300 第六回『わきみち ぶるじゃらん』アクセス数調査(226~275)

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Blog更新300回達成しました。
5月から始めた当ブログですが、一日も欠かさず年を越し、1年間毎日更新も視野に入ってきました。
今後ともよろしくお願いいたします。

今回は50回ごとに行っているアクセス数調査です。
No226~No.275の50記事のアクセス数で調べました

今回ピックアップした遺産のうち3つは、以前紹介した負の遺産という側面を持った場所の記事が入りました。

271【ピックアップ】世界に残る数々の負の遺産のもつ意味と役割とは
世界には輝かしい歴史を現代の我々に伝えてくれる遺跡や史跡が多数ある一方で、それとは異なった理由でその姿かたちを現代まで残そうと尽力されているものもあるのです。俗にいう"負の遺産"と呼ばれるものです。

旅をしていると、楽しいところもたくさんある反面、様々な複雑な歴史が絡み合った場所があることも確かです。
しかし、そこをしっかりと学ぶことで、同じ場所でもより深く理解し、さらに知っていきたいという興味・関心に結びついたりもします。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 直視するのも難しい歴史を持つ場所も世界にはたくさんあります。しかし、そこから知ることができる部分はとても多いのです。

旧奴隷市場の残る『ザンジバル島のストーン・タウン』

アフリカ大陸はタンザニアにあるザンジバル島のストーン・タウンの妄想紀行です。

254【妄想紀行】負の遺産「旧奴隷市場」がある、残虐で非人道的な状況を深く学ぶことができる『ザンジバル島のストーン・タウン』
タンザニアの東に浮かぶ群島であるザンジバル島には、今もなおこの島を語るときに外すことのできない『奴隷』の貿易が行われていた旧市街ストーン・タウンがあるのです。。今回は、妄想紀行でタンザニアの世界遺産『ザンジバル島のストーン・タウン』へと行ってみましょう。

タンザニアにある「ストーン・タウン」は、2000年に世界遺産に登録されました。

ストーン・タウンが世界遺産に登録されたのは、この島が辿ってきた悲しい歴史を物語っている負の遺産が残されているからなのです。
負の遺産とは、ここが奴隷貿易の中心であったこともあり、そのときに活用されていた旧奴隷市場が残されているのです。
これらの残された史跡から、この地で行われていた非人道的な歴史を学ぶことができる場所なのです。

そんなストーン・タウンの負の遺産「旧奴隷市場」は、元々はアラブ商人たちによって始められ、東アフリカ全域から集められた奴隷がここで売買され、1873年に奴隷市場が閉鎖されるまで行われ続けていたのでした。

現在はその跡地の北半分にはアングリカン大聖堂が建てられています。
南半分にはまだ旧奴隷市場が残されており、奴隷たちが収容されていた部屋がそのまま残されています。
ここでの歴史を象徴するように鎖につながれた5人の奴隷の石像も立てられており、ここが元は奴隷市場であったことを物語っています。

ベトナム戦争の戦禍を受けた遺跡『ミーソン聖域』

次はも世界遺産です。
ベトナムの世界遺産では最も古い年代の世界遺産であるミーソン聖域についてです。

258【ベトナム紀行】ベトナム戦争の戦禍を乗り越えた7~13世紀にかけての遺構群『ミーソン聖域』
ベトナムには数々の世界遺産がありますが、歴史の重みを感じられる遺跡としてはミーソン聖域がとてもお勧めです。チャンパ王国によって造られた遺構がとても貴重なものなのですが、それに加えてここがベトナム戦争の惨禍にまきこまれた遺跡だということも重要なポイントなのです。

ミーソン聖域は、ベトナムの中部から南部にあった7~13世紀のチャンパ王国時代のヒンドゥー教シヴァ信仰の聖地です。
数多くのレンガ造りの遺跡等が多数残されています。

しかし、ミーソン聖域は、ベトナム戦争のアメリカ空軍・B-52の爆撃によって大半の遺跡が破壊されています
残っている遺跡の中にも、この時に破壊されたものが多くあります。
また、爆弾によってできたクレーターが遺跡のすぐそばにあったりするところからも、戦闘の激しさがうかがえます。
また、多数の盗掘被害にあっており、チャンパ時代の歴史を物語る数々の美術品が失われています。

ミーソン聖域は、1999年にユネスコの世界文化遺産に古都ホイアンと共に登録され、遺跡地区はとても見やすく整備されており、とても見やすい世界遺産となっています。

さわやかな沖縄にあって、悲しい雰囲気を物語る『ひめゆりの塔』

次は、沖縄戦の惨禍を現在に伝え続けるひめゆりの塔です。

270【沖縄紀行】沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴する平和祈念資料館を併設している『ひめゆりの塔』
ひめゆりの塔は、沖縄戦の際に戦争に従事させられていた多くの学徒が最期を遂げたガマ(自然洞窟)に建てられています。実際にその場に訪れてみると、沖縄の美しい自然の中に、もの悲しい雰囲気が漂っている場所です。

ひめゆりの塔は、太平洋戦争沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた、伊原第三外科壕に建つ慰霊碑です。
この場所には、南風原陸軍病院の第三外科が置かれ業務が続けられました。
しかし、米軍が迫ってきた中で、伊原第三外科壕は敵襲を受け大規模な被害を受けます。
壕にいた96名のうち奇跡的に生き残ったのはひめゆり学徒隊の生徒が4名と軍医が1名のみでした。

壕を脱出できた人々もいましたが、沖縄最南端の断崖に追いつめられて、多くは消息をたち、南風原陸軍病院に勤務した全看護要員の三分の二がこうして最後をとげました

ひめゆりの塔はこのような凄惨な最期を遂げた人々の慰霊のため、真和志村民の協力により建てられ、沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員16名、そして生徒200名の戦没者を合祀しています。

同敷地内には「ひめゆり平和祈念資料館」もあります。

江戸時代の真田一族の居城だった『松代城』

次は、江戸時代まで生き延びた真田幸村の兄である真田信之から始まる真田一族の居城だった松代城です。

244【長野紀行】真田幸村の兄 真田信之から十代続いた江戸時代の真田氏の居城『松代城』
真田一族は関ヶ原の戦いの際に、真田幸村は豊臣方に、兄である真田信之は徳川方についたのでした。結果としては、徳川方が勝利して後の世を作っていくことになるのですが、徳川方についた真田信之を祖とする真田家は、上田の地から移封された松代の地で、脈々と受け継がれていくのです。

松代城は、江戸時代を通して明治の廃城までの約250年間、松代藩藩主の真田家の居城でした。
元々の築城については年代は不明です。
しかし、この立地は、戦国時代のかの有名な武田信玄や上杉景勝などにとっては、軍事・政治的に重要な拠点なのでした。

1600年の関ヶ原の戦いの後には、城主に森忠政が入り、二の丸・三の丸の整備や、土塁を石垣に築きなおしたそうです。
その後、上田城から真田信之が松代城に移封となり、以降、明治4年(1871)の廃藩置県までの約250年間、松代藩真田家の居城となりました。
明治に入り廃城となった後に建物が取り壊されました。

近年、松代城は本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定され、太鼓門、北不明門、堀、土塁などが復元されました。

漆黒のフォルムが印象深い『岡山城』

最後は、漆黒の天守から烏城とも呼ばれる岡山城です。

234【岡山紀行】現代まで残っていれば…と悔やまれる漆黒のフォルム『岡山城』
岡山県の百名城も数多く紹介してきましたが、今回はいよいよ中心地にある岡山城です。見た目が漆黒の特徴ある天守であり、一度見ると印象に残る城です。そんな岡山城ですが、関ヶ原の戦いで勝敗を決した歴史的な裏切り者、小早川秀秋の居城だった城なのです。

岡山城は、江戸時代には岡山藩の藩庁が置かれました。
個の城には、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に鞍替えしたことで有名な小早川秀秋が筑前の国・名島から入城しますが、わずか2年余りで急死したため、小早川家は断絶したため、姫路城主池田輝政の子、池田忠継が入ります。
以後は池田家の時代が明治維新まで続きますが、明治の廃城令によって廃城となります。

天守をはじめ城跡は戦前まで残っていましたが、大半が市街地となって、本丸も学校用地に転用されました。
しかし、太平洋戦争の岡山空襲によって天守と石山門が消失し、月見櫓と西手櫓のみが残ります。
現在の天守は、昭和41年に復元されたものです。

今回は、その場所から数多くのこと学ぶことができる、わきみちぶるじゃらんのらしさのでたラインナップになったのではないかと思います。
今後も継続して更新を続けていきますので、よろしくお願いいたします。