293【沖縄紀行】沖縄戦の激戦、そして史跡の中でも、その雰囲気は…『旧海軍司令部壕』

九州・沖縄地方(Kyusyu/Okinawa)
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美しいビーチ。
暑い中で活力がつきそうな食べ物の数々。
おおらかな現地の人々。
歴史ある建造物の数々。

沖縄は日本のリゾート地としてその地位は確固たるものになりましたよね。

しかし、そんな沖縄と切っても切り離せないのが先の大戦での負の歴史の数々です。
これまでも、ひめゆりの塔や米軍基地などの記事を書いてきましたが、今回も沖縄戦の生々しさを今もなお伝え続けている戦争史跡です。
今回紹介している旧海軍司令部壕は、戦時中に沖縄の那覇空港近くにある丘の中を掘って造られた壕です。

現在その壕の中は入って見学をすることができますが、実際に入ってみると明らかに他の戦争史跡などとも比べて、空気が変わるような感じがしました。
それもそのはずで、沖縄戦終了後から数年後、この海軍司令部壕はアメリカからの集中攻撃で崩壊させられた状態でした。
そしてこの壕内では、2300名余りの遺骨が収集されたのです。

この狭く、小さい壕の中で非業の死を遂げた多くの人々。
今となっては想像もできない状況ですよね。
しかし、今を生きる私たちにとっては、沖縄の真実を知ることができる史跡として、多くのことを学ばせてくれる史跡なのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 沖縄戦の激しさ、生々しさを肌で感じることができる戦争史跡。歴史と向き合える時には訪れて見るべき史跡です。

※今回の記事では、壕内の写真はありません。実際に撮影しようと思いましたが、その雰囲気があまりにも生々しさを伝えてくるものであったため、撮影は断念しました。写真等を見たい方は、他サイトをご参照ください。

沖縄の戦争史跡に関する記事です。

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旧海軍司令部壕

アクセス

ゆいレールの奥武山公園下車、バスで1km南下し、宇栄原団地前下車で徒歩5分で到着します。

旧海軍司令部壕とは

旧海軍司令部壕は、那覇空港から東に1kmほどに位置する沖縄戦の際に使用された壕の跡です。
ここは、大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕であり、丘の中一帯が壕として造られています。
現在は、旧海軍司令部壕として一部が公開されており、この壕を含む周辺一帯は海軍壕公園として整備されています。

旧海軍司令部壕は昭和19年(1944)に当時の軍事拠点であった小禄飛行場(現在の那覇空港)を守るための防空壕として、位置的に飛行場を見下ろすことができる丘(標高約75m)が選定され、壕が造られることになりました。
その設営に当たっては、もちろんのこと最高軍事機密であるために、民間人に対しては全て秘密裡に行われ、延べ3000人の軍人が、つるはしやくわを用いて、手作業によって工事が行われました。

内部には次の部屋や設備があります

・坑道: 全長約450mからなる坑道があり、それぞれの部屋につながっています。
     この坑道通路は全て兵士たちの兵員室であり、兵士たちは横になって休息を取りました。
・幕僚室: コンクリートで補強された部屋であり、幹部幕僚たちがここで手りゅう弾自決を行いました。
      その時の破片が壁面に飛び散った痕跡が現在も残されています。
・司令官室: 司令官だった大田実海軍中将の墨書が壁面に残されています。
・作戦室: 作戦を練るための重要な部屋で、コンクリートや漆喰でしっかりと塗り固められています。
・医療室: ここを中心に多数の負傷者がいたということです。
・下士官室: 沖縄戦終結間際になると、壕内に4000名も兵が集まっていたことがあったそうです。
       その時はここにも隙間もないほどの兵士たちがここに入り、睡眠もたったままとるような状態だったようです。
・発電所: 壕内に3ヶ所ありました。

旧海軍司令部壕壊滅から発見までの経緯

沖縄戦は昭和20年(1945)の3月から始まります。
アメリカ軍の進軍によって、日本軍は劣勢を極め、首里付近を中心としていた日本軍は5月沖縄本島南端部への撤退を決めます。
海軍司令部壕にいた海軍もこれに合流するため移動を開始しますが、命令の行き違いによって再び壕へ戻ります。
引き返したことにより、ここを拠点としていた海軍は陸軍と豪州することができなくなり、海軍司令部壕付近は孤立する状況となります。

6月に入るとがアメリカ軍は小禄飛行場の北部から上陸し、司令部壕のある那覇市南西部を包囲します。
11日、海軍司令部壕にアメリカ軍による集中攻撃が加えられ、この地に残った隊は壊滅します
13日に大田実司令官が幕僚室で自決を遂げ、この地における戦闘は終了し、後に沖縄戦は終結を迎えます。

その後、旧海軍司令部壕は放置され続けますが、昭和28年(1953)に司令部壕が元海軍部隊隊員によって確認されます。
しかしそこは、崩壊した入り口の奥は、雨水などが流れ込み水に埋もれている状態でした。
その後、壕内からは大田司令官をはじめ800名以上の遺骨が収集され、さらに5年後には1500名以上の遺骨が収集されました。
現在そこで見つかった遺骨などは海軍慰霊之塔に祀られています。

旧海軍司令部壕への入り方

壕の入り口は丘の頂あたりにあります。
旧海軍司令部壕ビジターセンター・資料館が建てられており、この施設内から壕へと入ることができるようになっています。

昭和45年(1970)には、全長450mあった壕内の内300mの区域が復元され、一般公開されるようになりました。
上の写真は壕の出口になります。
出口を出るとすぐそばに海軍壕売店があります。

現在は周囲が海軍壕公園として整備されており、遊具なども設置されているため、地域住民の憩いの場として親しまれています。

いかがだったでしょうか。
今回紹介した旧海軍司令部壕は、沖縄に数ある戦争史跡の中でもかなりキツい部類に入りかねない史跡でもあります。
その分、この沖縄が経験したリアルな戦争がひしひしと伝わってくるところでもあるのです。
なかなか万人におすすめできるポイントでもないのですが、沖縄が乗り越えてきた歴史を知るということも今を生きる自分たちにも大切なことなのではないでしょうか。