311【福井紀行】対朝倉氏の拠点になった山城『佐柿国吉城』

百名城/続・百名城(Castle)
この記事は約6分で読めます。

大河ドラマ『麒麟がくる』でも舞台となった話がありましたが、織田信長・徳川家康勢が越前朝倉義景氏を攻め落とすため、その拠点となったのが、今回紹介している福井県にある佐柿国吉城です。
この戦いでは、信長の妹婿であった浅井長政の裏切りによって、信長軍は退去せざるを得ず、その際に最後に敵をひきつける役割である殿(しんがり)を務めたのが後の豊臣秀吉である木下藤吉郎秀吉でした。

このように、この佐柿国吉城は歴史上の織田・豊臣・徳川の三英傑が一同に会した場所でもあるのです。
江戸時代に廃城となってしまってからは、佐柿国吉城の主要な建造物は荒廃し、現在ではその跡を辛うじて残すのみですが、この険しい山上には、朝倉軍の幾度となく繰り返された猛攻があったにもかかわらず陥落しなかった、難攻不落の城が建てられていたのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 度重なる侵攻にも落ちなかった、守り易く攻め難い堅牢な山城を見に行ってみよう。

福井県の城に関する記事です。

278【福井紀行】土塁と空堀の多重防御構造がダイナミックに残る『玄蕃尾城』
琵琶湖の北側、標高460mの内中尾山山頂には、玄蕃尾城の遺構が残っています。この玄蕃尾城では土塁や空堀を巧みに配し、強固な防衛力を持った縄張りでありつつ、天守台を中心に計算的に配置された構造は、現存する山城の中でも、もっとも発達したものの一つともいわれています。
273【福井紀行】北陸地方に唯一残る現存天守『丸岡城』
今回は北陸に唯一残る現存天守、福井県の丸岡城について紹介していきたいと思います。現存天守の風格漂う、見に来た人々が大満足できる天守です。その造りをじっくりと眺めてみると、豪雪地帯である北陸ならではの工夫が施された、当時の建築手法がよく伝わる天守となっているのです。
073【福井紀行】500年の時を超えて表れた日本のポンペイ 一乗谷城跡(一乗谷朝倉氏遺跡)
北陸地方の福井県にもたくさんの有名な城や城跡が残されています。福井県一乗谷にある一乗谷朝倉氏遺跡もその一つです。かの有名な朝倉氏の築いた城下町ということで賑わいを見せています。この一乗谷ですが、観光客に興味を持ってもらおうと、面白い試みが行われているのです。

佐柿国吉城

佐柿国吉城(国吉城)は、若狭国守護大名武田氏の重臣であった粟屋越中守勝久が、弘治2年(1556)に築いたといわれている山城です。
標高約198m地点に本丸を構え、北西に延びる切り立った尾根上に曲輪を配した、守り易く、敵からは攻め難い城でした。
時期を同じくして、武田家では跡継ぎ問題がおこり、新たな当主武田義統に不満をもった勝久は、反乱をおこします。
その後、永禄6年(1563)から数年におよび武田氏の親戚である朝倉氏が、報復として幾度なく国吉城に攻めてきました。
以降は、天正元年(1573)に朝倉氏が滅びるまで、毎日のように浅倉勢からの度重なる攻撃に対して、粟屋勢は国吉城に籠城して撃退し、結果として国吉城は落ちることなく、城を守り通したのでした。
この戦いの様子は、軍記である『国吉籠城記』にも記され、江戸時代に広まったのだそうです。

その後、元亀元年(1570)になり、天下統一を目指す織田信長・徳川家康連合軍がが朝倉氏を攻めるために、粟屋越中守勝久氏に迎えられ国吉城に入ります。
信長はこの国吉城を越前攻めの最前線の拠点とし、戦略を練り、越前国敦賀に出陣していきます。
この戦いは、信長・家康の連合軍は破竹の勢いで振興していきますが、信長の妹婿であった浅井長政の裏切りに会い、信長勢は急いで京都へ退却します。
その際に木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)の殿(しんがり)によって信長は京へ無事退却します。
信長をてこずらせていた浅井・朝倉両氏ですが、同年6月に姉川の戦いによって両軍を打ち破り、天正元年(1573)に両家を滅ぼします。

このように国吉城では、これから時代をつくっていく、信長・秀吉・家康の三英傑が結集した城なのです。

国吉城跡の麓に位置する佐柿の町は、江戸時代より続く町並みや自然景観などが残る場所です。
天正11年(1583)に国吉城主となった豊臣家臣の木村常陸介定光によって、それまでは小集落でしかなかった佐柿の町の整備に着手しました。
丹後街道を、国吉城麓を経由するように付け替えると共に、その通りに面して100軒余りの町家が並ぶ城下を整備します。
また、関ヶ原の合戦後に若狭国領主の京極高次によって慶長9年(1604)の大火で被災した佐柿の復興に取り組みました。

江戸時代に入り、国吉城は廃城となりますが、寛永11年(1634)に小浜城主酒井忠勝によって、奉行所と、藩主たちが休息所とする御茶屋屋敷を設置され、以降は丹後街道の宿場町として繁栄していきます。

アクセス

JR小浜線の美浜駅から徒歩25分で到着します。

佐柿国吉城へ行ってみた

それでは佐柿国吉城へ行ってみましょう。

麓から見上げた佐柿国吉城

麓から山上の佐柿国吉城をながめてみました。
写真ではよくわかりにくいですが、上の写真中央のあたりに佐柿国吉城の遺構が残されています。

准藩士屋敷跡

麓には、准藩士屋敷跡が残されていました。

若狭国吉城歴史資料館

平成21年開館の若狭国吉城歴史資料館には、国吉城址と、城下町である佐柿の町並みを紹介する資料館です。
様々な史料や発掘調査の結果出てきた出土品もあり、佐柿450年の歴史を知ることができます。

続日本百名城スタンプはこちらにあります。

ここは旧佐柿町奉行所から移築された座敷なのだそうです。
殿様気分で記念撮影ができますよ。

佐柿国吉城のジオラマです。
山城と麓の城下町、そして街道との位置関係が一目瞭然です。

佐柿国吉城

それではいよいよ登城します。
30分ほどの急な登山道なので、準備はしっかりとしておきましょう。

城主居館跡

麓にあったとされる、城主居館の正面虎口と推定されている場所です。

城主居館跡の礎石建物群です。
ここでは石段や礎石建物跡が相次いで発見されています。

登山道

注意書きにもありますが、佐柿国吉城跡は、城跡公園として整備されているわけではなく、その大半が民間の私有地です。
そのため、城跡の保存と、むやみやたらに危険な行為をしないなど、自己責任での対応が求められます。

また、野生の生き物が麓まで降りてこないよう、必ずここの扉は閉めるようにしましょう。

二の丸跡

本丸下の帯曲輪段石垣

本丸下の帯曲輪段石垣です。

本丸下北側堀切

本丸下北側の堀切です。

本丸北西虎口跡

本丸北西虎口跡です。
ここは本丸正面に位置付けられた重要な門でした。
現在、虎口空間を形成する石垣、門の礎石、本丸へ上がる石段跡が確認されています。

石垣は自然石が主ではありますが、一部に福知山城のような五輪塔や石仏を石垣に転用した転用石も用いられています。

本丸跡

ここは、国吉城の本丸跡です。
現在城址碑が建てられていますが、これは大正時代に建てられたものです。
東西約70m、南北約30mの敷地内にの北西側と東側に虎口が配されています。
虎口付近や斜面の周囲には石垣が築かれていたと考えられています。
また、城山の所々に、粟屋氏による国吉籠城戦の際、朝倉勢に向かって投げ落とした板碑や墓石が散乱しています。

本丸からは、四方へ開けた展望が望めます。

本丸南隅櫓台

本丸の南隅にあったとされる櫓台です。
本丸の中でも高い位置になっており、ここには天守のようなシンボル的建物があったのではないかと考えられています。

いかがだったでしょうか。
実際に行ってみると、非常に大迫力な城でもあり、城下町と城、そして街道とが一体となった雰囲気を感じさせます。
また、佐柿の人々によってこの城が大切に整備され続けてきたのが、登城の様子の写真を見ていただいても伝わってくるのではないでしょうか。
天下を目ざす三英傑が、その夢を実現するための足掛かりとしたこの山城を、ぜひ実際に感じてみていただきたいです。