305【ペルー紀行】人々が釘付けになったテロリズムTVショーの舞台『旧在ペルー日本大使公邸』

ペルー(Peru)
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1996年の12月。
連日のようにテレビをにぎわしていたとある事件があったことを覚えているでしょうか?
思えば2000年代のアメリカ連続爆破テロ事件から始める”テロ“という名前が一般的になってきた数々の事件は、ここが発端だったかもしれません。

1996年の12月17日、ペルーの首都リマの日本大使公邸では、天皇誕生祝賀レセプションが行われていた最中でした。
突如隣家の塀が爆破され、覆面をつけた男たちがレセプション会場になだれこみます。
瞬く間に会場にいた600人が人質となり、そこから4か月間にもわたる攻防が繰り広げられることになったのです。
これがかの有名な在ペルー日本大使公邸占拠事件なのです。

連日公邸の様子がテレビで流され、この一時期はある種毎日の風景のような感もあった事件でしたが、その結末もある日突然あっという間に幕引きを迎えた事件だったのでした。

現在、事件の現場となった公邸は、周囲の塀を残して売却されており、公邸自体も別の場所に移されました。
そんな世界的な事件のあった現場に足を踏みいれてみたのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • その扉にはまざまざと銃弾の跡が・・・。世界的な事件の現場は、いったいどうなってしまったのでしょうか。

ペルーに関する記事です。

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在ペルー日本大使公邸占拠事件

在ペルー日本大使公邸占拠事件は、平成8年(1996)の12月17日から平成9年(1997)の4月22日までの4か月間発生していた、ペルーの首都リマで起きたテロ事件です。
多くの新聞やテレビの取材陣が押し寄せたため、日本のテレビでは連日テロリズムショーのように公邸の様子が逐次報道され続けた事件であったため、今もなお記憶に残る人は多いのかと思います。

平成8年(1996)の12月17日夜に、ペルー日本大使公邸では、天皇誕生日の祝賀レセプションが行わており、多くの人々が公邸に集まっていました。
そのさなかに、隣家の塀が破壊され、そこからトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の14人が侵入し、大使館員やペルー政府の要人など約600人を人質にします。

MRTAは侵入した構成員の数に対し人質の数が多すぎたため、女性や老人子どもなどを優先的に開放していき、最終的に女性は全て開放されることとなり残った人質は全員男性の70名ほどとなります。
ただし人質は公邸の中では比較的自由にできていたようであり、長い拘束生活が続いたことで、MRTAのメンバーともコミュニケーションを取ったりすることも珍しくはなくなっていたそうです。

日本政府としては平和的解決の道を探っていたようですが、ペルー政府は当時のフジモリ大統領の意を受けて、武力突入に向けて作戦立案やシミュレーションに着手していきます。
突入にむけ、公邸周辺の家屋から公邸地下まで7本のトンネルの掘削が秘密裏に開始されます。

そして事件発生から127日後である4月22日に劇的な幕切れが起こります
チャビン・デ・ワンタル作戦と名付けられたこの作戦は、ペルー海軍特殊作戦部隊と軍、警察が連携して公邸に突入し、人質71人を救出しました。
掘削を続けていた地下トンネルと、正門からと部隊が突入します。
ほとんどの人質は無傷で解放されますが、複数の重軽傷者と3名の死者を出しました。
MRTA構成員は、侵入した14名全員が射殺されました。
また、当時この突入の様子もテレビで大々的に流されたのでした。
膠着状態が連日続き、大きな変化がないニュースとなっていたこの事件も、この日ばかりはこの突入シーンが繰り返し繰り返し報道されたのでした。

事件後新たな在ペルー日本大使公邸は同地区の別の場所に移転されました。
二度と同じような侵入が行来用にするため、大幅にセキュリティーが強化された造り代わり、公邸での大規模なパーティや式典もほぼ行われなくなりました。
そして事件現場となった旧公邸後に残っていた建物は全て取り壊され空き地となり売却されましたが、現在も外周の塀と扉は残されています。

アクセス

旧在ペルー日本大使公邸へ行ってみた

それでは旧在ペルー日本大使公邸へ行ってみました。

塀の上にフェンスの張られた一角が見えてきました。
ここが1996年の事件の舞台となったところです。
70m四方の敷地を上記の兵とフェンスが囲っています。

公邸の入り口ドアにやってきました。
敷地内の建物は取り壊されていますが、このように塀と玄関の門は残されています。

このドアは近くによって見てみると、無数の弾痕が残っているのが分かります。
今ではすっかり観光名所の一つになっているようです。
当時の攻防の激しさを物語っている遺構です。

いかがだったでしょうか。
2021年から考えると、すでに四半世紀前の出来事なので、ほとんどの人々の記憶からは消えかかっているのかもしれませんが、実際に海外ではありえてしまう出来事でもあるのかと思います。
出来事を風化するのではなく、この経験を活かして二度とこのような出来事に人々が巻き込まれないように対策を講じていくことが大切なのでしょうね。