこの門を譲り受け、現在の位置に移設復元されたのだそうです。
一度は移設されていましたが、江戸時代中期の原形をとどめた田丸城唯一の現存する建造物です。

蓮池跡

その富士見門の前には蓮池跡という小さな池があります。
元々はこれよりもかなり大きな規模だったようですが、現在は上の写真に写っている程度が残っています。
奥に見えるのは、玉城中学の後者です。

本丸虎口

石垣が二段になっていますが、この一段目の石垣の上が本丸、その上の石垣の上が天守台となっています。

石垣を右手に見ながら進んでいきます。
平山城なので、緩やかなスロープを登っていくと、本丸が見えてきました。

ここは、田丸城内の本丸など各郭への出入り口となる虎口です。
敵が侵入した際に防衛するための工夫が施された場所になります。
石垣、門や建物の礎石などが残されています

天守台

本丸虎口を入ると本丸に到着です。
本丸北の部分には天守台が残されています。

天守台上に上ってきました。

天守台から直下にある櫓台方面を眺めてみました。

櫓台跡

天守台を降りるとすぐ南側に櫓台跡があります。

お城広場

元々代官所があった場所は、現在はお城広場としてグラウンドになっています。

お城広場のそばには、蒸気機関車 C58 414号機が展示されています。

村山龍平記念館

スタンプは、麓にある村山龍平記念館の1階に設置されています。

せっかっくきたのですから、押し忘れのないように!

いかがだったでしょうか。
伊勢神宮エリアから5~8kmほど西にあるという立地から、伊勢神宮とセットで考えられていた重要な拠点であった田丸城ですが、現代では伊勢神宮に参拝に行ったものの田丸城も一緒に・・・とはならないかもしれません。
しかし、伊勢神宮エリアが重要と考えられていたことが、ここに建てられた田丸城からもよくわかるのではないかと思います。
そんな歴史的な要衝を巡る旅も、旅のアクセントにかがでしょうか。