288【神奈川紀行】豊臣秀吉の天下統一を最後まで阻んでいた『小田原城』

百名城/続・百名城(Castle)
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小田原城といえば神奈川県の西側に位置する城であり、現在は関東の中でも中心ではないエリアにある城ですが、豊臣秀吉による小田原征伐以前は、関東一円を支配下に治めていた北条氏が居城とした城です。
この小田原城を中心に、関東の至る所には支城が配置されていました。
そのいくつかは、日本百名城・続日本百名城にも選定されており、以前紹介した小机城・山中城もその一つです。

193【神奈川紀行】関東を支配していた後北条氏の家臣団である小机衆の中心地『小机城』
神奈川県の東側の横浜には中世期に、自然の地形を利用した土塁や空堀を利用した城が多くあったそうです。そのほとんどはかつての城の位置が特定される程度ですが、今回紹介する小机城は現在でも曲輪や空堀などの跡が残されており、当時の縄張を感じることができる城跡となっています。
142【静岡紀行】ここをどのように攻めるのか!?障子堀・畝堀に囲まれた名城『山中城』
静岡県にある北条氏の山城、『山中城』は、石垣を用いず、土塁で構成された戦国期の山城です。特にその堀のつくりに特徴があり、畝堀や障子堀といった北条氏の築城術は、敵の進入を阻むことができる堅牢な城づくりの技術であったとされています。そんな山中城の今を見に行ってみました。

その天守は明治になっていち早く廃城となり取り壊され、天守台自体も関東大震災の被害にあうなど紆余曲折を経て現在に至りますが、天守台も再建され、鉄筋コンクリート造ではあるものの天守も再建されて、現在ではその内部は博物館として市民に親しまれている城です。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 関東を治めた北条氏の代表的な城である小田原城を見に行ってみよう。

小田原城

小田原城は神奈川県西部にある城です。

小田原城が初めて築かれたのは、15世紀中頃に大森氏頼・実頼父子が小田原地方に進出し手小田原を拠点としていたことに始まるとされています。

16世紀初め頃になると、戦国大名であった北条綱氏が小田原を居城としてり、関東支配の拠点としました。
織田信長の死後、北条氏は豊臣秀吉との決戦に備え、小田原城と城下を囲む堀と土塁の整備や、支城の整備によって秀吉の進軍に備えますが、それ以上に秀吉側の動きが、次々と支城が落とされていきます。
天正18年(1590) 4月、天下統一を推し進める豊臣秀吉の小田原征伐によって、北条氏の本拠地であった小田原城は、秀吉の15万ともいわれる大軍に包囲されました。
北条氏は、3ヶ月間籠城しますが、最終的に小田原城を開城をし、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げ、戦国時代は終わりをむかえます

秀吉による小田原征伐後、関東一円は徳川家康が入り、その家臣であった大久保忠世を城主におきます。
しかし、1614年に大久保氏が改易されると城は破却されます。
その後、寛永9年(1632)に稲葉正勝が城主になると大規模な改修工事が実施されます。
貞享2円(1685)に稲葉氏が移された後は、再び大久保氏が城主となり、10代続くことになります。

明治3年(1870)に廃城令に伴って小田原城は廃城となり、売却されます。
城内にあったっ建造物のほとんどは取り壊され、天守台には大久保神社が建造されました。

関東大震災によって天守台が崩壊するなどの影響があり再建が行われますが、一時期天守台上に観覧車が置かれていたこともあるのだそうです。

昭和35年(1960)に現在の鉄筋コンクリート造の天守が再建されます。
現在の小田原城跡は、本丸を中心に小田原城址公園として整備されています。

アクセス

JR小田原駅から南に300mほど行ったところにあります。

小田原城へ行ってみた

それでは小田原城へ行ってみましょう。

学橋

こちらは二の丸広場につながる学橋です。
ここから南に行くと、馬出門土橋があります。

馬出門土橋と馬出門

馬出門土橋は、馬出門につながる橋です。
馬出門は二之丸の正面に位置する重要な門であり、寛文12年(1672)に枡形型式に回収され、江戸時代初期からずっとこの場所にあったものとされています。

馬屋曲輪

馬出門を入ると、広い馬屋曲輪に出ます。
ここから住吉橋を渡ると、二の丸広場に出ることができます。

馬屋曲輪の隅には二の丸観光案内所があります。
城跡の他の建物とはデザインが異なる建物です。

住吉橋

馬屋曲輪から二の丸へ向かうときには、この住吉橋を渡ります。
渡った先には銅門があります。

銅(あかがね)門

銅(あかがね)門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門でした。
江戸時代のほぼ全期間をとおしてそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。
現在は同じ場所に平成9年に復原された銅門が建っています。

銅門広場と二の丸広場

銅門を抜けると、現在は銅門広場・二の丸広場へと出てきます。
小田原城内でも最も広い曲輪になっています。

銅門礎石

明治に取り壊された銅門の礎石として使われていたと考えられている礎石です。

銅門土塀模型

礎石の隣には、往時の銅門土塀の模型が展示されています。

隅櫓

二の丸にある隅櫓です。
江戸時代、小田原城には5棟の二重櫓と1棟の平槽がありました。
明治の廃城によって、天守をはじめ城内の建物が解体されましたが、この平櫓だけは小田原城内唯一の建物として残されました。
しかし、関東大震災により失われてしまうこととなってしまいます。
この写真に写っている隅櫓は、関東大震災後に再建された平櫓で、二の丸隅櫓とも呼ばれており、江戸時代のものとは異なり、大きさは一回り小さいものとなっています。

本丸東堀跡

小田原城の本丸は周囲をが囲んだ作りになっていました。
二の丸から本丸まではこの堀で区切られており、そこを渡る橋が常盤木橋でした。

常盤木門

常盤木門は小田原城本丸の正門で、場内でも最も大きく堅固に造られたもんでした。
現在の門は、昭和46年(1971)に再建されたものです。

本丸と天守閣

小田原城本丸は、西端に天守閣が建ち、中央にはかつて本丸御殿がありました。
本丸の東には、正門にあたる常盤木門(ときわぎもん)、北側には、裏門にあたる鉄門(くろがねもん)がありました。

天守台には天守閣が建てられていましたが、初代の物は元禄8年(1703)の地震で倒壊・焼失しました。
その後、宝永3年(1706)に再建され、明治まで存続しましたが、明治3年(1870)の廃城に伴って取り壊されました。
天守台に現在建っている天守閣は、昭和3年(1960)に再建された鉄筋コンクリート造のものです。

かつてあった本丸御殿は、寛永7年(1633)に徳川家光が宿泊するために建設されたものでしたが、天守閣と同じく元禄9年(1703)の地震により焼失してしまい、それ以来は再建されませんでした。

内部は展示物が並べられた博物館になっています。
残念ながら城内は写真撮影が禁止となっています。

いかがだったでしょうか。
関東一円を統べていた城ということで、天守はもちろんですが、その縄張りから城下町づくりと、地域が一体となって強固な防衛力を持った城ではないでしょうか。
城内は展示物が多数展示されていますが、残念ながら撮影をすることができなかったため、その詳細はぜひご自身で見てみてください。