314【大阪紀行】羽柴秀吉の紀州征伐の拠点。近隣には謎の古城も『岸和田城』

百名城/続・百名城(Castle)
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日本全国に残る城や城跡の中から名城と呼ばれる城が選定されたのが日本百名城です。
この日本百名城は2006年に認定され2007年からスタンプラリーも始まり、じわじわとその人気が上昇してきています。
日本各地、全都道府県から名城が選定されていくわけなのですが、もちろん100の名城を選定するために、その選考過程で選ばれなかった城もあるわけです。

今回紹介している岸和田城も大阪を代表する名城であり、日本百名城の選考過程でも終盤まで残っていた城なのだそうですが、日本百名城には大阪からは『大阪城』と『千早城』が選ばれたため、惜しくも落選してしまいます。

しかし、2017年に、この日本百名城から落選してしまった名城たちにも陽の目が当たります。
新たに続日本百名城が選定され、この岸和田城も大阪の城である『飯盛城』『芥川山城』と共に続日本百名城に登録されました。
この3つの城の中では唯一の平城であり、復興天守も建ち、周辺の町並みも非常にお城を中心とした町並みが見られます。
そのため、駅からも非常に訪れやすい城なのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 南大阪を代表するコンパクトな天守の岸和田城。しかし、その築城などにはまだまだ分からない点が多い城なのです。

大阪の城に関する記事です。

478【大阪紀行】太閤豊臣秀吉が造った城と城下町…って、そうじゃないの??実は地元の大阪人も意外と知らない『大阪城(大坂城)』
太閤豊臣秀吉が整備し、氏が拠点とした大阪城。大阪は太閤さんがつくった街や!!と、大阪の人は言うのですが、現在建っている大阪城は、豊臣秀吉の時代とは縄張りも大きく変わっていますし、天守も違うものですし、天守の位置も実は違うのです。実は大阪在住の人でも知らない人が多かったりします。
304【大阪紀行】その高低差はくじけそうになるほど…。南北朝時代の城『千早城』
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216【大阪紀行】天然の要害である三好山から見下ろす戦国時代の山城『芥川山城』
今回紹介するのはそんな大阪の地にあった芥川山上という城です。以前紹介した飯盛城が、実は三好長慶による三好政権の中心地であったように、芥川山上もその三好長慶が飯盛城に移る前に居城としていた、大坂の地にあった城の中でも最も大規模だったといわれている城なのです。
176【大阪紀行】最後は、畿内の有力大名だった三好家の居城『飯盛城』
かの有名な戦国の三英傑である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が、天下を統一していったことは有名ですが、実は信長よりも前に転嫁を取った天下人がいたのです。その人物は、三好長慶であり、その三好長慶が拠点とした城が今回紹介する飯盛城なのです。

岸和田城

岸和田城は、大阪府南部の現岸和田市にある城です。
江戸時代の岸和田藩の藩庁が置かれた場所であり、2017年には続日本百名城に選ばれています

岸和田城がいつ築造されたのかははっきりしていません。
14世紀には、南北朝時代の南朝方であった楠木正成の配下、岸和田治氏によって岸和田が開拓されたと考えられています。
岸和田はその後に北朝の足利氏の支配下に移りますが、ここまでの時代に岸和田に城が築かれたかどうかはわかっていません。
また、岸和田城跡から約500m南東に、15世紀後半ごろの山城である岸和田古城が見つかっており、ここを破却して16世紀初頭頃に現在地に移築されたのではないかと考えられています。

16世紀を通して、畿内を支配する勢力によって城主は移り変わっていきますが、16世紀後半になって織田信長が紀州征伐を行い、配下の武将が岸和田城に入ります。

時代は羽柴秀吉の時代に入り、紀州征伐の拠点としてそれまでは急ごしらえであった岸和田城の再築城が行われます。
1597年には5重の天守が築城され、その後城下も整備されます。

江戸時代に入り、新たな城主は松平氏に始まり最終的には、寛永17年(1631)に岡部氏が入城し、13代の岡部氏の居城となります。
江戸時代には、岸和田城の位置がちょうど大坂城と和歌山城の中間地点にあったことから、徳川紀州藩の監視の役割も持った城だったのではないかといわれています。
文政10年(1827)には落雷のために天守を焼失しますが、以降は再建されないままに、明治4年(1871)に廃城となります。

現在残っている天守は、復興天守であり、昭和29年(1954)に、連結式望楼型3重の天守が再建されました
その後、多門櫓、隅櫓、櫓門が次々に再建され現在に至ります。

アクセス

南海本線蛸地蔵駅から徒歩3分、もしくは岸和田駅南口から徒歩5分で到着します。

岸和田城へ行ってみた

それでは岸和田城に行ってみましょう。

こちらが岸和田城の入り口です。
千亀利城(ちぎりじょう)と書かれていますが、これは岸和田城の別名です。
かなりきれいに整備されていますね。

岸和田城は、二の丸と本丸で成っており、それを濠が囲むように造られています。
二の丸跡は庭園のようになっており、いくつか飲食店がありました。
上の写真は、二の丸から本丸大手櫓門につながっています。

本丸大手櫓門

こちらが本丸入り口の本丸大手櫓門です。
櫓門ですので2階部分があります。

天守

本丸内部に入ると、すぐに目の前に天守が見えてきました。
コンパクトではありますが、凛々しい佇まいの天守ですね。

岸和田城を中心にした城下の様子です。
当時は何重にも堀が貼られていたのですが、現在は二之丸と本丸を囲む濠以外は埋められてしまったようです。

天守から南方向の眺めです。
紀州監視はこちらの方角でしょう。

お隣には岸和田高校があります。
毎日城をながめながらハイスクールライフをおくることができる希少さを感じ取っているでしょうか。

砂庭式枯山水庭園

天守から本丸中央を見下ろすと、奇妙な模様が見えます。
これは八陣の庭といい、砂庭式枯山水庭園です。
この奇妙な模様の庭園は、諸葛孔明の八陣法をテーマにした石組みが配されています。

なお、そばから見るとこのような雰囲気です。

いかがだったでしょうか。
大阪南部にもこれほどの素晴らしい城が残されているのは驚きではないでしょうか。
現在もなお、この城を中心に今もなお町が盛り上げられていくことを考えると、多くの人々からこの城が愛されていることが分かりますね。
そんな、大阪の名城の一つにぜひ訪れて見てください。