297【京都紀行】明智光秀によって統治され、今も数々の言い伝えの残る『福知山城』

百名城/続・百名城(Castle)
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2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』。
このドラマの影響で、明智光秀にまつわる城がにわかに注目を集めてきましたね。
ドラマの中でも登場した坂本城をはじめ、明智光秀に関係する城はいくつもあります。
その中でも、明智光秀が武功をあげた丹波攻め、その平定後に築城された城として、福知山城があります。
実際に光秀がここに滞在した期間は短かったものの、当時の要地であった京、そして山陰地方に向かう要所としてこの福知山城はかなり重要なポイントであったことがうかがえます。

そんな福知山城ですが、現在は天守も復元され、小高い丘の上に立つ天守は、街のシンボルともなっています。
多くの桜の木も植林されており、桜の名所としても有名な憩いの場所となっています。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 今もなお明智光秀の名が残る福知山の地。復元天守ではあるものの、その再現性の高い天守は必見です。

明智光秀に関する城の記事です。

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福知山城

福知山城は、現在の京都府福知山市にある平山城です。
古くは丹波国にあり、江戸時代には福知山藩の居城でもあった場所です。

この福知山城は特に2020年に有名になった城ではないかと思います。
それはなぜかというと、この城が明智光秀の城として有名だという点からです。
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』によって多くの人の目に留まり、これからますます訪れる人が増える城の一つになるでしょう。

福知山城の歴史

この地には明智光秀が関わってくる以前は、室町時代にこの地域の国人であった塩見氏によって掻上城(のちの横山城)を築城したことが始まりとされています。

そして時代は織田信長が力をもち、この丹波国の地もその手中におさめることとなります。
畿内をほぼおさえた織田信長は、その勢力を西に広げていくために、中国攻めを開始します。
その際に、家臣である豊臣秀吉と明智光秀を先鋒として進軍していくことになるのですが、豊臣秀吉が山陽道から進軍し、明智光秀は山陰道から進軍していくこととなります。
そのため、明智光秀はまず丹波国をおさえる必要がありました。
天正3年(1575)ころから始まった明智光秀による丹波攻略ですが、この地にいた有力な武将たちとの戦いがあり、平定までに5年ほどの歳月を要しました。

丹波国を平定した明智光秀は、元は横山城だったこの地に、天正7年(1579)に福智山城を築城し、城代にの娘婿であった明智秀満を置きました。
その立地は、標高40mの大地の上にあることと、由良川に囲まれたということから南側を除く三方が天然の要害で囲まれた地です。
光秀は福知山城の築城だけにとどまらず、由良川の流れを変えたり、町に税金の免除特権与えたりするなどして、城下町を育てることもぬかりなく行いました。
その時の行いが、今もなおこの地の人々に強く伝えられているのだそうです。

その後、明智光秀は本能寺の変によって失脚していき、福知山城も明智の手から離れます。
実際に明智光秀が福知山城に罪状下期間は3年ほどだったのだそうです。

江戸時代に入ると、福知山城には有馬氏が入城し、現在の城郭や城下町が設けられます。
その後幾度か城主が入れ替わりますが、寛文9年(1669)に朽木氏が入城し、明治の廃城にいたるまでの約200年間をこの朽木氏の一族13代によって統治されます。
廃城令に伴い、次々と城内の建造物は解体もしくは寺社へ移設されたりなどしました。

近代の福知山城

現在この敷地は福知城公園として整備されています。
また、天守台には昭和61年(1986)年に復元された三重四階の大天守とそれとつながった小天守が建っています。
この復元天守は、その外観は資料に基づいて木造で建築されていた当時の天守を忠実に再現していますが、内部の構造は鉄筋コンクリート造となっています。
実際に当時の服地山城天守の写真とも比較が行われたようであり、ほぼ正確な再建になっていることは確認できているそうです。

2017年には続日本百名城に選定されました。

アクセス

JR及び京都丹後鉄道の福知山駅より徒歩15分で到着します。

福知山城へ行ってみた

それでは福知山城へ行ってみましょう。

駐車場から天守のある丘には上の写真にある昇龍橋がかかります。

その先には小高い丘の上に続く福知山城が見えます。
ここからのながめがかなりフォトジェニックな印象もあります。

福知山城にやってきました。
昇龍橋側を振り返りました。
ではここからは城域内へと入ります。

本丸下石垣

福知山城天守には、天守廻りを緩やかな登りが続いています。
明治6年(1873)の廃城令によって、建物だけでなく、堀も石垣もかなり失われてしまいました。
石垣としては天守台と本丸の石垣が残されています。
積み方の特徴は「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」といった、自然石をそのまま積む構法が用いられています。
本丸を支える石垣をながめながら登っていきます。

福知山城の石垣でもう一つ有名な点が、転用石です。
これは、寺院や墓所といったところから石材を持ち寄って、石垣の材料として転用しているものです。
築城当時には、明智氏の治政に反抗的な近隣の社寺を打ち壊し、宝篋印塔や五輪塔、石塔などを石垣に転用したのではないかともいわれています。
現在確認されているだけで、石垣に組み込まれているものが約90点、石垣内部から出土したものが約250点、近代以降の積みなおしの部分にも約70点利用されていることが確認されています。

天守

現在建っている天守は、三重四階建ての大天守で、そしてそれに連なる二重二階建の小天守があります。
鉄筋コンクリート造とは思えないほどの再現性の高さではないでしょうか。

しかし、残念ながら訪問した時には内部に入ることができませんでした。
理由については後述します。

実は訪問時、天守内で将棋の竜王戦が行われていました。
残念ながらそのために内部に入ることはできませんでしたが、特別に続日本百名城スタンプだけは押させてもらうことができました。

復元鯱瓦

福知山城天守再建時に復元された鯱瓦であり、天守閣の横に設置されています。

豊磐井(とよいわのい)

本丸には一つの井戸が残されています。
この井戸は豊磐井(とよいわのい)と呼ばれる井戸であち、朽木氏時代に造られたものと思われています。
井戸の深さは50mあり、城郭本丸内にある井戸としては日本一の深さがあるのだそうです。

銅門脇番所

銅門(あかがねもん)番所は、銅門の脇にあった番所でした。
元々は二ノ丸の登城路付近にあった銅門番所は、大正5年(1916)に天守台に移築されました。
しかし、昭和59年の天守再建に伴って、天守台横の現在の場所に移築されました。

転用石

本丸一角には、福知山城の石垣から見つけられた転用石が一角に並べられています

いかがだったでしょうか。
廃城によって建造物やその縄張りも一旦は崩されてしまいましたが、市民の人々から熱望され今もなお荘厳な姿を私たちに見せ続けてくれている城です。
見どころのある石垣や、再現性の高い天守など、多くの楽しみがある城でした。